にい
十年前。
私はお母さんと領地の片隅で生きていた。
お母さんははまさしく私を産んだ母親だ。
決して裕福ではなかったし、父親が不在であることを指差す人もいたけれど、お母さんと二人、楽しく穏やかに暮らしていた。
しかし、その生活は呆気なく崩れ去った。
お母さんは町中で荷馬車が横転した事故に巻き込まれてケガを負い、ケガが完治することなく、ゆっくりと弱って死んでしまった。
死ぬ前にお母さんは父に手紙を送っていた。自分が死んだら私を頼むと。
父が手紙を受け取り、駆けつけて来たのはお母さんが死んだ翌日だった。膝をついて私を抱き締める父の肩が震えていたのを覚えている。
見るからに貴族の父と平民のお母さんは道ならぬ恋だったのかと耳年増な子ども心に思ったものだが、父は子どもだからと誤魔化さずに、私にきちんと説明してくれた。
事態はそう単純ではなかった。
父は伯爵位を賜っており、長く婚約していた伯爵夫人とは相思相愛で、なんの障害もなかった。
だが、二人は長く子どもに恵まれなかった。そのことが伯爵家に影を落としていたという。
結婚から五年経った頃に親族から養子を迎えることを考え始めた時、伯爵夫人がこう望んだ。
「この腕に抱いて育てるのであれば、あなたの血を引く子であって欲しい」と。
心が引き千切られるような葛藤があっただろうに、伯爵夫人は、夫に他の女性との間に子をもうけ、その子を引き取ると提案した。
近しい親族には養子にできそうな幼い子がいなかったこともあり、長い話し合いの末、伯爵はお母さんを召し抱えた。
お母さんは貴族の家の者であったが、経済的に非常に厳しく、有り体に言えば売られてきた。伯爵家としても継嗣の血縁上の母親の身許が不確かでは困ることから、文句があっても物言わない貴族のお母さんは誂えたように都合が良かったのだ。
だが、やはり物語のようにめでたしめでたしとはいかなかった。
お母さんも中々妊娠しなかったのだ。
そうして一年が経ち、遠縁でもやはり養子を迎えようと動き始めた頃、伯爵夫人が懐妊した。もちろん父の子、兄である。
伯爵家は歓喜に沸いた。
妊娠を諦めていた伯爵夫人は自分の体調の変化に疎く、妊娠に気が付いたのは初冬。年を越して春前に兄が生まれた。
兄が生まれたのを見届けて、お母さんは伯爵家を暇した。随分と引き留められたらしいが意思は固く伯爵家をあとにした。
私を宿して少し膨れた腹を誰にも言うことなく、静かに去った。
兄が生まれた年の夏、実家を頼れなかったお母さんは他領の小さな村で私を産んだ。
少しだけ記憶がある。貧しい村で、余所者の私たちはいつも誰かに頭を下げていた。
四歳になるまでその村にいて、それからこの伯爵領の外れの町に移り住んだ。
私を三歳だと言って。
そう、お母さんは、私は伯爵家の血を引く子ではないと言うためだけに、他領で私を産み育て、私がいつ生まれたか誰も知らない町に引っ越すことで私の歳を偽ったのだ。
引っ越してすぐに伯爵家から確認の使者が訪れたらしいが、伯爵家を出て一年半後に生まれたことになった私は、お母さんが伯爵家を出てから未婚で身篭もった伯爵家とは関係のない子として、疑われもせず、一領民として受け入れられた。
「昔お世話になった領主様の奥様には本当によくしていただいたの。とても美しく素晴らしい方よ。もうお会いする機会はないけれど、あの家の方々が幸せであることを願っているわ」
継承争いを避けるために黙って去っただろうに、なぜわざわざ伯爵領に戻ってきたのか、本当のところは分からないけれど、お母さんは私によく言っていた。
売られてきた身でありながら、伯爵家で不幸ではなかったようだ。
お母さんと伯爵夫人は争うことはなく、微妙な関係なのに気が合ってよく一緒に過ごしていたと父も言っている。
貧乏子だくさんの名ばかり貴族の長女で、幼い頃から家のことをしなくてはならない不遇の人生。更には弟妹の食い扶持のためにその身を伯爵家に売ったわけだが、お母さんは一度も恨み言は漏らさなかった。それは、お母さんにとって伯爵家は地獄なんかじゃなく、もしかしたら人生で一番穏やかで幸せな時間だったのかもしれない。
「家事や銭稼ぎなんてずっとやってきたことだし、なんてことないわ。あなたの父親とは縁がなかったけど、あなたが生まれてくれてとても幸せよ。さあ、あなたが独り立ちするまで頑張らなくちゃね」
これ以上父親のことは私に何も言わなかった。そして自分が私を残して死ぬことも想定して、もしそうなった時は領民として少しでも助けてもらえるようにと、父が権力を持つ伯爵領に戻って来たのだと思う。私が生き残れるようにと。
そしてお母さんは事故に遭い、伯爵家に手紙を出し、父に私の保護を依頼したワケだが。
お母さんが永遠に目を閉じた翌日、直接やって来た父は私を見るなり愕然としていた。私の瞳の色も髪の色もお母さんと父とも違っていたが、父の母、祖母の色だったのだ。
一目で血の繋がりを確信した父は私を連れて帰り、お母さんが伯爵家を出てからの足取りを調べ、あっさりと私の年齢詐称を見破って養子としてしまった。父は実子として届け出したかったようだが、継承争いの可能性を危惧したお母さんの意思を尊重して、兄とは半年しか違わないのに、二歳年下の妹として養子となった。
いや、お母さんは昔の誼でほんのちょっと手厚い保護をお願いしただけだと思うのだが、あっと言う間に娘にされてしまった。ただ血の繋がっただけの他人なのに、いいのだろうか。
こうして、正式に伯爵は父となり、伯爵夫人は母となり、伯爵令息は兄となった。
「そしてお前は間違いなく伯爵令嬢で俺の妹だよ」
急に話しかけられて、回想に飛んでいた意識が現実に戻った。
「お前、全部、口に出してた。血が繋がっただけの他人、ねぇ? へえ? そんな風に思ってたんだ? だから、子どもができるような付き合いの恋人がいたことも、子の父親が誰かも言わないのか? どうせ他人なんだから、関係ないと? 孫の、甥か姪の父親を知る権利もないと?」
え、私、全部言っちゃってたの!?
え、彼のことは漏らしてないよね!?
「クズ野郎だってことは充分に分かった。詳しくはこれから聞こうか」
えぇ、どんだけ漏れてる……わけないじゃない。兄は私の表情から推測してカマをかけているだけだ。しっかりしろ、私! バレたら彼は八つ裂きどころじゃなく裂かれてしまう。
「そのことは……」
冷静に冷静に。
「持ち直すとはさすがだ、妹よ。だがな、『血が繋がっただけの他人』は、はっきりと声に出して言っていたぞ。ほれ」
兄が指し示す先には、長椅子から落ちて床に蹲り頭を抱えて「他人……? 他人だと……?」とブツブツ言う父の姿があった。
あ、これは完全に口に出しちゃってたヤツだ。
「アン、嘘だと言って……? 他人だなんて……パパ、泣いちゃうよ……」
いや、大号泣中だし。私に対してなんでいつもこんな態度なの? 一応伯爵だよね?
「責任取って宥めろよ?」
「嫌です無理です」
あなたの父親でしょ。と思ったのが伝わったのかまた口に出てしまったのか、父が突進してきた。
「僕はアンの父親でもあるよ!? そりゃ、十年も気が付かずにいた不甲斐ない父だけど……他人じゃない、親子だよ!!」
私を抱き締めながらわんわん泣く父をどう宥めようかと溜め息を吐いたところで、母が来た。
「アンヘリカ!」
失神から復活して慌てて来た母は、父に縋り付かれている私を見て、角を出した。
「あなた!? お腹の子に障ったらどうするのです!? 離れなさい!!」
我が家で一番強いのはこの母である。
仕切り直しをすることになり、皆黙ってすごすごと団らん室に移動した。