1: 贈り物
「出自さえ定かでない一人の少女が当時、全大陸史における回転軸となっていた。この点はあらゆる歴史家の間で論を俟たない共通の認識である」――『大陸誌 第三五巻』より抜粋――
◆◆◆
カーテンの隙間から射し込む朝のさっぱりとした光と共に、たくさんの音が耳に流れ込んでくる。
鈴のような鳥の鳴き声。
固く地面を叩く馬の蹄。
食器同士がぶつかり合って響く朝食の音。
何もこの時間に限った話ではないのだが、私にとってはこういう音は朝方がとりわけ心地よく聞こえる。もうひと眠りできそうだ。
私は肌触りの良い毛布を引き寄せて小さく丸まった。
今日の仕事やら何やらと言った煩瑣なあれこれがほんの一瞬だけ脳裏をかすめるが、すぐにどうでも良くなった。もう少し寝てからでも何とかなるだろう。私は今、何よりも自由だ。
「先生! おはようございます、テスタ先生! もう起きる時間ですよ!」
……前言撤回。
ガンガンと大雑把なノックをした後、ほとんど間髪入れずに部屋に滑り込んできたのは、一緒に住んでいる私の生徒――弟子?――だ。初めのうちはもっとしおらしかったはずなのだが、要領を掴んでくるにつれて段々と積極的になり、今では家主のごとく私の家のことを知悉している。
目を開けるのも面倒になる眠気に沈んでいたので、私はかなりそっけなく答えた。
「あと少し、ね……」
毛布の隙間から差し出した腕をヒラヒラさせて誤魔化そうとすると、「だめです」と、その腕をがっしり掴まれた。これは失敗したなと思う間も無く体を引き起こされる。
「頼む。あとちょっとだけ寝られたらもう悔いは無い、この人生」
と、懇願してみても、「何言ってるんですか」と聞き入れられない。それもその筈、この手のやり取りはもう何度も繰り返しているからだ。私はかなり本気で言っているのだが、傍目には中身のない形式的なものにしか思えないのだろう。
せめてもの抵抗として、ベッドの上で体を起こしたまま睡眠を継続しようとする。頭がゆらゆらと舟を漕ぐのがちょっと不快だが、仕方ない。
「もぉー。先生いっつも朝弱すぎですから」
笑い混じりの呆れ声に、何だか申し訳ない気持ちが芽生えた。思えば私はこの愛弟子に色々と用事を放りすぎている。ここまでしてもらっているのだから、彼女の言うことには素直に従っておくべきではないか――?
ということを考えていた矢先、
「ひゃっ」
両手で脇腹を掴んで体を持ち上げられた。先ほどまで頑として重く閉じていた目蓋が、驚きのあまり見開く。
「ちょ……っ、っっちょっと待っ」
「先生は本当に……仕方ないですねー。手伝ってあげますからちゃんと起きましょうねー」
棒読み気味の言葉の陰には面白がるような、悪戯っぽい含みがあった。
「お、お起きるから! ハルミア、起きるから放して!」
この見習いの少女――ハルミア――の力は別段強いわけではないし、本人も大して力を込めていないのだろうが、なにぶんこちらは寝起きの身だ。脇腹を持ち上げる二本の腕を引き離そうとしても上手くできないし、怪しい手つきでまさぐってこられては力が抜ける。
「朝食ができてますから、支度をなさってくださいね」
「あーい……」
ぱっと手を離したハルミアから逃げるようにして、私は洗面所へと向かった。
洗面台に据え付けられたレバーを持ち上げ、水を出す。冷たい水で顔を洗うと頭のモヤが晴れる感じがする。
タオルで顔を拭いて鏡を見ると、目の前には線の細い少女が一人。
雪を思わせる白さと透明感に溢れた肌。
すらりと通った鼻。
程よいふくらみと潤いをはらむ唇。
ぱっちり開かれた目はそれでいてやや達観したような――有体に言えば、面倒くさげな色を帯びている。
鎖骨のあたりまであるみどりの黒髪は前髪が少し濡れていて、毛先に雫がついていた。
もう見知った顔、というか自分の顔だが――、
「寝起きだとびっくりするなあ」
しみじみと声が漏れた。
「どうかしましたか?」
ハルミアの声だ。
今は茶を用意しているのだろう。居間から陶器のこすれる音が聞こえてくる。さっきのは全くの独り言だったのだが、彼女は耳が良い。
「何でもない、今行くよ」
手早く支度を済ませ、居間へ足を運ぶ。
私がここにやって来てこの家を手に入れた時、先代の居住者が用いていた家具をそのまま引き継がせてもらっているので、ここに住んでいるのは今のところ私とハルミアだけであるにもかかわらず、ダイニングテーブルはかなり大きい。そして、ハルミアも私もそれ程たくさん食べるわけではないので、朝食がちょこんとテーブルに鎮座しているのが何ともアンバランスでおかしい。暖炉の傍で、ハルミアがニコニコ笑みをたたえて立っている。
ハルミアは長い赤毛をおさげにした少女だ。見た感じ、今年で一七になる私より二歳か三歳ほど上だったと記憶しているのだが、ちょっぴり幼さを残した顔つきで、年下の私のことを先生と呼んで慕ってくれている。彼女とは、ひょんなきっかけがあって少し前からこの家で一緒に暮らしている。
「やっと目ぇ覚めてきた、おはよ。良い朝だねぇ」
「おはようございます! 今日は天気も良いですし、ぽかぽかして過ごしやすいですよ」
そして、彼女はいつもハツラツとしている。朝方どうしても一人で起きることのできない私とは対照的に、ハルミアはかなり早起きだ。彼女がここにやって来る前は私は昼過ぎまで寝ていることなどザラにあったし、酷い時には近所の住民に起こされる始末だったので、二度寝を愛する者としては認めたくないが、正直かなり助かっている。
私が席につくと、ハルミアもいそいそと着席した。
「それでは、いただきます!」
「ん、いただきます」
ハルミアはよっぽどお腹が空いていたのだろう。席につくなり食前のお決まりの挨拶を唱えたので、私もそれに応える。
……いつも「先に食べてて良いからね」とは言っているのだが、何だかんだで毎日私を待ってくれるのはちょっと嬉しい。
カップに入った茶をすすりながら、テーブルに置かれていた新聞を空いている手で開く。我ながら器用なことだ。
この新聞は、私の住む街で発刊されている政治新聞だ。近所の印刷所から直通で私の家に送られてくる。ザラついた紙の端に刻まれた日付は今日のものだ。当日の朝にそれを読むことができるのは都市に住む者の特権と言える。
「あの……お茶、変な味でしたか?」
パラパラと新聞をめくりながら茶を飲んでいると、ハルミアがおずおずと尋ねてきた。瞳には不安げな色が浮かんでいる。
「え……いや、いつも通り美味しいけど。どうしたの?」
「何か……しかめ面をされていたので」
そんなに渋面だったか。
私が思わず眉間に手を当てると、ハルミアは「もうされてませんよ」とコロコロ笑った。
ハルミアの用意した茶は本当に美味しい。私が不機嫌そうな様子だったならば、それは新聞の見出しに踊る不快な文言を読んだせいだろう。
『怪物皇帝、首都入城 新たな戦争か』
『国王、同盟に従い戦時動員』
『イリオス法官府、治安維持令発令』
「ハルミアのせいじゃないよ。ちょっとイヤな報せがたくさんあったから」
「安心しました」と胸をなでおろすハルミアをしり目に、ようやく朝食にとりかかる。
シンプルなふっくらしたパン、チーズ、目玉焼き、かぼちゃのポタージュ。いつもよく作ってくれる、本当に頭の上がらない思いだ。味も良い。彼女が来るまで私の食生活がどんな具合だったのか、もはや思い出すこともできない。もしハルミアがいなくなれば、私は一週間と経たないうちに餓死してしまうかもしれない。目玉焼きを口に運びながら、そんなことをぼーっと考えていた。
朝食を済ませ、二杯目のお茶をすすっていると、玄関の方から声が響いてきた。
「先生、先生!」
「ん、何かあったっけな」
来客だ。
私は寝巻のまま――ハルミアは「着替えてください」と言ったが、私は気にしない――居間を出て、微妙に散らかった応接間を抜けて玄関を開けた。
「どちら様――ああ、ダグさん。どうもおはようございます」
「やあ。おはよう、テスタ先生」
目の前にいたのは、街の配達業者。彼はここらの居住区を担当しているようで、よく出くわす。そういうわけで、いつの間にか互いに顔や名前を覚えてしまった。
「はい、宅配です」
彼は背後の荷車から包みを引っ張り出してきて、私の前に差し出した。彼の太くがっしりとした腕のせいでその包みはいささか小さく見えるが、実際のところ結構大きい。
包みを受け取り、荷車に置かれた受取り表に名前をサインすると、ダグは手短な挨拶を一つして去っていった。仕事熱心なことだ。
「で、何だこれは」
居間に戻った私は、ダグから受け取った荷物をテーブルの上に投げ出して頭を掻いた。皿を洗っているハルミアが「開けてみてくださいよ~」と言ってくる。
「最近注文した覚えはないんだけどなあ……」
ぼやきながら開封すると、中には一冊の本が入っていた。書名は『大陸誌 第四巻』。思わず目を見開いた。
「嘘!?」
「どうしました?」
「いや、何か、つい最近本の郵送を急かしに行ったじゃん」
「んー……。ああ、行きましたね。先生がずっと待ってる歴史書の新作でしたっけ」
ハルミアはあまり興味のない様子だが、私はと言えば対照的に大興奮だ。
「そう、それ! その時はあとひと月かふた月はかかるって言われてたんだけど、それが何故か今届いた! 本当に何で!?」
思わず鼻息が荒くなる。いつも私の催促を右から左に受け流して無かったことにするあの怠け者の本屋が、ついに私の誠意を認めてまともに働く気になったというのだろうか。
喜びとちょっとした勝利感に口角が吊り上がる。
その本は既刊と同じ装丁で、ぺらりと数ページめくって眺めてみた限りだと偽物というわけでもなさそうだ。本当に、どういう風の吹きまわしだろう。
「ん?」
少し冷静さを取り戻したからか、私はちょっとした違和感に気づいた。本を両手でつかみ、上下を逆さにしてパラパラと一気にページをめくる。
すると、テーブルの上に一通の封筒が零れ落ちた。
「ええ…………」
私はその光景を今まで何度か見たことがあった。だから先ほどまでとは打って変わって、げんなりとした声が漏れてしまう。
無視してやろうか、という邪念が一瞬頭をよぎるが、見つけてしまったものは仕方がない。私はそういうところで自分をごまかすことのできないタイプの人間だ。
溜息をついて封筒を手に取り、中に入っていた手紙を開く。
上等な便箋には簡潔な一文に添えて、大きな紋章が付されている。大地に突き刺さる王の剣――それは、私の予想が的中していることを示していた。
『テスタ殿
本日中に訪問されたし。
アラグノイア学会』
手紙を読んでもう一度、今度はもっと大きな溜息をついた。
そこには詳細は何も記されていないが、本日中と言えば本日中なのだろう。この本は急に駆り出したことへのお詫びか何かだろうか。
「あああぁもう! ハルミア、今日ちょっと出かけないといけないから、留守番頼んでいい?」
「えっ? い、いつごろですか」
「着替えたらすぐ行く」
「すぐ!? わ、分かりました」
皿洗いを終えたハルミアに、早速次の仕事を押し付けてしまった。ハルミアは私がこんなにも急ぐのを見たことがあまり無いから、一瞬面くらった様子だった。
「でも先生、いきなりどうしたんですか」
やはりハルミアも、私がいきなり外出すると言い出した理由が気になったらしい。嘘をつく必要も無いので手紙を見せて正直に答える。
「学会の連中に呼び出された。本っっっっ当に行きたくないけど、行かなかったら大変な目に遭うから……」
「へ、学会、に、ですか!? 先生何したんですか!?」
ハルミアは手紙と私とを何度も見比べ、目をぱちくりさせて尋ねてきた。
この街での学会の評判は悪いわけではない。悪いわけではないのだが、その辺で営業している店や何かと同じような親しみを込められる組織でもない。ハルミアが驚き心配するのも無理はない。
私は前々から学会との間にいくらかのつながりを持っているのだが、当の私にもなぜいきなり呼び出されたのかはよく分からないのだ。私も驚き自分の身を心配している。
「いや、本当、何したんだろう私、心当たりが……ありすぎて分からない」
先ほどまで「良い朝だねぇ」などと言って上機嫌だったのに、一転して教師の前で委縮する生徒のような心持になってしまった。
まったく、なんて朝だ。
私は乾いた笑い声が漏れ出るのを禁じ得なかった。
はじめまして。
明記していませんが、主人公はTS娘です。
以上!