144 求婚と出立の朝
サウス・フォレストでの2日目の夜。
エルナス森林地帯へ入る前の、外での最後の夜。
リーフとテラはいつものように、二人きりのベッドで穏やかな時間を過ごしていた。
「宿での生活はこれでお別れね。明日からはまた野宿になるし」
テラはリーフの腕の中で、囁くように彼に話しかけた。
「野宿はたぶん20日から25日間くらいになるかな。ちょっと長い歩き旅だけど、中心部に着いたら、ぼくたちの定住の地だね」
リーフはテラの額に自身の額を寄せると、優しい瞳で彼女を見つめた。
「嬉しいな。ブライトウッドで暮らしていた頃みたいに、私たちの家で生活するなんて夢みたいよ」
「テラ? ありがとう、ぼくと一緒にいてくれて」
「それは私もだよ? リーフと一緒にいられて、私、幸せなの」
互いの額をくっつけて目を合わせると、恥ずかしそうに照れながら微笑むテラが、リーフはとても愛おしかった。
この瞬間が、この時が、ずっとずっと続くようにと願わずにはいられない。
「あのね、テラ……テラに言おうと思っていたんだけど……」
「うん、なあに?」
「これから村を作るでしょ。それで、村が形になって、生活できるように整ったら、ぼくと……」
リーフの霊核は、きゅうっと締め付けるように縮こまった。
「ん?」
「ぼ、ぼくと……っ」
「……うん……?」
恥ずかしそうに目を伏せたリーフの様子から、一体どうしたのかと、テラは不思議そうな表情でリーフを見ていた。
「ぼくと……けっ、結婚、してくれる?」
「!?」
一瞬、目が点になった。
無意識にパチパチっとまばたきが増えた。
パッと顔を上げたリーフの緑の瞳は、まっすぐにテラを映して、それでも少しだけ揺らいで、不安げにも見えた。
「リーフ……私と、結婚……したいって、思ってくれてたの?」
テラは、リーフからの結婚の申し出を全く予想していなかった。
けれど、心の底から言いようのない嬉しさが込み上げ、言葉より先に涙がこぼれそうになる。
「テラとこれからもずっとずっと、一緒にいたい。……愛する人と一緒にいたいならプロポーズしないとって……知り合いの精霊が言ってた……から……」
リーフは言葉に詰まりながらも、さらに言葉を重ねた。
「ぼくはテラを愛してる。テラと結婚したい……テラをたくさん、愛したい……」
リーフはいつからか、テラとの結婚を思い描いていた。
それは、ファルとリモの結婚やユリアンとカリスの婚約が影響したのかもしれないし、『愛してる』と口にした瞬間からだったかもしれない。
『守り人は"人"だから。愛する女性と共にいたいなら、プロポーズしないとだろう? 人の習慣に合わせるのも大切なことだと私は思っていてね』と言ったジオの言葉を忘れたことは無かった。
結婚が何なのかは、はっきりとは分からない。
けれど、たぶんそれはすごく嬉しいことで、幸せなことだというのは知っている。
そんなリーフが、"ぼくも"と思うのは自然なことだった。
「……ありがとう……リーフ。すごく嬉しい……嬉しくて……っ」
テラはリーフと再契約をしたとき、
『リーフは結婚したいなんて思うのかな』
『結婚という形で結ばれるなんて、そんな夢を見てもいいのかな』
と密かに思っていた。
そんな密かな夢が、叶う未来があるとしたら。
テラは、こんなに嬉しいと思ったのは生まれて初めてだと思えるほどに、嬉しかった。
自然に涙が溢れて、頬を伝った。
「テラ? いっぱい、キスしていい?」
テラの涙を拭うリーフの優しい指先が、わずかに震えていた。
「うん……いっぱいキスしよ……」
リーフの目から零れそうな涙を、テラがそっと拭った。
お互いの涙を拭うと、二人は見つめ合い、抱き寄せ合い、手のひらを重ね、指を絡め合い、口づけを交わした。
『たくさん、愛したい』。
その言葉が、まるで温かな光の粒になってテラの胸の奥へ静かに沈んでいく。
触れた途端、心のどこかが甘く震え、思い描くつもりのなかった未来の情景がふわりと立ち上がってしまった。
――そんなの、考えたら……。
頬が熱を帯び、鼓動が速くなる。
抑えようとすればするほど、甘やかな想像は次々に広がっていった。
リーフの言葉はテラの脳内でぐるぐる駆け巡り、体はジンと熱くなって、部屋にはハチミツよりも濃密な、甘ったるい匂いが充満していた。
もちろんこれは、テラの血の匂いであり、リーフが大好きな匂い。
ドキドキ高揚することで血流が増え、体温も上がり、吐息から、体中から甘く匂い立つ、精霊だけが感じ取れる、甘美な匂い。
その匂いに酔ってしまった昂揚感は、どうすれば満たされるのか。
これまで匂いに酔うことは無かったけれど、テラの期待なのか想像力の賜物なのか、リーフの昂揚感は酔うほどに呼応していた。
リーフは更に熱い熱量で口づけを交わし続け、自分では制御できないほろ酔いの昂揚感をどうにか満たすのだった。
◇ ◇ ◇
翌早朝の午前4時半。
エルナス森林地帯に向かうための最後の宿では、ここまで世話になったアレクとフィリスが、見送りのために早起きをして、宿の玄関に来ていた。
まだ薄暗く、シンと静まりかえる町は、森が近いためかうっすらと朝もやがかかっていた。
「皆さん、おはようございます。いよいよお別れなのですね」
「アレク、ここまで本当にありがとうございました」
テラは改めて丁寧に礼を言い、頭を下げた。
「いえ、僕は無事に目的地まで送り届けるのが仕事ですから」
「本当に助かったよ。馬車も乗り心地が良かった。アレクは御者の中でもかなりの腕だろう?」
「そんな! ファルさんは褒めるのがお上手ですね」
「ははは。本当の事だよ。アレクは王都に戻るんだろう? ここから遠いが、気を付けてな」
ファルはアレクの肩にポンと手を置いて、帰路の安全を願った。
「はい。皆さんもどうかお気をつけて。僕は王都に戻ったら殿下に報告することになっているので、王城に立ち寄ります。何か伝言があれば伝えることも出来ますが……」
アレクからの伝言の申し出は想定外だった。
まさかユリアンへの報告までがアレクの仕事だとは思ってもいなかった。
「そうなのか!? ユリアンは心配性だな」
ユリアンの心配を思うと、ファルは少しくすぐったいような、嬉しい気持ちになっていた。
「ユリアンへの伝言だったら……そうね。森の入口があること、ヒイラギがあること。それと……森の中の目印は……」
目印をどうするかは、まだ決めていない。
テラはリーフのほうをチラリと見た。
「目印もヒイラギにするよ。冬に白い花が咲いて、夏に黒い実をつけるヒイラギだって伝えてもらえると」
リーフはフィリスを見て、にっこりと微笑んでいた。
「わかったわ、リーフ。必ず伝えるわね」
ユリアンとカリスが会いに来るのが何年後になるのか。
そんなことは分からないけれど、きっと会い行くと言ってくれたユリアンに、最後の伝言を頼んだ。
「それじゃ、そろそろ行くか。もう時間になる」
「ええ。行きましょう!」
アレクとフィリスに見送られ、リーフたちは出発した。
朝もやの中に、テラとファルの影が消えていくのを見つめながら、アレクは最後の声をかけた。
「お気をつけて! どうかお元気で!」
ファルが背中を向けたまま大きく手を振っていたけれど、その姿はすぐに見えなくなった。




