婚姻の女神の裁定は下る。
壮大な喧嘩に巻き込まれたと苦笑しながらも、ヘレンはやはり怒る様子が無い。
マリアのそれも愛情だと分かっていたから、彼女は寛大なのだ。それ以外の理由であれば、凄まじく激怒するのだが、恋や愛が絡むと、彼女はどこまでも優しい。
「マリアはとても分かりやすかったけど、貴女は・・・色々哀しい思いをしてきた方が先に流れ込んでしまって、見定められなかったのよ。だけど、貴女の周囲の人達は過保護だから、中々思うように試せないし、じゃあ、連れ去っちゃいましょうと思ったの。その目論見は一部成功したけれど、貴女の力が暴走を始めて、違う方向に歪曲しちゃったのね。あれは焦ったわ。」
「ごめんなさい・・・。」
「ふふ、謝らなくていいのよ。誰も怒っていないわ。だって、貴女の力は確かに暴走してしまったけれど、誰も傷つけなかったのよ?」
「え・・・・?」
「カイリとマリアは私の力で呼び込んだから、彼らも承知していて、別に抵抗もしなかったわ。ゼウスのあたりから怪しくなって、彼は異変に気付いて様子を見に来てくれたけど、貴女の力が彼を呑み込んでも、彼は全く動じていなかった。娘が自分を傷つけるはずが無いだろうと、平然と言っていたわ。完全に制御できなくなっていたのはラウェルを呑んだ当たりね。ワルキューレや獣人たちも片っ端から引き込んでしまったけれど、全員わたしの宮に無傷のまま放り出されてきたわ。四柱の元に送れば安全と思ったのか、まあ無意識なのでしょうね。」
「じゃあ、あの光景は・・・。」
「宮殿が壊れたのは本物だけど、彼らの亡骸を見たのは幻影よ。貴女が自責の念から暴走した力がみせてしまったのね。半狂乱になっている貴女の周りに、皆いたのよ。皆で必死で貴女を慰めていたのに、視えていなかったのよね。」
「・・・良かった・・・・。」
レティシアが安堵の息を漏らしたが、困惑もあった。クラウスを見上げ、
「じゃあ、あの大樹の中に見たクラウスも幻だったの?」
と尋ねた。
これには賑やかだった一同が静まり返り、カイリ夫妻は苦笑を浮かべたし、ゼウスなどは「全く人騒がせだ。」と顔を顰めている。それだけで十分理解したレティシアは蒼褪めたが、クラウスは平然としたものだ。
「あれは違う。死んではいなかったが、生きても居なかった。」
「どうして・・・!」
思わずヘレンを見やって声が鋭くなってしまったが、彼女も心外と言わんばかりだった。
「それはわたしじゃないわ。クラウスが勝手にした事。でも、ここまでする男は初めて見たけれど。」
「四柱の力が加われば、強固になる。使わない手は無いだろう?」
「そうね。貴方の愛情が大きいのは良い事だわ。」
ヘレンは苦笑して、そうして短い詠唱を唱えるとともに、彼女の手の上にレースが付いた可愛らしい小さな純白のクッションが現れた。そして、その上には銀色に輝く、大きさの違う二つの指輪があった。
驚いてレティシアがそれを見れば、小さな指輪だというのに、技巧が凝らされた美しい品だった。表面はそれぞれ意匠が異なっていたが、内側にはどちらも同じく四つの紋章が刻み込まれている。
「これは・・・・?」
「内側に刻まれているのは、わたしを含め、四柱全員の紋章よ。四柱だけにしか刻めないもの。婚姻の許可を与えた四柱は、指輪にそれぞれ自身の紋を刻み、力を込める。許可を与えた四柱は、婚姻を守護する義務がある。」
レティシアはようやく彼の行動の一つに合点が行った。
「クラウスが出掛けていたのは、この為・・・?」
「そうだ。準備をしていたと言っただろう。婚姻を成立させるのに、神族は誓約の指輪が必要になる。その位は俺も知っていたからな。ラウェルの莫迦の所に一番先に行ったのは、話が早いからだ。」
話を振られたラウェルは、思い切り顔を引き攣らせた。
「おお、俺はまた恐怖でしかなかったんだが。」
「自業自得だ。」
冷徹な眼で見据えられ、ラウェルは肩をすぼめた。
クラウスの顔を見るなり脱兎のごとく逃げた彼は、早々に捕まった。主君の巻き添えを喰らって散々な目にあっていた部下達が全員裏切って、静観を決め込んでいたし、誰も助ける者もいなかった。もう散々報復されたと苦情を申したてた所、クラウスに指輪に刻印を刻めと迫られたのだと言う。
圧倒的不利な立場にあるラウェルの許可を得るには容易であり、父であるカイリから得るのも、勿論難しい事ではない。むしろ、カイリは嬉々として刻んだ。
唯一、手間取るとしたら、レティシアの父ゼウスであった。
「ただ、ゼウスはな・・・・お前の父親だから、簡単に許可は出さないとは思った。」
そう言えば、彼が正装をしてゼウスの元に向かった事をレティシアは思い出す。あれは婚姻の許可を貰いに行っていたのだとようやく分かる。
クラウスの渋い顔に対して、実際散々嫌がったゼウスは顰め面である。
「まだ二十になったばかりの幼い子だというのに、何故こんなに早く嫁に出さねばならん。」
「年は関係ない。」
「この・・・・。」
ゼウスは娘婿となったクラウスを睨みつけたが、マリアが平然と話の腰を折った。
「あなた、クラウスならレティシアを助けるって言っていたでしょ。クラウスがレティシアの夫である事を一度でも認めたのだから、諦めなさい。往生際が悪いわ。指輪に刻印もしてあげたくせに。」
「・・・・あれはクラウスが脅してきたからだ。」
ゼウスは大変渋ったが、埒があかないと思ったのか、クラウスは平然と、先に求婚しても良いが、貴方の刻印が無い指輪を渡したら、レティシアは何と思うだろうなと、脅してくれたのだ。
クラウスはヘレンの手にある指輪に目を落とし、ヘレンの紋章が刻まれているのを、確かめた。婚姻の神であるヘレンが最後に刻むことで、その指輪は効力を成し、婚姻は認められるのだ。
「四柱の紋章が刻まれ、力が注がれた事で、この指輪には大きな神力が働く。それはお前を護る助けにもなるだろう。だが、俺はそれでは足りないと思った。」
「足りない・・・?」
「今後、俺の伴侶となった証をお前が持つと言うのに、お前が肌身離さない品だというのに、俺の力がそこに無いなんておかしい。だから、お前の指輪に俺の力を注いだんだ。四柱の力が加わっているから、《器》としては大きい。ただ、指輪は小さいものだからな。かなり注意を払って、集約してやらないと入らない。」
クラウスは慎重にならざるを得なかった。だが、指輪に収まりきるだけの力を注いで置きたかった。ただ、四柱の力は大きく、彼の力の大半を吸い取ってくれたのだという。
「俺を吞み込んでいたあの大樹は、指輪が力を吸収するのに、具現化したものだ。思った以上に俺の力を呑んだから、一時、仮死状態になっていたんだよ。」
「だから・・・呼吸もしていなくて・・・冷たくなっていたのか・・・・。」
何という無茶をするんだとレティシアは思ったが、小さな方の指輪を取ったクラウスの表情があまりに優しく、誇らしげであったので、力も抜ける。
「でも、お前がこの島に来てくれたから、俺はお前に気付いた。俺を心配して心を乱して、力が暴走しかかっているのも分かったんだが、丁度指輪が完成して、力が全く入らない時でな。多少抑えてやる事は出来たが、どうにもならなかった。俺の前に来たお前が泣いているのを見て、慰めてもやれないと、本当に堪らなかった。」
「・・・クラウス・・・。」
「だからといって、本体は身動きが取れなかったし、かと言ってお前が心を壊すのを見過ごすわけには行かない。僅かに残っていた力を使って、俺の魂を一部だけ分離して、適当なモノになったんだ。流石に人型を取れるだけの力は無かったな。」
「それで・・・・。でも、何で狼?」
不思議に思って尋ねると、クラウスはレティシアの脚元に纏わりつく獣人たちを一瞥し、
「俺には良く分からないが、お前はこいつらみたいに、毛のある獣が好きだからな。足が速くて、お前を乗せられるものなら何でもいいと思ったが、適当に思いついたのがそれだっただけだ。だが、何故こいつらが可愛くて、俺は綺麗なんだ。」
どちらも誉め言葉なのだが、クラウスは気に入らなかったらしい。何故お前らばかりと睨まれて、突然の飛び火にミディールとリルは半泣きである。
「いや、だって・・・あんな堂々とした体格の狼に可愛いは無いだろう・・・。」
「ちっ。」
自分への容姿への称賛はともかくとして、クラウスは彼女が心を乱している一因を解決するため、まず神々が無事であることを教えてやるために、彼女を連れて山を駆けた。
ただ、それさえも危険な程彼が力を使っていたのだという事は、ヘレンが警告していた事だけでも分かる。だが、クラウスの微笑みは、本当に嬉しそうで、レティシアも惹きこまれるように微笑んだ。
不意に左手を取られる。
「お前が俺の伴侶だと言う証だ・・・・付けてもいいか?」
レティシアが頬を染めながら頷くと、クラウスはゆっくりとレティシアの左手の薬指に、銀に輝く指輪を治めた。美しく輝く指輪は、クラウスの想いの証でもあり、貴金属にあまり興味を持って来なかったレティシアでも、心惹かれるものだった。
ヘレンに促され、レティシアもまた大きな方の指輪を取った。そこにもレティシアと大きさ以外は殆ど相違のない美しい指輪だった。表に刻まれた紋章は、翼を模したものだ。
「お前の紋章だよ。」
「え・・・?」
「まだ自覚は無いんだろうが、神族は産まれながらに己の力の証である、ただ一つの紋章を持つ。俺がお前のものだと言う証だ。」
それが欲しいと強請るように、レティシアの頬を撫ぜた左手が彼女の前に差し出される。レティシアは彼の手を取った。周囲の人々が見守っている中だから、とても緊張したけれど、指輪はまるで彼のそこにあるのが自然であるかのように、ぴったりと左手の薬指に収まった。
伴侶である証。
それを見つめ、レティシアはただただ嬉しくて、柔らかな笑みを零した。次の瞬間、クラウスが再び強く抱きしめてきて、唇が重ねられる。
恥ずかしいという思いが吹き飛んでしまい、レティシアは彼が唇を離すまで、すっかり惚けてしまった。
ヘレンはとても満足そうに笑みを深め、
「おめでとう。貴方達はこれで伴侶となったわ。たとえどのような事があっても、貴方達の仲を裂くことは何人たりとも許されない。」
凛とした、婚姻の女神の裁定が下ると同時に、周囲の人々から祝いの言葉が次々に述べられた。レティシアは頬を染めながらも、微笑んだ。
幸せそうに微笑むレティシアが、喜びのあまり滲ませた涙も、クラウスがすぐに気づいてキスを落として拭った。




