6: 野盗たち
血や汗、焦げた衣服の混じった独特の臭いが馬車の中に充満してゆくのが分かる。
かつてイリオス帝国の野戦病院で傷病者の世話をしていたことがあるが、このむせ返るような臭いは「死の臭い」と呼ばれていた。そんな折でも私たちの仕事は患者に迫りくる死を追い散らすことだったし、今もやることは変わらない。
嗚咽混じりの呻き声を漏らす御者の着ている上着とシャツの前部を開き、傷口を露出させる。なるほど戦場でありがちな傷だ、と冷静さを取り戻しつつある頭で考えた。
魔法使いというものは、程度の差こそあれど大体の場合魔法を一種の飛び道具として攻撃に転用できる。私だってあまり得意ではないがいちおう可能だ。最も簡単なものは『魔法の矢』という名前で通っていて、まさに魔力を矢状に形成し、対象に向けて飛ばす魔法だ。熟練する程大きな矢を飛ばすことができるので、そうなると『魔法の杭』とか『魔法の槍』などと呼ばれる場合もある。
御者の痛々しい傷口は、恐らく『魔法の矢』によって抉られたものだ。当たりどころ次第で命を落とすことも珍しくない威力を持っているので、軽傷とは決して言えないが、まだマシな方だ。
杖を傷口へ向け、意識を集中する。先ほどクラウスの手の平を治療した時と規模は違えど手順は全く変わらない。
呼吸を整え、落ち着いて傷を癒すイメージを練り上げる。自身の内に流れる魔力を杖から御者へ送り込む……。
さすがにかすり傷とはワケが違うので、即座に傷口を塞ぎ切ることはできないが、出血が止まりつつあるのを見ると、確かに治癒魔法は効果を発揮しているらしい。
治癒魔法に限らず、人体に干渉するタイプの魔法は、魔法の使用者の才能だけでなく対象の体質がある程度重要なのだ。私とこの御者の間で魔力をやり取りするので、その回路を円滑に繋げることのできなかった場合、つまり魔力的な相性が合わなかった場合、魔法がうまく効果を発揮しないどころか、却って悪影響を及ぼすことも稀にある。私とこの御者との相性は、とりわけ良いというわけではないが悪くもない。つまり普通だ。緊急時なので、普通がもっともありがたい。
荒い呼吸の御者に治癒魔法をかけ続ける。漏れだした魔力がほのかに温もりを持った光となってあたりに漂う。私の額にも汗が浮かんだ。
「大丈夫。助かりますから」
言い聞かせるように呟いて、御者の手を握る。わずかに震える彼の手にはべったりと血がついていて、生温かく濡れた感触が伝わってきたが、そんなことはどうでも良かった。力の抜けきった彼の手を強く握りしめ、治癒魔法を続行した。
「……っぐぅう、う……」
身体の穴が半ば塞がりかけてきた時、御者の呻き声に意識が宿った。
呼吸をするのに精いっぱいという様子で、苦しそうに私に呼び掛けてくる。
「お、お客さん……」
「動かないでくださいね。今も痛みますか」
「痛いけど……だいぶ楽でさあ……」
「そりゃ良かった。もうすぐピンピンになりますよ」
「ああ……それは、ありがてぇ、ことです」
御者が汗にまみれた顔で笑みをつくったので、私もにっこりと笑った。
金属を打ち鳴らす音と聞きなれない叫び声が、それ程遠くないところで響く。クラウスが今もこのあたりで野盗を相手に大立ち回りを演じているのだろう。御者が視線だけを不安げに窓の外へ向けた。
「大丈夫ですよ。私の同行者が野盗をやっつけているところです」
「へえ、しかし……返り討ちに遭っちまわねェか心配で……実力は確かなんですかい」
「実力は……」
答えに詰まってしまった。
私はクラウスの腕っぷしについてよく知らないのだ。実戦経験が豊富だとは聞いているので恐らく問題無いと思うのだが、どうしても先ほどのかすり傷の記憶が邪魔をしてしまう。
「……実力は、たぶん確かでしょう」
「たぶん確かって何ですかい」
会話をしている間に、御者は私の変な言葉選びを指摘できる程度には元気を取り戻したようだ。傷口はもうほとんど跡形もなくなっているし、顔色も良くなった。
私は大きく息を吐いて杖をしまった。額の汗を拭い、「こんなもんでしょう」と言って握っていた左手を放すと、御者は少し名残惜しそうな表情を浮かべた。全快らしい。壁を支えに半身を起こした御者に念を押す。
「失った血は戻りませんから、無理はしないでください。そこを動いたら駄目ですよ」
「へぇ、分かりやした」
こちらの問題が解決すると、俄然あちらの様子が気になってくるというものだ。クラウスが上手く野盗を撃退してくれたのかどうかどうしても気になり、開け放たれた馬車の扉から少しだけ顔を覗かせた。
……林道のすぐ先の方に、何人かの野盗が転がっている。彼らは文字通り血の海に身を沈め、ぴくりとも動かない。もしかしたら生きているかもしれないが、先ほどまで私たちの命を狙っていた連中だ。残念ながら彼らの命を救う気には今のところなれない。
馬車の背後に延びる道の方へ向き直って見まわしてみるが、こちらには人影もなかった。クラウスはどこにいるのだろう。私は先ほどまで使っていたのとは別の、サーベル程の長さの杖を掴み取り、恐る恐る馬車から降りた。
木々が風でざわつく音と、自分の心臓の音が、妙に大きく聞こえる気がした。
いつでも野盗に対処できるように杖を構え、林道の端に沿ってゆっくりと前に進む。クラウスはどこに行ったのだろう。もしかして、やられてしまったのだろうか。縁起でもない考えが頭をよぎるので、生唾を飲み込んでごまかす。
血溜まりに身を伏す野盗を横目に更に進もうとすると、前方の林から人影が駆けおりてくるのが見えた。
いつも通りの濃い紺色の軍服(既に辞職した筈だが、今も同じ制服を着続けている)はほとんど血に染まってしまっているが、ややクセがあり黒くぼさぼさの髪が特徴的なのですぐに分かった。クラウスだ。彼を見てこれほど安心したことは未だかつて無かった。正直、泣きそうだ。
「クラウスさん!」
私は杖を持ったまま全力で手を振った。
全身に真っ赤なシャワーを浴びたような様相の彼は、私に気づくとぎょっとしたような素振りを見せた。
「バカ! 馬車の中にいろと言ってるだろ!」
彼が私に大声をあげた瞬間、私の隣に広がる林から何かが飛び出してきた。刹那、私は衝撃と視界の反転する感覚を同時に味わい、何が起こったのかが理解できなかった。
目の前にじゃりじゃりした地面が広がっていて、まるで蟻の視界だ。頬に土がこびりついたのが分かる。頭も打ったらしい。誰かが私に組み付いて、杖を奪った。クラウスが剣を振り上げて駆け寄ってくるのが見える。
「止まれ! この娘を殺すぞ」
そいつは叫びながら私の身体を無理やり引き起こし、左腕で私の首を締め上げた。右手には短剣を携えているようで、私の頬に剣の腹をぺしぺしと当ててくるので短い悲鳴をあげてしまった。
クラウスを見つけて安心しきった私はどうやら油断していたらしい。林に潜んで好機を待っていた思わぬ伏兵にまんまと引っ掛かったわけだ。
クラウスはこの男の脅しに応じて足を止めた。
「好き勝手やってくれたな。武器を捨てて両手を挙げろ……」
男は、「さもないと……」と囁き、私の頬をさっと短剣で撫でた。
彼の短剣はナマクラではないようだ。ひりつくような痛みと共に、鮮血が零れ落ちて私のローブを染める。クラウスは眉をひそめて野盗を睨みつけるが、さしたる抵抗はせずに手に持っていた剣をそっと地面に横たえた。
「そうだ……。両手を挙げろ……」
息を荒げて満足げに命ずる野盗に従い、クラウスは両手をゆっくりと挙げた…………、
かと思った矢先、何かをこちらへ向かって思い切り投げた。何を投げたのかも、どこから取り出したのかもよく分からないが、とにかくそういう挙動をしてみせた。
それとほとんど同時に、私を取り押さえていた野盗の身がのけぞった。勢いのままに、私も彼と一緒に地面に叩きつけられる。
「おい大丈夫か、イリオス女」
どういうわけか倒れたまま動かなくなった野盗の腕から逃れようともがいていると、ずかずかとクラウスが近寄ってきた。
「だっ……いじょうぶです。あの、さっきは何、投げたんですか」
「短剣だ」
クラウスが事も無げに答える。何とか野盗の腕から抜け出して上体を起こし、倒れっぱなしの彼を見ると、その眉間に見事に短剣が突き刺さっていた。
「いや、どこから出したんですか」
「剣を吊るす為の革ひもの、ちょうど背中のあたりに短剣をいつも差している。両手を挙げるついでに引き抜いておいた」
「そんな隠し玉が……」
「普段は外套で見えないからな」
クラウスの用意の良さに対して、私は素直に感心させられた。しかし、先ほどから震えが止まらないのだ。具体的に言えば、ついさっきまで私を人質にしていた男が眉間に短剣を投げ込まれていたことに気づいた瞬間から。聞きたくないことではあるが、後学の為にいちおう尋ねておこう。
「あの、ちなみになんですけど、これ私に直撃する危険もあったんですよね」
「当たり前だろう」
「……え、嘘ですよね…………?」
この短剣が誤って私の眉間に墓標のごとく突き立っていた恐れがあるということか。この男があまりに淡々と答えるのがかえって生々しく、声が震えてくる。今日の騒動の中でもっとも自分の生について意識させられたかもしれない。
「……」
「……」
「ちょっと……」
「いや、冗談だ」
クラウスが血みどろの顔でうっすらと笑った。多感な子どもなら泣きわめいて裸足で逃げ出しかねないような絵面だが、私は無性にイラッとした。今の沈黙、手の平のかすり傷の件の意趣返しだろうか。
「大した距離でも無かったから、こいつに命中させる自信はあった。しくじってもお前に当たらないように意識して投げていたから心配するな。第一しっかり仕留めたんだから文句は何も無いだろう」
「そ……それは確かにそうですが……うぅ……」
「怖かったなら次は馬車から降りないことだ」
「……それは……すみません……」
あまりにも結果論な主張だが、そもそも私が勝手に馬車を離れたためにこうなってしまったのが事実なので結局何も言えなかった。
「そういえばクラウスさん、怪我は……」
「無い、すべて返り血だ。野盗はこいつを含めて八人いたが皆殺しにした」
「み、皆殺しですか。少し不安でしたけど本当に強いんですね」
「やつらが弱かっただけだ。それよりお前、今は自分の頬を治すべきだろう」
私は「頬?」と零して自分の頬に触れた。指先にさらりとした感覚が伝わり、見ると赤く濡れている。脅しがてら軽く切れ込みを入れられたのを失念してしまっていた。
「いきなり短剣が飛んできたんで、忘れてました」
皮肉っぽく言うが、クラウスは全く意に介する素振りも見せずに「立てるか」と手を差し伸べてきた。私はどことなく敗北感めいたものを覚えずにはいられなかったが、とりあえず彼の手を取って立ち上がった。彼の手は返り血にまみれていたが、ほとんど乾いていて、手を握るとポロポロと血の塊が落ちた。
「御者はどうだ」
「ばっちり治しましたよ。今は馬車で休んでもらっています」
「そうか。新手がやって来たら面倒だ。すぐに出発しよう」
私は野盗に投げ捨てられた杖を手に取った。
この帝国打倒に燃える若き軍人が実のところどの程度の戦闘力を有しているのかは疑問だったが、八人の敵と単独で戦って無傷で生還してきたことを考えると、相当の実力者だということは明白だ。
流石に若干の疲労の色は見えないこともないが、馬車へ戻る彼の後ろ姿からは余裕さえ感じる。相当に戦慣れしているのだろう。
私も従軍経験が無いではないが、専門が治癒魔法ということもあって常に後方支援の役割に回っていた。そのため、これ程までに身近に命の危険が迫ったことは初めてだった。
その場にいたのがクラウスだったからこそこの窮地を切り抜けることができた、という気持ちが重くのしかかる。まして、これから向かう先で戦争が起こるとすれば、その時もクラウスに頼りきりというわけにはいかないだろう。私自身がなんとかできるようにならなければ、という思いが募る。
……血溜まりを越えて再び走り出した馬車の中で、私は自分の頬にできた傷を癒しつつ、目の前の男に対してある種の尊敬の念じみたものを抱かずにはいられなかった。
お世話になります。
お読みいただきありがとうございます。
TS娘が良いようにあしらわれるのが好きです。
以上!