第1話 虚数の世界
かつて、戦闘空間は陸、海、空の3つのみであった。その後、科学技術の発展により、宇宙空間、サイバー空間が第4、第5の戦闘空間として加わった。更に、タキオンの発見により、第6の戦闘空間が加わろうとしていた。それが、虚数時空間(虚数の世界)である。
陽太は散らかったワンルームマンションの自宅でボーっとテレビを観ていた。テレビからは宇宙旅行のニュースが流れていた。月面基地での滞在型のツアーが売り出されて、高額にも関わらず即完売になったという。陽太はニュースを見ながら呟いた。
「金がほしい…」
ニュースは次も宇宙関連だった。木星にある衛星メティスに、質量が虚数の物質が存在する可能性があるという。この性質をもつ素粒子はタキオンと呼ばれている。タキオンはこの性質により超光速での運動が可能であり、タキオンで宇宙船を作れば過去へのタイムトラベルが出来る可能性があるという。陽太は再び呟いた。
「人生をやり直したい…」
ニュースは続けて、タキオンが存在する可能性のあるメティスへの宇宙探査船の乗組員の募集が開始されたことを伝えていた。応募は20歳から40歳までであれば誰でも可能、適性試験等に合格すれば半年間の訓練の後、メティスへタキオンの調査に向かうという。陽太は興味を持ち、応募してみることにした。
陽太は、書類審査、筆記試験や基礎体力測定などの適性試験、面接に次々と合格し、宇宙探査船の乗組員の最終候補になることが出来た。その後は、他の候補者とともに半年間の訓練を受け、その中から乗組員が決定されることになる。
訓練からは宇宙資源開発研究センターの施設内で行われることになった。そこは宇宙船や人工衛星の研究開発、宇宙船の乗組員の訓練、宇宙資源の研究などが行われる国内最大級の研究機関であった。初めて研究センターを訪れた陽太はその広大な敷地とそこで働く人々の多さ、巨大な施設の数々に圧倒された。広大な研究センター内の移動は自動運転のバスで行われていた。陽太はバスに乗り、訓練の説明会が行われる施設内のビルへ向かった。
説明会が行われるビルの一室へ入ると、他に8人の候補者がいた。全員静かに椅子に座っていた。陽太も椅子に座り待っていると、その研究センターの作業服を着た男性が現れた。
「おはよう。私の名前は山崎良平だ。宇宙探査員の隊長を務めている。今日から君達の指導を行う。よろしく」
山崎さんは40歳前後で体格が良く、鋭い眼光から厳しい人であることが伺えた。陽太は緊張した。
「君達はこれから半年間の訓練を行う。最初は各個人で訓練を行うが、途中から3人1組のチームを作り、そのチームで訓練を行う。最終的に探査員になれるのは1チームのみである。近年は各国が競って宇宙資源開発を行っている。我が国も他国に後れを取る訳にはいかない。探査員の不足を補うため、今回の募集を行った。今回のタキオンの探査員に選ばれなくても、訓練で優秀な成績を修めた者は別のミッションで探査員として働いてもらうことになるだろう」
次の日からすぐに本格的な訓練が始まった。基礎体力強化、宇宙資源に関する座学、宇宙服を着ての歩行や岩石の掘削などの訓練であった。
「今回のミッションでは初めて行く衛星であり、また初めて採取する物質であるため、メティスでのミッションには一切ロボットは使えない。我々自身で探査車を運転してタキオンが含まれていると考えられている岩石のある場所まで行き、ドリルで岩石を掘削し、成分分析を行う。そして、タキオンが含まれていることが分かれば地球に持ち帰る。これらのミッションを宇宙服を着て、メティスでの微小重力下で、また太陽光が十分ではない状況で行うのは大変だ。更にメティスでミッションを行える時間は非常に短い。しっかり訓練してくれ」
訓練は厳しいながらも陽太は充実感を感じていた。そして、あっという間に3ヶ月が過ぎ、次からはチームでの訓練が行われることになった。陽太は中田さん、石川さんと同じチームとなった。
「中田春樹、34歳です」
「石川美佳、27歳です」
「坂井陽太、25歳です」
3人のチームワークは優れていて、ほとんどの訓練でトップの成績を修めた。そして、3ヶ月後、陽太達のチームがタキオンの探査員として選ばれた。
「中田、石川、坂井、おめでとう。よく頑張った。お前達は宇宙探査員の仲間入りだ。しっかり働いてくれ」
それから2ヶ月間、3人は実際のミッションを想定した訓練を行った。
メティスに向けて出発する1週間前、ミッションに向かう山崎さん、中田さん、石川さん、陽太、宇宙船の操縦士の2人の合計6人は、北海道のスペースポート(宇宙港)へ移動した。そこでは、6人が乗るロケットの打ち上げ準備が進められていた。初めて間近で見るロケットに陽太達3人は圧倒された。
「デカい…。あれに乗るのかぁ…」
緊張している3人を見て山崎さんが声を掛けた。
「お前達3人は宇宙に行くこと自体が初めてだろうが、心配することはない。近年のロケットの信頼性は以前に比べて格段に向上している。ミッションも訓練通りやれば大丈夫だ」
ついにメティスへ向けて出発する日がやって来た。ロケットの打ち上げには申し分ない天候だった。6人はロケットに乗り込み、打ち上げの最終確認が行われた。そして、カウントダウンが始まった。
「…5、4、3、2、1、発射」
ロケットは轟音と共に打ち上がっていった。陽太達3人は想像以上の振動の大きさに驚いたが、打ち上げから5分ほど経つと振動は徐々に小さくなっていき、体が徐々に軽く感じられるようになっていった。そして、宇宙空間に到達すると操縦士によってロケットが切り離され、宇宙船の姿勢制御が行われた。すると眼下には青く輝く地球が広がった。
「凄い…」
「綺麗…」
初めて宇宙から見る地球の姿に、陽太達3人は感動した。
「宇宙船は何も問題ありません。きちんと制御できています」
「よし、出発だ」
操縦士からの報告を受けて山崎さんが指示を出した。そして、メティスに向けて出発した。最初、陽太達3人は無重力状態での生活に苦労したが、徐々に慣れていった。
地球を出発して3ヶ月後、宇宙船はメティスまで高度100kmの地点に到着した。
「計画通り、これからメティスへ着陸する」
操縦士を宇宙船に1人残して5人で着陸船に乗り、メティスに着陸した。そして、山崎さんからメティスに降り立った。
そこは薄暗く、地表は灰色のゴツゴツした岩石に覆われていた。辺りの岩石の高さはどれも10cm以下で、どこまでも同じような平らな景色が広がっていた。陽太達3人が辺りに見とれていると山崎さんが指示を出した。
「メティスでのミッションは2時間だ。時間が無いぞ。すぐに目的地まで探査車で向かう。急げ」
探査車を着陸船から下すと操縦士は着陸船に待機し、4人で探査車に乗り、山崎さんの運転で目的地に向かった。探査車でしばらく走っても景色は特に変わらなかった。そして、30分程走ると周りよりも大きな岩石のある所に着いた。
「ここが目的地だ。この辺りにタキオンを含む可能性のある岩石があるらしい」
山崎さんの指示で4人それぞれ30mずつ離れた場所をドリルで掘削し始めた。
陽太はしばらく掘削作業をしていると、隣で作業しているはずの中田さんが居ないことに気付いた。どこに行ったのだろうと不思議に思ったが、山崎さんと石川さんは作業を続けていたので陽太も作業を続けていた。すると、表面がキラキラと光る岩石が現れた。成分分析をすると特に変わった物質でもないことが分かった。そして、その岩石に触れてみた。すると目の前が一瞬真っ白になった。そして、隣に中田さんが居ることに気付いた。
「坂井君どうしたんだ?さっきからずっと話しかけても返事もしないで、ずっと作業を続けてるけど」
「え?中田さん何処か行ってませんでしたか?」
「いや。俺はさっきからずっとここで君に話しかけてたよ。何か表面がキラキラした岩石が見付かったからこれ何だろうと思って。触ってたら無くなっちゃったけど。これって宇宙資源の講座で習ったことあったかなと思って、君に聞きに来たんだ」
「ああ、それ俺も見付けました。何でしょうね?山崎さんに聞いてみましょうか」
中田さんと陽太は山崎さんが作業している所に言って話しかけてみた。しかし、山崎さんは何も反応しなかった。まるで、中田さんと陽太が見えていないかのようだった。
「山崎さん集中してるのかなぁ…」
「いや、違う!山崎さんは俺達のことが見えていないんだ!さっき中田さんは俺にずっと話かけてたって言ってましたよね。それと同じ状況だ」
「え?どういうこと?」
「俺にも分からないんですけど、とにかく山崎さんは俺達のことが見えていないのは確かです。中田さん、さっき表面がキラキラした岩石に触れたって言いましたよね。俺もそうなんです。それと何か関係あるかもしれません」
「え?」
「もう一度、同じ岩石に触れてみましょう。元に戻るかもしれない」
陽太と中田さんは掘削していた場所に戻り再び表面のキラキラした岩石を掘り出し、触れてみた。すると再び目の前が一瞬真っ白になった。
「これで元に戻ったのかなぁ?」
陽太は辺りを見回して驚いた。
「石川さんが、後ろ向きに歩いてる!」
「え?本当だ!どうなってるんだ?」
陽太はこれまでの状況を総合して考えた。
「中田さん、俺の考えを聞いてください。表面がキラキラした物質はたぶんタキオンです。タキオンは虚数の質量を持つって習ったじゃないですか。俺達はそれに触れたことで、なぜか虚数の時空間に移動したんです。それで山崎さんは俺達のことが見えなかったんです。それから俺達はもう一度タキオンに触れましたよね。そうすることで現実の世界だけど、俺達の時空間はマイナス、つまり時間が遡っているんです。ほら、右手を上げようとしてみてください。左手が上がるでしょ。空間も逆転してるんです」
「本当だ…」
「ということは後2回タキオンに触れれば現実世界に戻れるはずです。やってみましょう」
表面のキラキラした岩石に2回触れた。すると、山崎さんは陽太達に気付いた。
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ここまでのことから分かったタキオンの性質を以下である。
(1)タキオンは虚数の質量をもつ。
(2)タキオンに触れると虚数時空間に移動する。そして、タキオンに4回触れることで現実世界(実数の世界)に戻る。これは虚数を4回かけると+1(実数)になることと同じである。
(3)虚数時空間への移動は、タキオンを含む岩石の破断面に触れることで生じる。ただし、上記の性質を有する時間は短い。また、一度触れて虚数時空間に移動すると上記の性質を失う。
(4)上記の性質を失った場合でも、新たな破断面を形成し、岩石内部のタキオンを露出させれば再び短時間だけ上記の性質を有する。
(5)虚数時空間からは現実世界が見えるが、現実世界から虚数時空間は見えない。
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陽太は、2人が経験したこと、タキオンの性質として考えられることについて、山崎さんと石川さんに報告した。
「そんな物質があるとは、にわかには信じがたいな…。だがお前達2人とも同じ経験をしたというなら信じるしかないだろう。残り時間も少ない。では、その表面がキラキラした岩石が採掘された場所の岩石を野球のボールほどの大きさに成形して持ち帰ろう。危険だから、表面がキラキラしている状態では触れるなよ」
野球のボールほどの大きさの岩石を4つ地球に持ち帰ることにした。陽太は専用の容器に岩石を入れて探査車に載せた。そして、探査車に乗り着陸船の所まで戻った。それから、その容器を着陸船に載せようとしたとき、陽太は岩石が1つ無くなっていることに気付いた。
「山崎さん、すみません。容器に4つ岩石を入れたと思っていたのですが、今見たら3つしかありません」
「何?どこかに落としたのか?」
「すみません、分かりません」
「時間が無い。その1つは諦めよう」
そして、着陸船に乗り宇宙船に戻った。
「お前達3人、良くやった。ミッション達成だ。ご苦労だった。しかし、中田と坂井が話したタキオンの性質が事実なら、これから大変なことになるぞ。特に、『虚数時空間からは現実世界が見えるが、現実世界から虚数時空間は見えない』という性質は、犯罪や軍事利用されると、とんでもないことになる。何か対策を考えないといけない。まさか、ホーキング博士が予言した虚数時間が実在するとはな…」
それから再び3ヶ月かけて地球に戻った。地球に戻ると中田さんは山崎さんに辞職を申し出て、受理された。
石川さんと陽太は、地球に戻りしばらく休暇を取った後、再び次のミッションに向けた訓練を開始した。すると、ある日、石川さんは陽太に相談した。
「ねえ、坂井君。私、最近なぜか凄く視線を感じるの。それが外出した時だけじゃなくて、家の中に居る時もなんか嫌な感じがするのよねぇ」
「そうなんですか?」
「それにね、昨日とか訓練終わって家に帰ってくつろいでると、テーブルの上に置いてたマグカップが急に宙に浮いたの。信じられる?」
それを聞いた陽太は誰かがタキオンを使っているのではないかと思った。そして、メティスで岩石を1つ無くしたこと、中田さんが辞職したことを思い出した。まさか、中田さんがタキオンを使っているのではないか。そして、今もここで中田さんが虚数時空間から見ているのではないか。そう思った陽太は平静を装って応えた。
「目の錯覚でしょう。ただ疲れていただけだと思いますよ」
そして、宇宙服を着た訓練を行うとき、宇宙服の通信を使って山崎さんと石川さんに相談した。
その日の訓練を終えると、山崎さん、石川さん、陽太の3人は一緒に研究センターを出た。そして、山崎さんは石川さんに声を掛けた。
「石川、これから2人で食事に行かないか?良いレストランを知っているんだ」
「本当ですか?行きたいです」
「よし、行こう。そういうことだから、坂井また明日な」
「分かりました。楽しんで来てください」
山崎さんと石川さんはレストランで食事を楽しんだ。一通りコース料理を終えると、山崎さんは石川さんに話し掛けた。
「ホテルを取ってあるんだ。どうだ?」
石川さんは照れながら応えた。
「ええ…」
ホテルの部屋に入った2人はソファに座ってしばらく話していた。すると、突然、トイレのドアが開いた。そして、陽太が出て来て、叫んだ。
「中田さん、そこまでだ!」
山崎さんと石川さんにはトイレのドアが開いたのは見えたが、陽太の姿は見えなかった。
「中田さん、俺にはあなたの姿が見えているぞ。俺は今、虚数時空間に居るんだ!」
「うっ…」
陽太には石川さんの近くにいる中田さんの姿が見えていた。この日の訓練中に3人で相談した作戦を実行したのだった。
「中田さん、タキオンを使ったんですね。メティスで無くなったと思っていた岩石の1つはあなたが持っていたんだ!」
中田さんは観念した様子で答えた。
「そうだ…」
「中田さん、今ここで現実世界に戻ってください。あなたが現実世界に戻ったのを山崎さんが確認したら、俺も戻ります」
中田さんは言われた通りタキオンを使って現実世界に戻った。そして、陽太も現実世界に戻った。
「中田、お前は何てことをしたんだ…」
「山崎さん、確かに私は悪いことをしたと思います。でも、このことを裁く法律が現状ありますか?」
「確かにお前の言う通り、お前が虚数時空間から石川のことを付け回したり、覗き見していたことを裁く法律は無い。そんなことを証明する手段も無い。しかし、お前は探査員ではない。それなのに研究センターの最重要機密試料を勝手に使い、それを探査員であったときに盗んでいた。この罪は重いぞ」
そして、山崎さんは中田さんを警察に連れて行った。
陽太は石川さんに声を掛けた。
「石川さん、大丈夫?」
「ええ…」
石川さんは酷く動揺している様子だった。陽太はこの問題が解決したことにほっとした。しかし、タキオンのことが一般の人々に知れ渡り、また他国で軍事利用されてしまうと世界はどうなってしまうのかと考えると不安だった。
それから、しばらくして研究センターで陽太は山崎さんに呼び出された。石川さんはまだ精神状態が正常に戻っておらず、訓練を休んだままだった。
「坂井、先日はご苦労だった。お前のお陰で助かった。特に中田が盗んでいたタキオンを回収できたことが大きい。しかし、今後はタキオンを利用した犯罪の増加や、他国が軍事利用することも考えられる。日本の防衛にとって新たな脅威となる。そうした訳で、研究センターでは新たな部門が2つ作られることになった。1つは虚数時空間研究室だ。そこでは現実世界から虚数時空間に居る人間を発見する方法や、虚数時空間に居る敵を攻撃する方法を研究する。そして、もう1つの部門が、虚数時空間防衛隊だ。メンバーは今のところお前と石川の2人だ。虚数時空間を利用して侵入してきた敵を倒すのがお前達の役割だ。しっかりやってくれ!」
「はい!」
日本の虚数時空間は俺が守る。陽太は固く決意した。
(第1話 終わり)