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 本棚の上から落ちて来た、結構な重量のあるくるみ割り人形に頭を直撃された私、アウグスティンは、自分が自分でなくなったような錯覚に囚われていた。


「……アウグスティン様!?」


 頭を抱えて膝をつく私に、メイドの一人が駆け寄って来る。これは誰だったか……頭を打った衝撃のせいか、名前が思い出せない……

 他のメイドの着古しのドレス、髪は痛んでぼさぼさ、背中を丸め人を斜め下から覗き込むように見上げる女……そうだ、カロリーネだ。

 カロリーネは真っ先に私の元にやって来たが、私の前で挙動不審におどおどしている間に、他のもっと背筋の伸びたてきぱきと動くメイド達に追い越され、他の本棚の方へと突き飛ばされる。


「公爵様、御怪我はございませんか!?」

「何故こんな所に人形が」

「カロリーネ!? この人形をここに置いたのは貴女ではなくて!?」

「公爵様はこの人形は捨てろとおっしゃったのよ!?」


 メイド達は私を助け起こしながらカロリーネを責める……そうだ。私は何故かそれを知っている……本棚の上に、私が捨てろと言ったはずのくるみ割り人形を置いていたのはカロリーネだ。そこへ私がたまたま乱暴に本を投げ込んだので、棚が揺らいで落ちて来たのだ。


「あっ……ああっ……そのっ……私、その……」


 立ち上がった私はカロリーネを見下ろす。カロリーネは縮こまり、震えながら、私を斜めに見上げる。


「もっ、申し訳ありません、旦那様……!」



 私は二歩前に踏み出し、カロリーネの手を取り、膝をついていた。


「私は確かにこれを捨てろとは言ったが、その後で後悔していた。お前がこの人形をとっておいてくれたのか? ありがとう、カロリーネ。これは私の書斎のマントルピースに飾っておいてくれ」


 そう言って私はカロリーネを立たせ、その肩に軽く触れてから手を放し、図書室を出る。



 普段の私なら、彼女を酷く罵倒し叱責するのだと思う。私はそもそも美しくないもの、洗練されてないものが嫌いなのだ。そんな私がカロリーネに寛大な処置を取ったのには訳がある。

 あの人形に頭を打たれた直後から私の頭の中には、まるで見て来たかのように鮮明な光景が繰り返し流れていたのだ。失脚し地位も財産も失い地獄に堕ちた私を、最後にカロリーネが刺し殺すという光景が。

 これは記憶なのか? そんなはずはない。ただの気の迷いか? それにしては、あまりにも鮮明過ぎる。



 カロリーネを追放する事など造作もない。何なら自分が殺される前に彼女を始末する事だって出来るだろう。私は四公家の一つハイデルバッハ家の当主である。だがそれで問題は解決するのか?

 私はしばらく、カロリーネを観察する事にした。



 公爵家の跡取りとして生まれ幼い頃から社交界に親しみ、蝶よ花よと言われて育った私は、いささか結婚の時期を逃してしまっていた。今年で27になる私自身は、もうこのままでもいいと思っている。

 世界は退屈だ。学問も、武芸も、一体何の為に修めなければならなかったのか。成人した私の前にあるのはただ、巨万の富と人々の敬意だけだ。

 誰にでも出来るような仕事、畏まりましたとしか言わない部下、面倒な誘いと夜な夜な繰り返される退廃的な宴……色とりどりの美女達も、こうも思うがままでは食傷してくる。


 カロリーネの観察も、特に面白いものではなかった。

 平民の私生児生まれだという彼女は屋敷のメイドの中でも立場が低く、きつく汚い仕事を多くさせられている。他のメイドの仕事を肩代わりさせられる事もあるようで、いつ見てもやつれている。

 だがこの女の見苦しさの一番の原因はその卑屈さだ。公爵である私の前には外では毎日のように卑屈な人間が現れるし、屋敷の中にまでそういう人間に居て欲しくないのだが。実際、私はこれまでカロリーネにきつく当たって来た。


 しかし私の頭の中にはまだあの謎の記憶がある。私はこの女に、正面から刃物で刺される……そんな事が起こり得るのか?


「カロリーネ、お前はちゃんと休みを取っているのか? 疲れていては仕事を損じる事もある、休む時はきちんと休むのだ」


 私はカロリーネには用心深く接するようになっていた。


「あの、そんな、もったいのうございます旦那様、お休みは十分いただいておりますから、どうかこれからも旦那様の周りで働かせて下さい」


 しかしカロリーネは変わらなかった。ただ、私の周りで働きたいと言う。


「ならば背筋を伸ばせ、人を見る時は前を向け。それから、こまめに鏡を見るんだ。自分の一番いい表情の作り方は、鏡が教えてくれる」



 季節が代わり、移り過ぎて行く。


 メイド達が陰で噂しているという。最近、仕事が楽しくなったと。私は別段、彼女らに娯楽を与えたつもりはないのだが。


「いつもありがとう。お前のアイロン掛けは最高だな。王都の一流店にもひけを取らぬ」

「花瓶に季節の花を生けているのは君か? 一年中薔薇ばかり飾られるよりずっといい、通りすがる度に心が踊るぞ。感謝する」


 カロリーネに気を遣うついでに、他のメイドの仕事ぶりにも気を使うようになった事が、何かの変化を生んだのだろうか。

 目に見える変化はそれだけではなかった。あの無様なカロリーネの様子が以前と変わって来た。

 私に再三言われたせいもあるだろうが、身だしなみに気を使うようになった。伸びすぎの髪はきちんと切り、古いお仕着せもきちんと修繕して着こなしている。

 休む為の時間も意識して自分で作るようになったのだろう。いつもどんよりと曇っていた眼には輝きが宿り、背筋も少し伸びた。まだ、私の目を見て話すには至らないが。


「そうして胸を張って真っすぐに見ていれば、お前はなかなかの美人なのだぞ、カロリーネ。仕事もこの通り完璧だしな」

「ひっ!? あっ……あの、旦那様、そんな、もったいのうございます、どうか私などにお気を遣わないで下さい」


 私はメイドにお世辞など言わない。実際に身だしなみを整え背筋を伸ばし前を向いたカロリーネは十人並みの器量を備えていると思う。


 夜会に行けば傾国の美姫が溢れていて、手を伸ばせばいくらでも触れる事が出来る……そういう女たちに比べれば、カロリーネの見た目など取るに足りないものだろう。それでも私はカロリーネの野に咲く花のような素朴な美しさに、少しだけ惹かれていた。

 一方、私は忘れてもいなかった。この女はいつか、私を刺して殺すのだと。

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