神を辞める。
一人戻って来たレティシアは、丁度勤務時間も終わった事もあり、自室に戻った。相部屋であった女性衛士が先日結婚して居を移したため、今は一人部屋であることが有難い。
のろのろとした足で、椅子に座る。テーブルには昨晩読み漁った神術書が積み上がっていた。あの男が自分に施したであろう術が載っているに違いないと思ったからだ。
だが、あの男は平然と言っていた。
無駄だと。
自分をおちょくっているのか、相当の自信があるのかと思っていたが、恐らくそうではない。
推測の域は出ないが、間違いない気がした。
ぶるぶると拳を震わせていると、部屋の扉がノックされる音がして、気鬱になりながらも、開けて見れば、そこにはクラウスが立っていた。
「何の用だ」
「⋯⋯⋯⋯。まだ怒ってるのか?」
「怒ってなど居ない」
冷ややかに言い捨てて、だが、廊下で言い争うのを嫌ったのか、クラウスがするりと部屋に入り込んで来たのを見て、頭痛を覚える。仕方なしに扉を閉じると、クラウスはテーブルまで歩いて行って、積みあがった本を一つ取ると捲っていた。
「⋯⋯何をしている?無駄なんだろう?」
喧嘩腰になってしまう自分が、レティシアは嫌だった。クラウスが悪いわけでは無いのだ。分かっている。でも、こみ上げる嫌悪が抑えきれない。
黙って捲っていたクラウスが、不意に手を止めて、ページを開いたままレティシアに手渡した。
「この術式の変法だ」
「変法⋯⋯?」
「神術は術者の操作が効くだろう。変法は、基本の術から派生した術技だ」
「⋯⋯。知らないな、そんなものがある事は聞いたことも無い」
「人間には無理だな。だが、コツがわかれば、お前にもできる。教えてやるから⋯⋯」
「聞きたくも無い!」
人間に出来ないものを、やりたくはない。自分が、人間では無いと認めてしまう気がして嫌だった。
悲鳴交じりの怒号に、クラウスは静かに本を元の場所に戻した。
「⋯⋯髪色を戻した弊害があるとは思わなかった。悪かった」
「⋯⋯⋯⋯。別にお前の所為じゃない。元に戻してくれれば、それで良い。後はもう私に関わるな」
「お前がそう望むなら、戻すことには異論は無いが、お前に関わるなというのはどういうことだ」
初めて、クラウスが怒りを露にした。広場で見せたような冷たい激怒ではないが、身体の奥底まで染み渡るような、酷く熱い怒りだった。
これにはレティシアも息を呑み、自身の罪悪感と戦わなければならなかった。
「⋯⋯お前の所為じゃない。でも、お前と関わるのはもう嫌だ」
「答えになってない」
気付けば、クラウスはレティシアのすぐ眼前にいて、ぐいと背中に腕を回して抱き寄せられた。顎を強引に掴まれ、視線を合わせられる。逃さないとばかりに絡みつく逞しい腕が、強い。
だから、レティシアも言わざるを得なかった。
「お前は⋯⋯神族だろう」
考えてみれば、簡単な事だった。自分の父親は神族だ。その友人夫婦も神族であったところで不思議ではない。だとすれば、クラウス自身も人間ではないはずだ。
そもそも、騎士隊での圧倒的な武力も、人間業ではない。難解の神術を読み解き、変法まで知り、何よりも短い詠唱で一瞬にして十人もの兵を倒したり、幻影を見せるなど、常人のする事ではない。
だが、神ならば。
神術は元々神々の扱う術だ。人間はそのごく一部を苦心して使いこなしているに過ぎない。
意を決して尋ねたレティシアに対し、クラウスは怪訝そうに柳眉を潜めた。
「その通りだが、それがどうした」
あっさりとした返答に、レティシアは頭痛すら覚えそうになる。
「⋯⋯⋯⋯。父親か母親が神族だという事か」
「いいや。両親とも神族だ」
つまり何か。この男は純粋な神だという事だ。それこそ、御免こうむりたい。
神族なんて、うんざりだ。散々に父親に振り回された忌々しい過去が過ぎり、同時に忘れ去ったはずの、味わった苦痛がこみ上げる。
「一つ、教えてやる」
「何だ」
「わたしは、神が、大っ嫌いだ!」
これにはクラウスも驚いたように目を見張り、呆気に取られた顔をしたが、レティシアの嫌悪に満ちた顔は偽りがないと分かり、戸惑う。
「何故だ?お前の父親は神族だろうが」
「ああ、そうだとも。私の母様を孕ませた挙句、さっさと神界に帰った、不埒千万な男のな!」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「母様は一人で懸命に私を育ててくれた。優れた神術士だったから、国軍で腕を買われて、最前線で何度も戦ってくれた。何度も危ない目に遭いながら、私を育ててくれたんだ!そんな母様が病で伏して死の直前になって、やっとあの男は現れて、私の父親だから、私を引き取ると言った。本当にふざけてる。嫌だと突っぱねたら無理矢理神界に連れて行かれたから、逃げ出したんだ!」
当時の事を思い出して、目に涙が滲む。神々の他愛の無い戯れに、これ以上付き合ってやる気は無かった。あの男が推し進めて来た縁談などもってのほかだ。
「確かに、私は生物上ゼウスの娘だ。でも、あんな男は父親だと思ったことは無い。お前と結婚なんて、絶対しない!早く神界に帰って、そう伝えろ!」
黙って聞いていたクラウスは、小さくため息を付き、何とか自分の腕から逃れようと必死のレティシアを見下ろして、忌々し気に舌打ちした。
(あの糞爺⋯⋯何が我が最愛の娘だ)
心の底から嫌悪されているではないか。お陰で自分は完全にとばっちりだ。
「⋯⋯神族は嫌いか」
「大っ嫌いだ!」
「俺は?」
「お前も神族だから、嫌いだ!」
随分とはっきり言ってくれると、クラウスは顔を顰めつつも、こうしたレティシアの素直な所が、彼は気に入っていた。
「じゃあ、神族じゃなければ良いんだな?」
「は⋯⋯?」
思いっきり暴れて、だがびくともしない男の腕を見やり、鋼鉄で出来ているんじゃないかと真剣に悩んでいたレティシアは、つい間抜けな声が出た。
目を瞬いている内に、クラウスは優美に笑って、レティシアの手を引くと、彼女を椅子に座らせた。そうして何を思ったか、突然シャツのボタンを外し始めたではないか。
「な、な、⋯⋯っ」
慌てふためく間も無く、クラウスはさっさとシャツを脱ぎ捨てると、無造作に机の上に放った。そうして露らになったのは鍛え抜かれた秀逸な男の裸体だった。傷一つなく、無駄な贅の一切が無い。それでいて肌は艶やかで、引き締まった体は男だと言うのに妙に色気がある。
完全に目の毒だと思ったが、レティシアは目が離せなかった。次の瞬間クラウスの背から大きな雄々しい漆黒の翼が現れたからだ。男神である証である。
やはりこの男は神なのだ。そう目のあたりにして、何故かレティシアは胸の奥が痛んだが、次の瞬間クラウスは自身の背に両腕を回すと、無造作に引きちぎった。
「な⋯⋯に⋯⋯して⋯⋯っ」
悲鳴は辛うじて呑みこんだが、クラウスも相応の痛みがあるのか、流石に顔を顰めている。背中から鮮血が飛び散り、彼の足元を見る見るうちに汚した。だが、彼はそのまま無造作に引きちぎった翼を床に放ると手をかざして一言何かを呟く。見る見るうちに翼は燃え上がり、一瞬の内に灰と化した。
絶句するレティシアの眼前で、クラウスは更に詠唱を続けた。それは、レティシアも知っているものだった。神の身体は極めて再生能力が高く、たとえ引きちぎったとしても時が経てば蘇る。それを防ぐ術であり、レティシアも翼を喪った時に取った術だ。
クラウスの背に戒めのように紋章が現れる。翼を喪う事は、神としての力を喪う事に繋がるし、実際レティシアはそうした事で神術が人並みになってしまった。だが、クラウスは続けて両腕を翳すと、聞いたことの無い詠唱を続けた。
すると詠唱が終わると同時に彼の両手首にびっしりと細かい文字が刻まれた銀細工の腕輪が嵌まっていた。
「レティシア、これにキスをしろ」
「は⋯⋯?な、何で!」
「早くしろ」
クラウスの顔は顰め面のままだ。レティシアははっと息を呑んだ。翼を喪った痛みは相当のものだ。腕輪が何なのかは分からないが、早く休まなければ倒れる。
言われるままに、両手の腕輪にキスを落とすと、ぽうっと光が放たれ、そして消えた。それを見届けると、クラウスはようやく詰めていた息を吐き、そうして無造作に机の上にあった短剣を取ると、自身の腕を一閃させた。
細い筋が付き、そこから鮮血が滴り落ちるが、その傷は癒えることは無い。自己治癒能力の高い神の身体であればあり得ない事態であった。
「これで、お前と同じだ」
「お、お前⋯⋯何したんだ」
「神族としての力を全部封じた。封印を解かない限り、俺はお前と同じく人間だ。心臓を刺されれば死ぬ」
神殺しをするときはこの方法が一番手っ取り早いと、平然と言い切ったクラウスに、レティシアは震えが止まらない。
「馬鹿な真似は止めろ。今すぐに封印を解け!」
「俺には解けない」
「は、い⋯⋯?」
「神族は翼を引きちぎって封じた所で、余力がある。だから、何重にも封じる必要がある」
翼を喪って即神力が無くなった自分は、無論神と人の混血だからだろうという事は想像に容易い。だがクラウスは純粋な神であるから、それでは抑制しきれないに違いなく、実際彼に聞けば、下手をすれば、余力で勝手に翼の封印を破壊してしまいかねないという。
クラウスは両腕の枷となった腕輪を持ち上げて見せ、
「これには無数の封印術が施してある。これが外れない限り、俺は神には戻れない。翼の封印も解く力は無いからな。神に戻ろうとするなら、こっちが先だ」
「じゃあ、外せば良いじゃないか!このままじゃ、人間と同じで簡単に死ぬぞ!?」
「言っただろ、俺には解けないんだ。死んだら死んだでその時だ」
「なんて無茶苦茶な⋯⋯」
レティシアは最早言葉も無いが、クラウスは微笑んで、その手を取った。
「俺がまだ嫌いか?」
「⋯⋯⋯⋯」
「俺はお前が気に入ったぞ。お前は、素直で可愛い」
レティシアは青くなって、赤くなって、また青くなって、呻いた。信じられないことをする男だ。でも言えば何でもしてくれそうな優しさは、レティシアの耐性に全く無いものだった。
「⋯⋯神族じゃないなら、別に⋯⋯お前自身は嫌いじゃない」
耳まで赤くなりながらそう呟くと、クラウスは嬉しそうに微笑んだ。そして枷となった腕輪をものともせず、レティシアの頬を大きな手で撫ぜた。
さらりと流れた艶やかな銀髪に目を細める。
「確かにこの銀髪は、お前の嫌悪する神族の血筋を証明するものだ。だが、お前を愛した母親が産んだものでもある。嫌悪する父親のことなど放っておけ。お前に何も恥ずべき事は無い。それでもお前を侮辱する奴が居れば、俺が残らず叩き斬ってやる」
馬鹿は死ななければ治らないからな。
そう失笑して、クラウスは徐に立ち上がり、脱いだシャツを羽織った。それだけの所作で、クラウスの大きな身体がぐらりと揺れる。息を呑み、レティシアが彼を見やれば、額にびっしりと冷や汗を搔いていた。
無理も無い。強引に神としての力を封じ、肉体を極限まで堕とせば、相応の負担がかかる。レティシアも翼を喪った時、半年ほど身体がおかしかった。
「⋯⋯っクラウス、そこに寝て」
自身のベッドに引っ張る。隣室まで戻るだけの余力も無さそうだと判断したが、クラウスは苦笑して、
「有り難い申し出だな。抱いていいのか?」
「冗談言ってる状況じゃないでしょう!きっと熱も出るよ」
レティシアはクラウスをベッドに座らせると、洗面所に駆けて行き、タオルと冷水を入れた器を持って戻って来た。だが、クラウスはベッドに横たわっていない。
「何してるの、早く休んで」
「いや⋯⋯俺の血で汚すだろ」
神術が使えれば、一瞬で消し去る術もあるが、今は不可能だ。自室に戻るしかないとクラウスは立ち上がりかけたが、レティシアの哀し気な目に気付いて、立ち上がりかけた体を止めた。
「どうした」
「⋯⋯ごめんなさい。私が、あんな事言ったから」
今にも泣きだしそうな紫紺の瞳の美しさに、クラウスは惹かれた。そして、レティシアの優しさに微笑んだ。
「お前の所為じゃない。俺が勝手にした事だ、気にするな」
そう言って慰めて、だが彼女が譲らないであろうことは理解し、言葉に甘えて彼女のベッドに横たわった。ふわりと香って来たのは、レティシアの甘い香りだ。ただ、それでは足りず、レティシアの腕を掴むと、自身の腕の中に抱き寄せる。
「ちょ、ちょ⋯⋯っ」
レティシアは慌てた。何しろクラウスはシャツを開けたままで、逞しい身体は露になっている上、身体に触れる。だが、クラウスの腕はやはり鋼鉄だった。彼の場合、この力は神であろうと何であろうと変わらないらしい。
「⋯⋯少し寝る。ここにいろよ」
そう小さく呟いて、離さないとばかりに抱き寄せると、クラウスは静かな寝息を立て始めた。
包み込むような腕が、熱い。やはり発熱しているだろうか。でも、何だか心地よい。母親を喪って以来、初めて抱いた安心感に惹かれるように、レティシアも目を閉じた。