2: アラグノイア帝室魔法魔術学会
アラグノイア学会。
朝っぱらから私に召集令状を叩きつけてきたこの迷惑な学会は、私の住まう街アラギノに本部を構える謎の組織だ。
謎の組織というのも、この学会は大陸各地に支部を抱えていて、組織の規模自体はかなり大きいと言えるはずなのだが、実際のところ何をやっているのかがよく分からないのだ。外部に公表している基本方針では魔法の研究の促進が目的らしいのだが、他方では裏の世界で広く活動をしている結社であるとの噂もある。
そんな危険で怪しい方々からの誘いを受け、私は朝イチで自宅を後にして馬車を手配し(旅券は学会が揃えて手紙に同封してくれた。そういうところは気が利いていると認めざるを得ない)、一路学会本部へと向かうことになったわけだ。
道中、頭をフル回転させてなぜ呼び出されたのかを考えていた。最近やらかしたことと言えば……。
学会の蔵書に誤って茶を零した件も、眠り薬を作りながらうたた寝していたせいで煙が外に漏れ、近所一帯の住民を眠らせてしまった件も、いちおうは片が付いているはずだ。学会はいやらしい集団だが、そういうことを蒸し返したりはしない。
……結局、腑に落ちることのないまま学会本部に辿り着いてしまった。
アラグノイア学会。正式にはアラグノイア帝室魔法魔術学会。設立からウン百年の歴史を持つ権威ある学会なだけあって、入口の大扉へ続くピカピカの大理石の階段は相変わらず荘厳で気取っている。
設立後すぐに公費で建てられたらしいこのバカでかい建築物は、それ以来一度も改修されていないというのだが、全く汚れや劣化の様子は見受けられない。魔法で当初の状態を維持し続けているのだろう。大層なことだ。
無駄に踏みしめるようにして階段を上り、両手で不必要に巨大な扉を開ける。私は簡単に開けることができるが、通常は会員以外の人間には開けられない。私は学会に所属しているわけではないのだが、そこは大人の事情、要するに例外だ。
建物の中に踏み入ると、扉が音を立ててひとりでに閉まった。しばらくぶりの学会本部は、やはり窓が極端に少ないのが鼻につく。魔法仕掛けの灯りがいくつもついているので特段暗くは無いが、夜中でもないのにこうも灯りをともすのはどうかとも思う。
「相変わらず……呼んどいて誰もいないってどういうことだよ、本当」
周囲には上等なソファがいくつか並んでいて、フロアの奥には更に先へと進むための扉が照らされている。
実を言えば、私が勝手に侵入できるのはここまでなのだ。これより先は、いくら例外と言えども学会員の随行無しには進むことができない。独りで先に行こうとするとあからさまな魔法による妨害を受けるのだ。そのくせ肝心の随行者がいないために私はこのフロアで待ちぼうけを食わされることになってしまった。学会のそういう態度が気に食わない。
私は仕方が無いのでソファの一つに腰掛け、鞄から今朝受け取ったばかりの書物を取り出した。
『大陸誌 第四巻』。送り主のもとでその本を読むというのは何とも奇妙な状況ではあるが、そんなことにこだわる私ではない。
……ところで、私が首を長くして待っていたこの本について多少の紹介をしておきたい。
『大陸誌』シリーズは十年ほど前に発案された一大プロジェクトで、現在までに四巻が刊行されている。大陸各地の歴史家たちが連絡を取り合って創り上げているこの歴史書は、魔法の発達に伴う通信・交通の便利の向上が可能にした人類の叡智の結晶と言って良いだろう。
現在、大陸にはごく小さなものも含めれば数十個の国が乱立し、その内のごく少数が広大な領土を支配する列国として名を馳せている。要するに現在の大陸は群雄割拠の状態だ。
しかし、かつて一度だけ、あまりにも巨大な大陸を覆いつくす途方もない大帝国が出現したことがある。
その大帝国を建設した国父は、アラグノイアのエルハルトと名乗っていた。
エルハルトは大陸全土を併呑し尽くした際に自らを大帝と称し、アラグノイア統一帝国の成立を高らかに叫んだ。大陸全土の民衆に果たしてエルハルトの声が轟いたかは定かでない。しかし少なくとも、当時の大陸においてエルハルトの声をかき消すものは何もなかった。魔法使い、力自慢、学者、技術者が大陸中から結集し、この帝国の未来の為に働いたと言われている。
しかし、大帝の死後、アラグノイア統一帝国は継承戦争に次ぐ継承戦争によっていとも簡単に崩壊してしまった。暫くの間は大陸中の国々は揃って大陸統一を目指して戦争に躍起になっていたが、やがて疲れてしまったのか、それとも戦争の悲惨さを学んだのか、諸国が平和に分立する体制へと転換した。これが今の大陸の勢力分散に繋がっている。
結局、大帝エルハルトが後世に遺したものの中で唯一大陸全土に記憶されているものといえば、彼が世界征服の偉業達成を祝って作らせた共通の暦法――通称「統一暦」だけであると言うのが、歴史家たちの間ではお決まりの文句だ。統一帝国の成立が統一暦元年で、今は統一暦六一二年。
『大陸誌』シリーズはエルハルトの出現以前の戦乱時代から、エルハルトによる統一事業を経て、そして彼の死後、現在に至るまでの大陸全土の歴史を描き出すことを目的としている、壮大なプロジェクトなのだ。そして、この学会はアラグノイアの名を冠しているだけあって『大陸誌』プロジェクトに並々ならぬ関心を注いでおり、各地の支部を動員して全面的に協力している、らしい(実際のところはよく分からない)。
この学会の強みは正にその大陸全土のコネクションにあると言って良いだろう。統一帝国がまだ崩壊していなかった時期に大帝の勅令によって創設された学会なだけあって、多くの資金がつぎ込まれ、大帝亡き後も何とか生き延びることに成功した生きた化石でもある。何だかんだこの学会自体が統一暦と並んで大帝の遺産なのだ。
……『大陸誌 第四巻』は、いよいよエルハルトが頭角を現し、大陸制覇の大事業に着手しだすという重大な巻だ。上等な触り心地の紙を数ページぺらりとめくり、私はこの本の世界に没頭…………
「おい、イリオス女」
………………。
没頭…………
「イリオス女、聞いてんのか」
…………没頭できなかった。
えらく不機嫌そうな、荒っぽい声が上から降ってきて、反応が遅れたとみるや即座に頭を掴んでガシガシ揺さぶってくる。私が学会のことをどうも敬遠するようになった要因の一つと決めつけても良いであろう男が、いつの間にかそこにいた。
「だぁーかーらー、その呼び方はやめてくださいよ。あれですか、そういう差別的な言葉も学会の発明品ですか」
皮肉っぽい口調で威嚇し、男の手を振り払って立ち上がる。ずい分と大男なので、立っていても彼と会話するためには顔をかなり見上げるかたちになるのが何とも悔しい。私より五つか六つ年上なのもあるが……黒いぼさぼさのくせ毛に、目つきの悪い顔立ちを見ると憎たらしい気持ちが沸き上がる。
アラグノイア学会のメンバーは本当に多彩だ。魔法使いだけでなく、政治家や軍人、市民階級の知識人などもちらほら見かける。この男は王国軍の士官で、私にとっては数年前からの知り合いだ。と言ってもほとんど関わりも無いのだが。
初めて会った時から変わらず、彼は常に濃い紺色を基調とした軍服を身にまとっている。この日も例外ではなかったようで、私の目の前で彼の軍服の金ボタンが輝いていた。
「イリオス帝国の怪物皇帝の手駒だったんだろ」
「昔の話ですし、そもそも法官として勤務してたのはほんの一年たらずです」
「一秒でも法官府にいたなら同じだ」
「はぁー、本当に濃くて頑固な思想ですね。仮にも残留将校として王国軍の再建に関わってたお人だとは思えません」
「流人に分かられたくもない」
ギッッッッ、と奥歯を咄嗟に噛み締めた。この男は武骨な軍人像でも気取っているのか知らないが話し方がどうもいけすかない。そのくせやたらと突っかかってくる。それに応えてしまう私も私なので、一旦そっぽを向いて深呼吸する。私は大人だ私は大人だ…………。
大きく息を吐き、精神を落ち着かせてから男に向き直った。
「それで、今日はどういったご用件でしょうか? クラウスさん」
クラウスはぶっきらぼうで頑固で帝国嫌いで皇帝憎しの一転張りで傲慢で皮肉屋で分からず屋でイヤな感じで人を見下した態度がムカつく男だが、会話のできない人間ではない。努めて友好的な笑顔を急に持ち出した私の問いかけを停戦の合図と理解したらしく、首をぼりぼり掻いて答えた。
「それについては奥で話があるらしい。行くぞ」
言い切らずして歩き出したクラウスを追いかける。フロアの更に向こうへ続く扉を通り抜け、長い廊下を全く無言で歩いてゆく。クラウスは背が高い上に歩調が早いので、私は早足で追いかけなければすぐに置いてけぼりになってしまう。将校ともなれば社交界で活動することもある筈なのだが、どうしてこの男はそうした気配りができないのか。
私とクラウス、都合四つ分の足音が固い廊下の上で跳ねる。フロアでは外からの光はほとんど射し込んでいなかったものの灯りが十全に用意されていたが、この廊下には必要最低限の光しか灯っていないので、地下壕のような趣を感じさせる。
「ここだ」
ぼーっとそんなことを考えながらクラウスの背を追いかけていたのだが、その背が急に止まったのでぶつかりそうになり私も慌てて立ち止まった。
距離と方向の感覚を失わせる味気の無い廊下はすぐそこで途切れており、代わりに木製の簡素な扉が待ち構えている。
その扉には、いかにも急場でこしらえたような具合で『ようこそ!』と書かれたプレートが吊るされていた。
お世話になります。
お読みいただきありがとうございます。
TS娘が心と体の乖離に困惑するやつが好きです。
以上!