転
少し後。私は公爵だった頃の持ち物を質入れして得た金で旅に出た。庶民と共に三等車に揺られ、遠くの海へ向かった。
この辺りはハイデルバッハ家の先祖の土地の一つだ。幼い頃に一度だけ連れて来られた事がある。その時は母と、たくさんの家臣達一緒だった。今の私の連れはカロリーネだけだ。
「少し考え事をしたい。一人にして貰えるか」
「ゆっくりご覧下さい旦那様、私、靴磨きの仕事をして来ます」
カロリーネは笑顔でそう言って駅の方に戻って行く。彼女は怠惰で無気力な私をとても良く支えてくれていた。
彼女はもう背中を丸めてもいないし、人を斜め下から見上げたりもしない、本当に、今の彼女は大変な器量良しだと思う。
私は彼女の荷物の中に密かに退職金を入れていた。彼女とはここでお別れだ。今となっては、カロリーネには申し訳ない気持ちしかない。
私は海岸を彷徨い歩いた。景勝地のこの辺りは夕方になっても賑やかだ。盛り場も多く営業している。私は、もっと静かな所を探していた。そこへ。
「なんだあお前? 肩が当たっておいて挨拶もなしかァ?」
前から来た四人の人相の悪い男の一人がすれ違いざまに私の腕を掴んだ。私は無視して立ち去ろうとしたが、男は腕を離さない。男の仲間も私を取り囲んで来る。
「顔がいいからって調子に乗ってんだろ、お前」
「このへんじゃ見ない奴だな?」
「何とか言えよ!」
後ろから足を払われた私は地面に転倒する。私はただ、されるがままに這いつくばった。私を袋叩きにしたいのか。それもいいだろう。
「……お待ち下さい!!」
しかし、今にも男に蹴りつけられようとしていたその時、誰かが私の背中に覆い被さった……何という事だ、これはカロリーネだ! 彼女は荷物の中の封筒をすぐに見つけ、私を探しに来てしまったのだ!
「主人に非があるのでしたら私が伺います、どうか乱暴はお止め下さい!」
「何だこの女……もしかしてこの男、貴族崩れかぁ?」
「へへへ、女に守られて、なんて不甲斐ねえ野郎だ」
「おい、この女よく見たら結構な別嬪じゃねえか」
私は振り返り、背中を覆うカロリーネを遠ざけようとした。
「待て、彼女は私とは無関係だ、離せ……」
「うるせえ!」
私は男の一人に、側頭部を蹴られた。
その瞬間。私の頭の中にあの時の光景が、あるはずのない記憶のようなものが蘇って来た。
†
私は王都の花街の裏路地に居た。
私は一日中飲んだくれ、荒んだ生活を送っていた。まともな友人にはとっくに見限られ、娼館の支配人達でさえも今では私を持て余している。
そして私の前には見知らぬ若者の骸が転がっていた。自分に何が起きたのかは覚えていないが、自分が何をしたのかは確信があった。泥酔した私は恐らく下らない事でこの若者と喧嘩をして、命を奪ってしまったのだ。
私に少しでも人の心が残っていたのは、献身的に世話をしてくれたカロリーネのおかげだったのだと思う。
「旦那様、これは……!?」
「カロリーネ……俺は、俺はもうダメだ、もう自分でもどうにも出来ない、俺はもう人の世に仇をなす怪物でしかない、頼む、一生の願いだ! その若者の短剣で、私の胸を刺せ!」
「そんな……そんな事出来る訳ありません!」
「口答えするなぁぁ!」
こんなにも荒んでしまった私をまだ見捨てないカロリーネ、そんな彼女の頬を、その時の私は……癇癪に任せて叩いた……!
「あ……ああっ……違うッ……こんな事がしたいんじゃないッ……頼む、頼むカロリーネ、お前が本当に俺の事を、誇り高きアウグスティン・ハイデルバッハだと思っているのなら、その短剣を持ってそこに立てッ! 俺に、俺に人の心が残っているうちに……命令だぁ! 早く、早くそうしろ!」
「旦那様……そんな、旦那様……!」
そして俺……私は、無理やり短剣を構えさせられたカロリーネに飛びつき、強く抱きしめた。あの女……彼女にそんな事をしたのは、あの時が最初で最後だった。
「駄目です……! 旦那様、おやめ下さい旦那様ぁ!」
「あ、ありがとよ……カロリーネ……ひ、ひ……これで喜劇は終わりだ! ハハ、ハ……」
私はカロリーネから離れ、仰向けに倒れ、目を閉じた……全てが終わったと確信して。
しかし。
数時間後、私は目を覚ました。何という事か。私の胸の傷は完全な致命傷にはなっていなかったのだ。そして。
「カロリーネ……カロリーネ、お前!!」
夜明けまでまだ遠い花街の裏路地の石畳の上で、カロリーネは倒れ伏していた。私が取りついた時には、その体はすっかり冷たくなっていた。
経験した事のない巨大な悲しみの塊が、腹の底から込み上げて喉を塞ぎ、溢れそうになる。呼吸が……呼吸が出来ない……!
何故カロリーネが死ななければならない!? だが彼女は間違いなく、私のせいで命を落としたのだ。私が考えもなしに、いつものように、彼女の事など何も考えていない、身勝手な命令を出したからだ!
カロリーネは実際には私を刺してなどいない、一人では死にきれないと思った、死ぬ時まで軟弱者だった私が勝手に彼女を殺人者のようにしてしまったのだ。
世間では私が狂人である事は知れ渡っていた。私はカロリーネがきちんと証言をすれば警察も彼女の罪を問う事はあるまいと思っていた。
しかしカロリーネ自身は許せなかったのだ、こんな弱い男を守れなかった自分を責め、カロリーネは、自ら命を絶ってしまった。
私は天を仰ぎ、絶叫した。喉が破れ肺が潰れるまで、私は願った、途方もなく堕落した自分に無様な死を、そんな私の腕の中で冷たくなっている、この罪穢れない乙女に救いを、だけどそんな事は無駄だった、もう取り返しがつかない!
完全に気が触れて五感が世界の全てを遮断するまで、私は叫び続けた……
†
カロリーネが私について来るのは、私が彼女に優しくしたせいだと思っていた。だがこの悪夢の中では私は一度も彼女に優しくしてなどいなかった。
図書館とくるみ割り人形。そこから分岐した、私が傲慢な男で居続け、カロリーネに辛く当たる世界線……だけどその世界線の中でもカロリーネは私に忠義を尽くしたというのか。何故だ。一体何の為に。
この記憶は一体何なのだろう。これが、もう一人の自分だと言うのか? とめどなく、涙が溢れる……!
「こんな男は放っておいて、俺達と遊ぼうぜ」
男共の声が私を現実に引き戻した。ここは王都の花街ではない、王国南部の町郊外の海岸だ。
そうだ。私にはもうこんな事をしている時間はない。
「ああ? なんだテメェまだふベシッ!?」
私は三秒でカロリーネを連れ去ろうとしていた男共全員に白目を剥かせ、カロリーネの手を握りしめ、強く引く。
「やる事が山ほど出来てしまった。カロリーネ。私と一緒に来てくれ」