5: 馬車の旅
ガタガタガタガタ頼りなく揺れる馬車の隅、私は毛布に身を包んで丸くなりながら、目の前の男を見ていた。彼は私よりも二回りも大きい身体を窮屈そうに曲げて、抜き身の剣を手入れしている。馬車がひきつけを起こしたように揺れる度、彼の手元も危なっかしく震える。
馬車の中で時間を持て余している時、彼は武器の手入れをしたりひたすら何かの執筆に熱中していたりするのだが、今だけはやめておいた方が良いのでは?と思わずにいられない。
「それ、危なくないんですか。揺れてるし」
思わず口を挟んでしまった。馬車の中は娯楽に乏しいので、暇をつぶすためにできることは非常に限られている。それ故に彼は武器を万全の状態に保つ為の手入れを延々と行い、私はそんな彼に話しかけてしまうほど退屈しているのだ。
目の前の男――クラウスは、面倒くさそうにこちらを一瞥し、大きく息を吐いてから答えた。
「全く問題ない」
「でも今走ってる道、相当悪路ですよ。ほとんど整備されてないみたい」
「ルークイ王国の士官はどこであろうと剣の手入れができるように訓練されて――」
その時、車輪が大きめの石か何かに乗り上げたらしい。車体がひときわ大きく跳ね、私たちの身体も一瞬宙に浮いた気がした。刹那の浮遊感の直後、大地の引力に従って再び床に叩きつけられる。御者が短く「すいやせん」と叫んだので、「お構いなく」と叫び返した。ガタガタうるさいので声を張らなければ御者と意思疎通することは不可能だ。
「まったく……」
愚痴っぽく呟いて視線をクラウスの方へ戻す。なるほど大したものだ、彼は先ほどまでと全く変わらない様子で剣の手入れを続け……
「あれ……。クラウスさん、それ……」
「…………」
「…………」
「……………………」
「…………いや、手ぇ、切れて……」
「……………………」
…………クラウスは静かに剣を鞘へと収めた。
私たちがアラギノを発ってから既に八日。彼が銃や剣を手に取って手入れか何かをしている様は見慣れたものとなっているが、今までの彼の挙動の中で最も滑らかだと言い切って良い程に洗練された無駄のない動きだった。
◆◆◆
退屈な馬車の中で思いがけず起こった愉快な出来事にひとしきり笑わせてもらった後で、少し間が悪いかもしれないと思いつつも、私は正直にクラウスへ苦言を呈した。
「だぁーから言ったじゃないですか。『危なくないんですか』っていうのは単に尋ねてるんじゃなくて、『危ないぞ』と遠回しに注意してるんですよ」
「いや、これも一種の訓練だ。戦場ではより危険な状態で剣を扱うことになるかもしれない。だから我々軍人はそのことを」
「わけ分からんこと言ってないで早く手ぇ出してください。治療しますから」
恐らく、この男が悪路を果敢に突き進む馬車の中で刃物を扱うことは二度と無いだろう。それにしても軍人という生き物は、皆が皆こうも強がらなければやっていけない性質を持っているのだろうか。ある意味すごいとは思うが、生きにくそうでもある。
この二人旅が始まって早々に分かったことだが、この男はそれなりに隙を見せる。意地を張り通す生き方は向いていないように思えるが、そこは何かしらの信念があるのかもしれない。
私は鞄に吊るした短い杖を右手で引き出し、左手でクラウスの手を取った。色々と弁明をしてはいるものの、流石にこれは自分が愚かだったとクラウス自身も分かっているらしく、痛々しい裂傷をつくった右手を素直に差し出してくれたのでやりやすい。
中々豪快に裂けた彼の右手の平に杖を構え、意識を集中させる。呼吸を一定に保ち、傷口を塞ぎ癒すイメージを強く頭に描く。そのまま自身の魔力を、杖を通じて流し込むと……。
「はい、終わりです。流れた血は乾いたら浄化魔法で落とせますけど、どうしますか」
「……いや、いらない。拭えば済む」
「まあ拭った布も浄化かけますから同じですね」
我ながら、魔法使いという生き物は長旅に連れて行くと本当に便利なものだ。そもそもの才能や適性といった障害があるにはあるが、簡単な浄化魔法さえこなせれば旅人たちに引く手あまたなことは間違いない。
私の場合、特に治癒魔法が専門ということになっているが、現在発見されている魔法の内初歩的で基本的なものはほとんど修得しているので、クラウスにとってはさぞ頼もしいことだろう。なんと何も無いところから水を生み出したり、火を起こしたりできるのだ。そろそろ「イリオス女」などと言っていないで真面目に私の命を守る気になってくれているだろうか。
「それにしても」
クラウスが治った右手を握りしめたり開いたりしながら呟いた。
「前から思っていたが、帝国の法官は誰でも全く詠唱をせずに魔法を使えるものなのか」
感心したような、恐れを抱いたような複雑な声色だ。無理もない。彼は私を憎き帝国の法官代表と考えている節があるのだから。
とは言え、彼の疑問はもっともだ。魔法というものは通常、決まりきった口上や幾何学的なお絵かき(魔法使いは普通、これらを少し気取って『詠唱』とか『魔法陣』とかいう名称で呼ぶ)といった条件を経て発動するものだ。しかし、今のところ私はそれら準備の類を一切必要としていない。
これの何がクラウスにとって恐ろしいかは聞くまでもない。彼のような軍人の仕事場である戦場において魔法使いが詠唱も無しに魔法を使えるとすれば、強力な魔法がひっきりなしに敵の戦列をぶち壊し、即座に戦いを終結に導くことが明らかだからだ。しかし、実際はそうなっていないし、きっとそうなることもない。
「いえ。これは何て言うか……。特殊体質と言いますか、頭の中で詠唱や魔法陣の作成を済ませることができると言いますか、とにかく私に限ってできる芸当です」
杖を指先でくるくると遊ばせる。
クラウスはあまり腑に落ちていない様子で、眉間にしわを寄せて聞き返してきた。
「頭の中で詠唱を?」
「私自身も詳しいことはよく分からないんですけどね」
「疲れないのか」
「そりゃ疲れますよ。無理して何度も続けると卒倒します。けど治癒魔法は専門なので、半ば無意識に出来る程度には慣れてます」
クラウスは口元に手をあてがい、何か一人で考え込み始めた。袖口に少し血が染みているので、後で浄化をかけなければならない。彼が何を考えているのかはよく知らないが、恐らく戦争で私をどう活かすかを思案しているのだろう。私としては、どう活かすかというよりどう生かすかに心を砕いてほしいところでもある。しっかり守ってくれ。
とは言え、実際のところ私のこの特異体質が劇的に役に立つかと問われればそれは怪しい。あくまで「詠唱や魔法陣にあたる準備を頭の中で済ませる」のであって、そうした準備をすっ飛ばせるわけではないので、一発芸の域を出ないと私は思っている。
まあ、考えるのは自由だ。
真剣に悩んでいるらしいクラウスを後目に、私は再び毛布にくるまった。時刻はまだ昼過ぎなのだが、馬車が林道を突っ切っている最中なので、日光が木々に阻まれてまばらにしか射し込んでこず、日暮れ近くのような錯覚を覚えて眠くなる。ルヴェール王国領に到達するまでにはまだ数日を要するので、休める時に休んでおくことが大事だろう。固い長椅子に体を横たえ、目を閉じた。
……のと同時に、車体が再び大きく揺れた。身体が不意に突き上げられ、私は長椅子から転げ落ちた。
耳をつんざくような馬の嘶きが響き、しばらくして揺れが収まる。
いや、揺れが収まっただけではない。馬車自体がその場で停止してしまっている。
「これ……」
「シッ」
違和感を覚えて声をあげ、身を起こそうとする私をクラウスが押し倒した。「野盗の襲撃だ。窓の外から狙われる、身を乗り出すな」と言うので頷き返す。
林は少し小高い丘状になっており、私たちが立ち往生している林道はその谷間に沿って延びている。つまり、野盗からすれば左右の高地から私たちを狙い撃ちに出来てしまう。
私が縮こまったのを確認したクラウスは、馬車の前面に取り付けられた小さな戸を開き、片手で御者を車内に引き込んだ。
壮年の御者の服は胸元から脇腹にかけて大きく焦げついて裂けており、その内側からどくどくと赤黒い血が溢れていた。
いかにも苦痛に満ちた表情でぜえぜえ浅く余裕の無い呼吸を繰り返し、涙が堰を切って流れ出ている。日常生活を送る上ではまず起こりえない種類の怪我だが、私は法官府で勤務していた時に戦地に赴いたこともあるので、この手の傷にはそれなりに覚えがあった。
「魔法による、裂傷……」
「治療できるか」
「い、今からします」
震える御者の身体へ容赦なく刻まれた傷に私が杖を構えるのとほぼ同時に、クラウスは剣を鞘から引き抜いて馬車の乗降扉を開けた。
「俺は野盗どもを片付ける。そいつを治しても俺が良いと言うまで出てくるな」
正直なところ、先ほどまで手を切って気まずそうにしていたこの男が荒事で役に立つのかどうか、私は心配だった。しかし、この場では彼を信じる他無さそうだ。
「気をつけて」
意外な程に落ち着いている彼とは対照的に、私はよほど気が動転していたらしい。そんな当たり障りのない言葉をかけることしかできなかった。
お世話になります。
お読みいただきありがとうございます。
お読みいただいた皆さんの好きなTS娘要素も教えてください。
以上!