僕もそっちに行けるかな
あたりは薄暗く、空は少し赤みがかっていた。今は夕暮れ時なのだろうか。
足下を見ると、自分のつま先と黄色い点字ブロックが目に入った。少し目を前へ向けると赤黒い石ころと線路がみえる。気を抜くとそちらに吸い込まれてしまいそうな妖気を感じた。
周りからはなんの音もせず、首を回しても人っ子一人見当たらない。無駄に広いホームで一人ぼっちというのは、開放感がありながらも寂しさと不気味さを感じさせた。
ここは間違いなく駅のホームなのだから、きっと待っていれば電車が来るのだろう。そう思って時刻表と時計を探そうと歩き出そうとしたとき、さっきまで誰もいなかったはずの空間から声をかけられた。
「あなたですね」
突然背後から話しかけられて驚いていると、更に驚くことが視界に起こった。
声をかけてきた人間の顔が、認識できないのだ。
目、鼻、口、耳、髪型。それぞれに注視すればするほどその靄は濃く、うねるように広がっていった。
「なんですか、わかりません」僕は後ずさりしながら警戒を強めた。
「いえ、間違いなく貴方です。現にここには貴方しかいませんしね」
そう言って謎の黒服はどこから出したかわからないバインダーにペンを立てた。いくつか記入し、見えない顔をあげて僕を手招いた。
「こちらです。次来るのは三両編成なんです。そこは電車が来ませんよ」
―――次に四十九番ホームに参りますは、○×駅行きの普通電車です。終点まで各駅に停車します。特急への乗り換えは―――
黒服に連れられて歩いていると、頭上から突然大きなアナウンスが聞こえた。終点の駅だけが、よく聞き取れない。それより四十九番ホーム―――? 横を見渡してもそんなにホームが続いているようには見えなかった。何かの間違いかと反対方向をみると、そこには合わせ鏡のように並んだホームが無限に続いていた。
目を丸くしていると、左腕に何かに掴まれた衝撃を感じ、僕はその場でバランスを崩した。左手を見ると黒服が細い腕で僕の左腕を組み、僕の全体重を支えていた。
「色々と周りを見たい気持ちも分かりますがね、ここはホームです。本来よそ見厳禁なのは、貴方の世界でも同じことだと思いますけどね」
目の前にはホームの真ん中に連立している柱があった。あと少しでぶつかるところだった。言い訳になってしまうかもしれないが、この駅に来てから足下が覚束無くなってしまうのだ。それなら尚更周りを見なくてはならないのだが、如何せん気になるものが多くて首を回してしまう。
すいません、と小声で謝ると、黒服は聞き心地の良い声で次からは気をつけてくださいねと僕を持ち上げてくれた。
黒服が再び歩き出すと、お、来ましたねとホームの奥側を覗き込んだ。その瞬間ホーム中に列車の音が鳴り響き、電車が少しずつ僕らの方に近づいてきた。
ホームの数以外にそこまで変わった様子がない駅と同様に、電車も普段見たことがあるような電車が僕の隣に並んだ。古いわけでも、変わった色をしているわけでもない。車体はえんじ色に塗られており、それが血の色に似ているといったらそれまでだが、僕が見たことのある電車にもそのような配色のもがあったりしたので、特に気にならなかった。
電車に乗り込んで驚いたのは、人の多さだった。あれだけ無人の駅に止まるような電車なので、一車両に数人いればいい方かと思っていた僕は面食らってしまった。向かい合わせになっている二列の長椅子は車体と同じえんじ色のクッションでできており、それらにはびっしり人が座っていた。
数人立っている人たちはプラスチックのつり革をもってまっすぐ突っ立っていた。
「あら、今日は混んでますね。申し訳ないですが、今日の体験は立って行わせていただきますね」
二人で車両の真ん中に立ち止まると、黒服は再びバインダーを出してペンで何かを書き始めた。その自然な流れに僕は”体験”という言葉を聞き流すことになってしまった。
黒服から目を逸らし乗客を見渡すと、その年齢層はとても幅広いことがわかる。
小さな子どもがいたかと思うと、すぐ隣には今にも力尽きそうな老人が座っていたりする。反対側の長椅子には学生が並んでいるが、全員違う制服を着ている。どれもこれも、見たことの無い制服だった。
僕の隣に立っている人はスーツを着てカバンを持っており、いかにも社会人という出で立ちだった。見渡すと意外にもスーツ姿の大人もおり、ぱっと見ると、一般的な夕方頃の通勤電車、という印象だった。
一つ異質なところがあるとすると、その電車内では一切会話がないことだった。
確かに普段乗るような電車でも騒がしいということもないのだが、それにしてもこの電車内は人と人との心理的距離がとても大きいような気がした。
まるで全員生活圏すら全く異なるような―――
「えーとですね、この電車が一日に何本出ているのか、という話なんですが、これは時期によって異なるというのが答えですね。特に一月から三月にかけては本数も車両数も多くなる、という傾向がありますね」
隣でずっと黒服がバインダーを見ながら姿勢よく話していると、周りの乗客達がちらちらとこちらを見ていることに気付いた。それも当然だ。静寂が広がっている車内で、一人だけ淡々と説明口調でしゃべり続けているのだから。
「で、これが寒い時期に固まっているのですが、この理由というのが大体明らかになっています。それが―――って聞いてますか、この電車について懇切丁寧に説明しているのですが」
よそ見を繰り返す僕に気付いたのか、黒服がバインダーを僕の顔の前で振って僕の視線を自分に向けようとした。
「ああ、すいません。聞きます、ちゃんと」
「しっかりしてくださいよ、ここからが濃い内容になりますので」
そう言う僕の目は、吸い寄せられるように立っている社会人らしき人の目に移っていた。眉にはしわが集まり、僕たちを厄介者のように見ているのがあからさまに分かる。
問題はそこではなく、彼の目にあった。目は濁り、光を失っていた。そこには力はなく、どこか落ちくぼんでいるようにも見える。
自分はそういう場に居合わせたことはなかったが、本能的になんとなく分かったことがあった。
「乗客数の話でしたね、そう、この電車の乗客が増えるのはつまりこの電車が―――」
「死人、だ。この電車の乗客は、既に死んでいるんだ。幽霊みたいなものか」
根拠は少なかった。幽霊と言われて思いつくような”透明がかっている”だとか”足がない”などの特徴は一切見られなかった。
それでも、目の前で話を遮られたことに心なしかむっとしていた黒服が、おぉ、と感嘆の声を漏らしていることが、正解の証拠だった。
「そうです、よく分かりましたね。私が説明する前に気付くとは。素晴らしい洞察力です」
「そりゃあ、憧れだったんだ。妖に、会いたかったんだ、僕は。わかるさ」
僕は社会人以外の目を素早く確認し、その度に口からは笑みがこぼれた。本物だ。ここにいる全員が、死人なのだ。
死後にも、人間の意識はあるのだ。妖は、存在するんだ。
僕は妖が好きだった。正確に言えば、人間以外が好きだった。
目には見えないだけで実在しているのか、それとも見えないものはいないと同義なのか。何度も考えたけれど、僕は心の底から存在を願っていた。
いつから僕は見えないものに縋るようになったのだろう。社会人になった今では、昔のことなどはっきりとは思い出せないけれど、小さな頃からそんなことを思っていた気はする。
人間が怖い。自分以外の人間の心が、考えていることが、分からないのが怖い。一度そう思ってしまうと、自分にとって心地いい言葉も、笑顔も、差し伸べられた手も、何もかもが怖く感じてしまった。
目の前の人が、心の底から自分のことを好いていると、どうやったら確かめられるのだろう。言葉だろうか、表情だろうか、行動だろうか。僕にとってはそのどれもが、作ることができるもの、だった。
愛しているという言葉、柔らかい表情、自分のための行動。どれも自分のことを好いていなくても、できることではなかろうか。そしてほどんどの場合、これは被害妄想で終わることも、分かっていた。
でもそうじゃなかったら、という可能性が少しでもあるだけで、僕は疑うことを辞められなかった。
きっと僕は、人間の複雑さが嫌いだったんだと思う。好きなら好き、嫌いなら嫌い。そうやってストレートに表現して欲しかったし、自分もそうしたかった。
ああ、そうだった。自分が一番偽って、飾っていたんだ。自信のない自分を隠して、我慢していたから、他の人もそうだと決めつけていたんだろう。
だから僕は、僕が一番嫌いだったんだろう。
それに比べて、妖はどうか。
逸話や伝記などで見る妖は、どれもこれも例外なく”自分勝手”だった。己の快不快だけが行動指針だったり、自分より強い妖がいることが許せないというだけで、常に他の妖を滅ぼそうとしていたり。そうかと思えば人間とした約束を律儀に守り続け、その人間が死んだ後何百年もその人間を待ち続けていたり。
これは僕が望み続けていた世界の住人だった。その世界が、たとえいつ襲われるかも分からないほど危険で、死と隣り合わせだったとしても。そこに住みたい、そんな存在と一緒に居続けたいと思うほどに、僕は彼らに美しさを感じていた。
それが今、僕は死者と対峙している。これはあり得ないことだ。
死後の世界。俗にいう天国と地獄。僕はこれらを信じていなかった。妖などが好きで、いろんな文献を読み漁り、調べていた時期もあった。だからこそ、そういった存在はきっといないんだろう、という結論に至っていた。
人間の意識、いわゆる精神だったり魂と呼ばれるものはどこに存在しているのか。はたまた、存在しているものなのか。これは古から様々な考えが生まれている難題である。それらに仮の答えを出し、人々に広めていったものが宗教や逸話だと僕は理解している。
もし、精神や魂が脳で生まれているものならば、死後にそれらが残っていて、外に出るなんてことはあり得ないだろう。なぜなら死んでしまった時点で全身の血流は止まり、脳は血液が流れずに機能を停止する。つまり”無”となるのだ。この考えは、個人的になんの矛盾もなく、納得しやすいものだと思う。
しかしこの考えは一般的に言えば恐怖を感じるものだろう。あなたは死後、完全に無となり意識も魂も全てがストップします、と言われて素直に頷ける人間ばかりではないのではないだろうか。
だからその恐怖から逃れる為に死後の世界が生まれた、と考えれば自然な流れだとは思わないだろうか。死んでも魂は残り、身体から出て地獄の裁判にかけられて、なんやかんや使命を終えれば輪廻転生してまた現世に戻ってきますよ、と言われれば、死は終わりではなく経由点と捉えることができて恐怖が少し和らぐだろう。
僕はそれが分かっていたから、死ぬのが怖かった。今の意識が無となるなんて、想像できないし、前例はあれど先駆者の話は聞けない。こんなに怖いことがあるだろうか。
それが今、死後の世界があると分かった。それなら。
「あのう、興奮されるのはご自由に、という感じなのですが、私ガイドとしましては話を聞いていただきたくてですね―――聞こえてますか、おーい」
黒服が僕の視界の中で身体をゆらして注目を促す。
「あの、先ほどからガイドだとか体験だとか―――これは何かのツアーか何かなんですか」僕は意識を黒服に戻し、何事もなかったかのように聞いた。
「あれ、そちらから申請があったのでこちらでそのように手配したはずなのですが―――手違いですかね」
そう言って黒服は再びどこからかファイルを取り出し、ペラペラとめくりはじめた。ああ、あった、と呟くと再び首をかしげた。
「いえ、やはり貴方様の方から申請がありますね。この世界の体験プランを申請した覚えはございませんか」
勿論そのようなプランに手を出した覚えはなかった。第一どこでそんなものに申請できるのかもわからない。
「うーん、まあここまで来てしまっていますからね、申し訳ないですが本日は最後まで付き合っていただけますでしょうか」
ファイルを閉じながら僕に謝罪する黒服だったが、顔が見えないながらも不服そうなのが伝わってきた。
「いえ、僕自身とても満足しているので。是非最後までお願いします」
そう告げた瞬間、体験という言葉が頭の中で疑問を生んだ。
「あの、体験ということは、僕は死んでないんですよね。こんなところに生者がいてもいいんですか」僕は自分の顔や身体に触れて、いつもと変わらないことを確かめながら言った。
「それに関してはこちらで調整しておりますのでご安心ください。貴方様の身体と魂の方にですね、すこし妖を混ぜさせて貰っております。ああ、安心してください、非常に弱い妖でして、人間に干渉させても問題ないものを使用しております。少し除霊に近い術を施すだけで取り除ける程度のものですので、気分を悪くされないでください」
黒服は身振り手振りを加えながらそう説明すると、本来こういう内容も申請の段階で目を通して貰っているものなんですけどね、と付け加えた。
自分の中に妖が入っている、という情報を聞いただけで、また僕の口元は少し緩んだ。取り除いて貰わなくても良いのだが、と言ってしまいそうになったが、許してくれないのがなんとなく分かったので口をつぐんだ。
「おい、その若いの」二人の空間に先ほどまで黙り込んでいた男が口を挟んだ。僕らの隣で立っていたスーツを着た男だ。見た感じ五、六十代に見える。
「お前だよ、生きてるんだろ、まだ。そんなやつがなんでここにいたがる」
「なんでって―――それは僕にも分からなくて」僕は気圧された。
「人間じゃねえやつが憧れだの、死んだ奴らを見学だの、何考えてる」
男は虚ろな目を見開きながら僕に迫った。ふと黒服の方を見たが、この状況を止めなければならないとは思っていないようだ。死者との関わりも体験の内容の中に入っているのだろうか。
「何が気にくわないのか分かりませんが、僕もなんでここにいるのかは分からないんです。さっきまでの会話、聞かれてたんでしょう? 決して亡くなった方をからかいに来ただなんて微塵も思っていないことが分かると思いますが」
「違う、ここに来る原因を聞いてるんじゃない。お前の発言が気にくわないと言ってるんだ」男は僕に指を突き立てながら迫る。その剣幕からは、怒り以外の何かが感じ取れた。
彼はきっと、僕の妖に対しての憧れや、死者のいるこの空間に対して満足感を感じていたことに憤りを感じているのだろう。
「そうですよね、皆さん死を望んでいたわけではないのに、この空間でヘラヘラするのは失礼だと思います。申し訳ございませんでした」僕は男と距離を取りながら頭を下げる。
「俺たちは、もう死んでる。だからいいんだ。死ぬことは仕方ない。残してきた人も、やり残したことも、山ほどあるがな、生まれてきたからにはいつか死ぬんだ。生きとし生けるもの、その事実は受け入れなきゃならねえ」
男は少しうつむきながらそう言って、話を続けた。
「ただな、あんたはまだ生きてるんだろう。この空間然り、人ならざるもの、妖って言ったか。どうしてそんなもんに憧れる」
それは、と言いかけて僕は言葉が詰まった。この人は死を経験しているのだ。僕の本音をぶつけても良いんじゃないか。妖が好きな理由よりも、話すことがあるんじゃないだろうか。
そう悩んでいる間にも、男は黒服と少し話をしていた。きっと生者に話しかけてもいいのか、といった内容だろう。黒服は両手をみせる形でどうぞ、ご自由にと促していた。
黒服は、どこまでも案内役であり、それ以上でもそれ以下でもないらしい。
「僕、ずっと死にたかったんです」
二人にそう告げたとき、電車が少し揺れた。微動だにしない黒服に対して、男は少し深呼吸をしたようにみえた。
「そういうことだろうと思った。話してみな、全部。まだ到着まで時間はあるんだろう?」
「ええ、まだ三途の川にすら着いてないですからね。思う存分お話しなさってください。その方がいい体験になります」そう言って黒服はバインダーをしまって外を眺め始めた。
僕が話すことを頭でまとめていると、僕たちの話を聞いていた学生二人が、目の前で突然立ち上がり、違う車両に消えていった。
男は「気を遣ってくれたんだろ」と言って僕を座らせ、その後で自分も腰掛けた。黒服は相変わらず明後日の方向を向いていた。
僕が人間を嫌いなこと、純粋な妖に憧れたこと、死生観についてできるだけ細かく話した。男は時折悲しそうな表情になった気がしたが、最後まで何も言わずに聞いてくれた。
「まず、これだけははっきりさせよう。黒服の兄ちゃん、妖ってのは、ホントにいるのかい」
上目遣いで尋ねる男に、黒服はゆっくりとこちらを向いて答えた。
「お答えできません、という返答が限界ですね。今回の体験の中に、その情報の提供は含まれていない、といえばより正確ですか」
僕は思わず、えっ、と声を漏らした。死後の世界や幽霊なるものがあるのなら、それに付随して妖もいるのではないのか。全部が全部いなくても、何体かは本当にいるのではないのか。
「あんたの憧れは、存在も不確かなんだってよ。これは俺もそんな気がしてた。それよりも、だ。一番大事なところを聞き忘れてるぜ」
まだ悲しみから立ち直れないでいる僕に、男は僕の目を見て言った。
「死後の世界と、幽霊という概念が存在するとわかった途端死のうと思うほどに、あんたを苦しめているものはなんだ。何が、そんなにあんたを苦しめてる」
僕はそう言われて少し立ち直った。そうだ、妖がいなくても、幽霊はいる。死後にも、意識や魂は存在している。なら僕は死を怖がらなくてもいいんだ。
「全てが、楽しめなくなっちゃって」
僕はそう言って、再び男に身のうちをさらけ出した。男は表情豊かに僕の話に耳を傾けた。
「夢なんて元々なかったんです。だからその時々でいいと思う進路を選び続けていました。将来的に給料がいい方、食いっぱぐれなさそうな方、周りから進められる方、といった感じで。今の職場もそうやって決めました。自分の意思がなかったので、周りや世間に決定を委ねていたんです。
でもこういう人も多いと思います。誰も彼もが夢や希望を持っているわけではありませんから。そういう人たちは、きっと生きがいや恐怖みたいなものを見つけて、その為にやりたくないことも頑張るんです。それが家族なのか、好きなことなのか、不安なのかは人それぞれだと思いますが」
「確かに、俺は生活苦になりたくない、が頑張れるきっかけだったな。いつの間にかそれが家族になっていたわけだが」
自分で口にした途端、男はハッとしたようだった。彼は、人間が苦手なのだ。自分とは違い、周りの人間全員が恐怖の対象であって、寄りかかれるものではない。俺や黒服のこともそうなのだろう。そしてきっと、彼の家族だって。
「好きなこともなかったんですか? 夢なんていうたいそうなものがなくても、人間は趣味や娯楽に溢れているものだと思っていましたが」つり革をゆらしながら首をかしげて黒服が言った。
「好きなことは、ありました。音楽が好きで、聞くのも歌うのも好きでした」
「いいじゃねえか。立派な趣味だ」男が感心した表情で言った。
「ありがとうございます。好きなアーティストとかの新曲が、自分の生きがいだったりもして、いつでも音楽とは一緒でした。楽器を弾けるようになりたくて、大学では軽音サークルに入ってましたし―――まあ結局入ってみたら実態が全く違ったのですぐに辞めましたけど」そう言うと男は控えめな笑みを浮かべた。
「しかしその”好き”では塗り替えられないほど、”辛い”が勝ったと」
今まで黒服が話した中で、一番冷め切った声が響き渡った。何秒か、静寂が響き渡った。
「そう―――ですね。というより、自分に限界を感じたんです。好きこそものの上手なれ、というのは本当で、そのまた逆も然りなんだってことを知りました。僕は嫌いなことでもある程度できるようになれるほど、器用じゃなかったんです」
「まあ、その分野を好きで極めようとしてるやつには勝てないわな。俺もそれは実感したことがある」
「勝てないくらいならいいんです。元より勝てると思っていませんし―――問題は手に着かなくなったことです。文字通り限界が来たんです。分からないし、できないんです。どれだけ頑張っても、僕は最低限のことすらできなくなりました」
頑張る、という言葉が二人には引っかかった。同じ台詞を調子のいい人間が言って来ようものなら、本当に頑張ったのか、どう頑張ったのか、ちゃんと考えたのか、と問い詰めて叱る人もいるだろう。
しかし目の前にいる人間はどうだろう。考えていること、話す内容、全てに対して真面目さが溢れている。こんな人間が、中途半端な努力を他人にさらけ出すだろうか。心身共にすり減らすほどの努力をしたからこそ、こんなことが言えるのではないだろうか。そう二人は考えた。
「それでもしばらくはやれたんです。でも―――我慢は、長くは続きませんね。こんなことが続くなら、死んでしまいたいと、一瞬頭によぎりました。大学生の頃だったっけな。一度よぎると、もう止まりませんでした。好きなことも、こうなると無力でした」
男も黒服も気付いていた。彼の目は、男を含めた電車内の死者達と似通っていた。二人は彼が現世に対して全く執着がないことを悟った。
「あんた―――素人の俺が勝手にこんなこというもんじゃないけどよ、きっとそれは鬱だぜ。しかも相当重度にみえる」
「しかし人が苦手、となるとカウンセリングも意味をなさないかもしれませんね。なんなら逆効果かもしれません。望める期待としては、投薬くらいでしょうか」
「薬で心が楽になるのか、なんか危なそうだが」淡々と言葉を並べる黒服に男が尋ねる。
「いえ、効果としてはとても良い結果が出るそうですよ。私の知っている範囲では、鬱などの一部の精神疾患は脳内の物質が足りないことから起こるのだそうです。その物質を増やすか補完するかしているのでしょうね。それだけで大分楽になるそうです。まあ、個人差はあるでしょうけどね」
そう言うと黒服は、もちろん副作用もあるらしいですけど、と付け加えた。僕がネット上で調べたことがあるような内容だ。やはり然るべき病院にかかるべきだったのだろうか。
「でもよ、それで良くなるのは疾患の部分だろ、考え方じゃあない。こいつは―――もっと深くて難しいところが問題なんじゃあねえのか」
黒服はお手上げのポーズを取った。私は一案内人なので、専門家ではないので、とでも言いたげだ。
「まあ専門的なことを話しても無駄だ、ここに専門家はいない。俺たちと話をしよう。死者でも人間だ。好きにはなれないだろうが、死んだ奴と話せるなんて滅多にないぜ」
確かにそうだ。ここにいる人たちは、元人間だ。正直苦手意識は消えない。それでも、一度死を体験した人間は、今まであってきた人間とは何かが違うかもしれない。
「はい、お願いします。大丈夫です。頑張ります」
「まずあんた、生きてていい気分になることはあるか? うまい飯を食ったときとか、雨が突然上がった時とか、目の前で信号が青になったりとか。どれだけ些細なことでもいい。あんたの心に、まだ幸せを感じる機能が残ってるかが知りたい」
男にそう問われて、僕はうつむいた。どうだろうか。僕は頭を巡らせた。日常で感じる小さな幸せ。どこにでもありふれているはずのものだ。
「ある、と思います。思い出せないですけど、きっと僕はまだそれらで喜べる気がします。忘れちゃったり、気付けていないだけなのかもしれません」
「そりゃあ、きっとそれらが黒い感情に押しつぶされちまってるのかもしれないな」男も僕と同じように少しうつむいた。
「けど良かった。まだ心は死んでないな。呼吸は浅く、小さくなってるかもだが、確かに機能はしてる。いいか、今から言うことをよく覚えておくんだ」
再び顔を上げながら、男は僕の方に顔を向け、僕の頬を両手で挟んだ。僕の顔は、強制的に、それでいて優しく男の目に向けられた。そこには光はなくても、強い力があるように思えた。
「生きてりゃ辛いことだらけだろう。だけどな、その幸せを感じられるのも、生きているときだけなんだ。辛さの方が多く、強く記憶に残るものかもしれないが、絶対にどっちか片方だけの人生なんてのは存在しない。辛さがあれば、幸せもある。その幸せを、俺はあんたに、少しでも多く感じて欲しい」
「どうしてですか、それなら生きていなくてもいいはずだ。あんな世界で、生きていかなくても良いはずじゃないですか。どんな幸せも、それを上回るもので感じられなくなってしまったら元も子もないじゃないですか」
男は黙って僕を見ながら、少し黒服の方を睨んだ。黒服は、黙って立ち尽くしていた。男は僕の頬から手を離し、微笑みながら続けた。
「すまねえなあ。妖に引き続き、こんなことまであんたに言いたいわけではなかったんだ。ただ、今のあんたを、あっちの世界にとどめておくには、これを伝えなきゃあいけない気がするんだ」そう言うと男は一呼吸おいて、再び優しい声で告げた。
「この電車、黒服の兄ちゃん、そして俺たち死者。これは全部あんたが作り上げたものなんだ。これはな、あんたの夢なんだ。二つの意味でな」
僕の頭は、思考を止めたがっていた。今聞いたことを、理解したくなかった。
「でも、こんな、ここまで鮮明なものなんて見たこと無いです。もっと混沌としたもののはずだ。現実でないにしても、そんな、夢で終わるようなもののはずが」
「強く、望んだのでしょう? この状況を。貴方にとっては信じたい事実です。何度も何度も想像したのでしょうね。ただし、その想像を、貴方の中の貴方が止めたのです」
僕は、涙を流していた。表情には変化はなくとも、目から溢れるものは止められなかった。
「私も、彼も、貴方の一部なのですよ。これを心に刻んでください。死にたい、死後の世界があればすぐにでもそっちに行きたい。そう思い続けた貴方の中に、それは幻想だからよせ、現実の幸せに目を向けてくれ、と願う貴方がいたのです。彼も、貴方なんですよ」
黒服から再び男に目を向けると、僕は目を見開いた。先ほどまで、赤の他人だと思っていた男の顔が、段々と自分の顔のように感じるのだ。確かに今の自分と違う点も多い。しわの数も、肌感も、明らかに年を取っているように見える。それでも他人とは思えない顔つきに変わっていた。
正確には、彼が自分の未来の姿だと、今気付いたのだ。
「私は、案内人です。貴方に、貴方自身の世界を体験させる為のね」
そう言って黒服は資料やバインダーを背後に持っていった。気付くとまたそれらは何処かへ消えていた。
黒服が電車の端に目を向けると、電車の端が白く光っていた。目を向けられないほどの強い光がこちらに迫ってきている。
「夢というものは、夢だと認知した状態で長く居続けられるものではないのです。この体験ツアーは、ここで閉幕です」黒服はそう言って身体を傾けた。どこか、笑顔が見えたような気がした。
「兄ちゃん、最後にもう一度、伝えたい」
男が立ち上がり、手を差し出した。僕はその手をつかんで立ち上がる。男、改め未来の自分に向かって真っ正面から向き合った。
「この旅は、あんたにとって何も得られなかったかもしれない。全て幻想だったんだからな。それでも、死んだら何も感じられない。幸せも辛さも、感じられるのは生きてるときだけだ。精一杯、現世を満喫してくれ。ここまで聞いても、その世界が嫌になるようだったら、また会おう。考えが違っても、俺はあんただ。いつでも一緒さ」
握る手が、強くなる。僕もそれに合わせて全力で握り返した。
「はい、ありがとうございます。なぜか、もう少し生きていられそうです」
まだぼやけている僕の視界に入ってきたのは、部屋の天井だった。
僕の手には、まだ男の感触が残っている。手を見てみると、そこには布団を固く握りしめる僕の手があった。
帰ってきてしまった。それが正直な感想だった。
“幸せも辛さも、生きている間しか感じられない”
この言葉が、辛いことも少し貴重なもののように勘違いさせてくれているのだろうか。僕の身体は、間違いなく昨日より軽かった。
立ち向かうべきものは無限にある。それでも。
本当に生きていられなくなるまで、もう少し人生を噛みしめてみよう。起き上がって鏡の中にいた自分は、どこかあの男の表情に似ている気がした。




