115 王城生活17 城内での感染
今日はテラの初めての夜勤の日。
ユリアンとリーフは西側地域の視察に行くため、朝から出掛けることになっていた。
「それじゃ、テラ。行ってくるね。次に会うのは明日の夜かな」
「そうね。明日の夜、リーフが帰ってくるのを待ってるわ。いってらっしゃい」
行ってらっしゃいのキスをして、手を振って別れた。
テラは、明日の夜までリーフに会えないわずかな寂しさを感じながら、もう少し寝ようとベッドに潜り込んだ。
初の夜勤で出勤時間は夕方の5時。
その為に少しでも長く寝ていようと、頑張って寝ることにした。
外は雨模様で、7月上旬の雨は涼し気で、少し肌寒さを感じさせた。
ユリアンの今回の視察は馬車ではなく、雨模様とはいえ、馬を駆って現地へ向かうことになっていた。
そのほうが小回りが利くし、早く移動できるためだ。
リーフは小さい姿に戻り、ユリアンの服の胸元にちんまりと納まっていた。
「そういえばね、とうとう、城内で感染者が出たそうだよ。昨夜、報告があったんだ」
小雨が降り続く王都の石畳を馬で駆けながら、ユリアンは胸元のリーフに話かけた。
「城内で? 誰だったの?」
「兄上の宮殿に勤めている侍女でね。休暇で一昨日まで東側の地域にある実家に帰っていたそうなんだ。昨日の早朝に戻って来て、昼頃には発症していたそうだよ。予防用の薬液を服用して、すぐに治まったから良かったよ」
「外部から持ち込まれるルートとしては、一番あり得る展開だよね」
「そうだね。東側からなのがやっぱり……東側は薬液の配布が後回しになっていたから……どうしても深刻なところからってなってしまうし。でも、今日中には東側にも行き渡ると思うんだ」
「もう、王都全体に広がっていると思って間違いないね」
「それは、そうだね……。最初に採掘場で風邪が出たのは4日……5日前って言ってたかな。その時に、あの村から逃げてきた人たちがいた、ということだから、流行が始まって1週間、いや10日は経っているとみていいと思う」
「10日もあれば十分に広まるよ」
「今はもう、いかに早く、薬液を配布するか。これしかないよね」
小雨の中、ユリアンと護衛の若い騎士は、馬を飛ばして一路、西側の地域へと向かっていた。
王国軍は王都の外縁、西に広がる農村地帯も含め、薬液の輸送と配布に尽力していた。
西側地域一帯は18箇所の施療院に薬液が届けられ、昨日までにほぼ配布が完了し、薬液を服用した症状のある人々は皆、嘘のように症状が治まり、重症化していた人も同様に一命をとりとめ、元気に復活していた。
症状のない人も予防として服用しているため、新たな感染者は確認されず、西側地域では完全に抑え込むことが出来ていた。
ユリアンたちが西側地域に含まれる最初の施療院に到着すると、そこは既に配布が終わり、日常に戻っているようだった。
「特に問題はなさそうだね。ちょっと施療院の人に話を聞いてみるから」
ユリアンは施療院に入っていくと、中にいた中年の女性に声をかけた。
「こんにちは。ちょっとお尋ねしたいのですが……」
「はい、こんにちは。風邪のお薬ですか?」
「いえ、私はユリアンと申します。突然の訪問ですみません。視察に来たのですが、あなたは?」
ユリアンはフードを取ると、淡い紫の髪があらわになった。
口元と鼻は布で覆われていたけれど、優し気な紺色の瞳が女性を見つめていた。
「ああっ! これは失礼をいたしました! ユリアン殿下! 私は手伝いの者です。先生はいま出掛けておりまして、留守を預かっております!」
「そうですか。薬液は足りていますか?」
「は、はい! 足りています! まだ少し余っているので、受け取りに来ていない人がいるかもしれません」
「重症用の薬液はまだありますか?」
「はい、今のところは、おそらく。先生は重症で動けない人がいないか、薬液を受け取っていない人がいないか、確認のために町に出ています。この施療院が担当する地区には、730名ほどが住んでいます。重症用の薬は20名分が用意されていて……確か、18名分は既に昨日、配布されたと聞いております」
18名分の重症用が配布済みと聞いて、ユリアンは一瞬、表情が曇った。
まさかそこまでとは思っていなかったのもあった。
「小瓶は皆が持ってきましたか? 小瓶が無くて配布出来ない、ということはありませんでしたか?」
「はい、小瓶は余っています! 皆、たくさん持って来られまして」
「そうですか。それはよかったです」
全く足りていなかった小瓶が、兄上たちの機転で余るほど確保できている。
重症者の多さに心がざわついたけれど、薬液で助かっている。
その事実に、ユリアンは心から安堵した。
施療院を出たところで、胸元からリーフが声をかけた。
「よかったね、ユリアン」
リーフは胸元から上を見上げていた。
「ありがとう。リーフのおかげだよ。本当に、本当にありがとう」
ユリアンの声は少し震えていて、泣きそうなのかなと思った。
もしかしたら泣いていたのかもしれないけれど、雨で見えなかった。
「ううん。それより、他の施療院にも行ってみる?」
「そうだね。何箇所か回ってみようか」
シトシトと初夏の雨が降り続いていたけれど、そんなことはどうでもよくなるほどに、ユリアンは心から安堵し、それが表情にも見て取れた。
リーフも、そんなユリアンの様子が嬉しく感じられた。
◇ ◇ ◇
昼寝をしていたテラは、ちょっと寝すぎたかなと、なんだか頭が重いような気がしたけれど、少し早めに部屋を出て、薬草研究棟に向かった。
小雨に濡れた石畳と周囲の木々は趣があって、シトシトと降る雨の日のお気に入りだ。
「ふふっ、優しい雨の日って、好きなのよね。草木が元気いっぱいに見えるわ」
てくてくと歩きながら、雨雲を見上げる。
どこまでも続くような厚い灰色の雲は、今日、明日も雨であることを知らせているようだった。
「なんだか、肩が凝っているのかな? それとも変な寝方をしてたかな」
少し肩のあたりが、ずしっと痛むような気がする。
「初めての夜勤で、ちょっと緊張しちゃったかも?」
そんなことを考えながら歩いていると、午後4時、薬草研究棟に到着した。
「お疲れ様です! もう来ちゃいました」
テラが声をかけたのは、研究棟で隣の部屋にいる同僚だ。
ちなみに同じ部屋を使っているエイジーは、昨日が当番明けだったため、今日はお休みだった。
「お疲れ様です。テラ、もう来たのね! あと1時間くらいはあるわよ?」
「ええ、ちょっと楽しみで。それに、日があるうちに薬草園を覗いておこうと思って」
「そうね。今日は雨だから、暗くなるのが少し早くなるわ」
「はい、私、薬草園を見てくるので、皆さんにもよろしくお伝えください」
日が出ていると夕方6時頃までは十分に明るいのだけれど、こんな雨模様の日は薄暗く、夕方5時を過ぎれば、観察しにくくなる。
テラは小雨の降る中、研究棟の裏にある薬草園に足を運んだ。
夕方5時になり、研究棟の同僚たちは帰り支度をしていた。
「あれ? テラは来ていないの? 当番よね?」
「テラは1時間前に来ていたわよ。外が暗くなる前に薬草園を覗きに行くって」
「ああ、そうね。今日は雨だから」
窓の外を眺めると、薬草園が見える。
空は厚い雲に覆われていて、雨が降り続いていた。
「テラ、いるかしら? 見える?」
「あそこにフードが見えるわ。あれじゃないかしら。しゃがんでいるみたいで、ちらっとしか見えないけど」
「ああ! いるわね。雨なのに、まだ外にいるのかしら」
「皆さんにもよろしくって言ってたわ」
「それじゃ、ちょっとここから叫んでみようかしら」
「テラー! テラー!」
「テラー!」
何人かの同僚が窓を開けて、大きな声でテラを呼ぶと、彼女は振り返った。
「私たち、帰るわねー!」
「当番がんばってねー!」
テラはしゃがんだままの姿勢で、手を振っていた。
立てなかったのだ。
どうしよう……
すごく、体が熱い……
これ、もしかして、もしかして……
テラは焦り始めた。
どうしよう、薬、持ってない……
どうして気付かなかったの!?
みんなは飲んでるはず……
いつ、感染した?
どこで??
ふと、昨日の朝出会った見知らぬ侍女が脳裏に浮かんだ。
元気がない様子で、目がうつろで、潤んでいた。
あれは、薬瓶を割ってしまって動揺してだと思った。
けれど、もしかして、あれは発症する直前だった?
私は彼女の手を握った。
テラは自分の手のひらを、見た。
何があるわけではないけれど、この手が、と思った。
リーフ……と思ったけれど、リーフは探しには来ない。
今日は夜勤だと言っている。
リーフと契約をしていない私は、簡単に病魔に侵される。
油断、していた?
確かに油断していたかも……
王城内にいれば、大丈夫だと。
大丈夫、今でもまだ大丈夫。
発症しても、重篤な状態になる人は、ほんの一握り。
私はそんな状態にはならない。
急な発熱に朦朧とする意識の中で、色んなことが頭の中を駆け巡った。
「リーフ……リー…………」
うっと涙がこぼれそうになった。
全身の筋肉が、何日も重労働をした後のように、鉛のように重く、だるい痛みを伴って軋み始める。
まぶたの重さは全身を支配する強烈な倦怠感へと変わり、節々の関節が痛む。
息がぜいぜいと喉の奥で鳴り、酸素が足りない。
涙は雨のしずくになって流れた。
『私はそんな状態にはならない』
そう強く言い聞かせた直後、猛烈な眩暈に襲われ、テラの意識は遠のいた。
彼女は、苦しい息遣いのまま、冷たい夏の雨が降りしきる薬草園の土の上に、音もなく倒れ込んだ。
いつも「刻まれた花言葉と精霊のチカラ 〜どんぐり精霊と守り人少女の永遠のものがたり〜」を読んでいただき、ありがとうございます!
次回『116 王城生活18 死の淵』更新をお楽しみに!




