変態神族は、こき使われる。
ラウェルは、平和を感じていた。
宮殿は全壊し、近隣一帯は業火に焼かれて灰と化し、生き返った部下達から壮絶な恨み節を吐かれたが、彼にとってはどうでも良かった。
あの悪夢のような一週間が終わった。住居ならば離宮が沢山あったし、焼かれた近隣一帯も再復すればいい。部下も流石に巻き添えであるので、加減をしてもらったのか消滅を免れているのだから、良いじゃないかと言う、全く反省のない男である。
ただ、女遊びはあれから控えている。カイリの宮で、マリアの侍女とワルキューレ達に散々な目に遭わされてから、どんな美女を前にしても感情が動かなくなってしまったのだ。こちらの方が重症である。
それでも、生きているって素晴らしいと、まるで悟り切ったような事を言い出したラウェルに、腹心であるディアンには、「頭は大丈夫か。」と心配された程である。
だが、それさえもどうでも良かった。ラウェルは平和だったのである。
突然、マリアの部下だと言う女達がやって来るまでは。
「・・・・なんだこれ、地獄の再来か。」
カイリの宮の広間に通されたラウェルは天を仰ぎたかった。
宮殿の主であるカイリとマリア、そして出来れば会いたくなかったレティシア。その上、自分を散々貶めてせせら笑っていたマリアの侍女とワルキューレが控え、ソール以下大勢の兵士が居並んでいる。挙句に、未だに自分を絞め殺したいと言わんばかりの冷ややかな目を向けてくるゼウスまでもいる。
一方、ラウェルはと言えば、同行しているのは最後まで嫌がっていたディアンだけである。部下を引き連れて行けば、先日の事もあるので不要な疑いを掛けられる。かといって、単身乗り込むのには、あまりに恐ろしい巣窟である。
結果ディアン一人付き添う事になったが、忠実な部下は既に後方に下がっている。いつでも主君を見捨てる気満々ではないかとさえ、思ったラウェルである。
「ええと・・・俺をお呼びだと伺いましたが、何でしょうかね。」
すると、マリアが艶然と微笑んで、
「レティシアが、貴方にお話があるそうよ。」
「ぎゃう!?」
真っ青になったラウェルに、マリアがレティシアに微笑んで、
「どうしましょうか?土下座させて話させる?それとも逆さ吊りにした方が良いかしらね。ああ、犬らしく鎖につなげましょうか。」
「ええと・・・話しにくいので、大丈夫です・・・・。」
レティシアはマリアの言葉は冗談だと思った。幾らなんでもそこまでしないだろう。
ただ、ラウェルは彼の後方で控えているマリアの侍女達がいる方から、その音を確かに聞いた。鎖の音を。
「な、な、何だろうか!俺としては、クラウスを怒らせたばかりだし、あまり長居をしたくないのだが!」
「あの・・・そのクラウスの事です。」
「何だ、あいつの恐ろしさか!冷酷さについて語れというのか!?嫌だ、とんでもなく長くなるじゃないか!」
半ばパニックを起こしている主人に、ディアンはため息をついて、呆気に取られているレティシアに口添えした。
「申し訳ありません。主君は先日より些か病んでおりまして。出来れば手短にお願いいたします。」
「はあ・・・あの、クラウスがこの間、来たと思うのですが。」
「ああ、その事ですか。顔を見るなり、殺気を飛ばされたので、ラウェル様が逃げ出しまして、犬が逃げるなと怒っていらっしゃいました。」
「一体何をしに行ったんだ・・・・。」
頭痛を覚えるレティシアであるが、怯えていたラウェルが意外そうな顔で、
「何だ、知らないのか?ヘレンに会いに行く為だ。あれは俺を含めて、四柱全員の許可がいるからな。」
「やっぱり・・・そうだったんですね。」
「え。何でそこで落ち込む?」
ラウェルは怪訝そうな顔をしたが、同時に周囲からの凄まじい殺気を浴びて、口を噤む。ディアンがこっそりと、
「詳細はレティシア様には言うなと、クラウス様が仰っていたではありませんか。」
「あ・・・そう言う事ね。」
ラウェルは顔を引き攣らせつつ、
「まあ、でもここに皆勢ぞろいって事は、あいつはもうヘレンの所に行ったんだろ?」
「はい。三日ほど前に行ったきりです。」
「ヘレンの所に三日も?なんて羨ましい!ヘレンは、神界でも指折りの美女なんだぞ!俺が口説き落とせていない女神の一人なんだ!」
地団太を踏みそうなラウェルだが、懲りていないのかと言わんばかりの刺すような冷たい視線を一同から浴びてうっと詰まる。
「ヘレン様は、男性が嫌いと聞きましたが・・・本当ですか?」
「ああ、嫌いだね。本当に勿体無い。ヘレンが男を傍に寄せるのは、極稀だ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「何だ、気になるのか?それなら、直に会いに行けば良いじゃないか。ヘレンは女には優しいぞ。」
気にならないと言えば嘘になる。ずっと帰らないクラウスも心配だ。だが、ヘレンと彼との仲は分からないが、もしも邪魔されたくないと思っているのなら、行くべきではない。
躊躇うレティシアに、マリアが後押しした。
「良い提案だわ、行きましょうよ。わたくし達も一緒に行ってあげるわ。」
俄然乗り気のマリアに、追従するようにカイリが言った。
「私も行くとしよう。ゼウス、お前も来い。」
ゼウスはあからさまに顔を顰め、
「・・・私は遠慮する。ヘレンは男嫌いだろう。」
「私とお前ならば平気だ、分かっているだろうに。良いから諦めて、立ち会え。結果は同じだ。」
「・・・・・・・娘はまだ二十だぞ!」
「年は関係ない。無駄な足掻きは止せ。」
カイリは平然と言い切り、ソール達に視線を向けると、
「お前達は止せ。真っ先に瞬殺されるぞ。護衛にはワルキューレを連れて行く。」
と言い切った。俄然気勢を強めたのはワルキューレ達で、ロディーナは悔しがるソールを鼻で笑った。
そうして、不安げなレティシアに、カイリは微笑みかけた。
「ずっとここで悩んでいても仕方が無いだろう?」
「・・・・・はい。」
「大丈夫だ。クラウスは、絶対に君を裏切らないよ。」
カイリはそう断言して、そして部屋の隅で腹心と話し込んでいるラウェルを見据えた。
「それで、お前はどうするんだ、ラウェル。」
「・・・・・・今、とても悩んでいる所だ。こんな絶好の機会を潰すのも嫌だし・・・いや、でもな・・・。」
「そうか。ではマリア、この男も連れて行こう。」
「俺の命運、あっさり決めないでくれるか!?」
ラウェルの抗議などまるで無視して、マリアは顔を顰めて、
「こんな下劣な男を連れて行ったら、ヘレンに嫌がられるわよ。」
「いや、そろそろ説教したいと思っているんじゃないか?ヘレンの中で、もうコレは男じゃない。莫迦な事ばかりする子供だ。」
「ああ・・そうね。たっぷりしてもらいましょう。」
夫妻の会話は完結し、ラウェルは泣き出しそうな顔をした。そしてディアンは澄ました顔で、
「お帰りをお待ちしております。少しは改心して来てください。」
と、平然と主君を見捨てた。
一同が出立の準備を終えると、カイリが転移の術を発動させて、ヘレンの住まう地へと飛んだ。ゼウスの宮に至るまでの結界の数に比べて、ヘレンは領地が狭いという事もあって、回数は多くは無い。とはいえ、距離は長く、何度目かの転移を繰り返す必要がある。街で宿を取り、休息を挟みつつ、二日目の朝には目的地となる場所まで着いた。
「これ以上の転移は無理だな。」
ゼウスとマリアが途中で変わったとはいえ、大多数の転移を請け負ったカイリは幾分疲れを隠せないながらも、眼前に広がる水辺を見つめた。
「ここは・・・海ですか?」
思わずそう思ってしまう程、果てしない水平線が広がっている。
「いや、湖だ。だが、迂闊に足を踏み入れない方が良い。下手をすると引きずり込まれる。」
これに同意したのが、ラウェルである。
「底無しだぞ。俺も何回か溺れた。」
「何回も来たんですか?」
「ああ。何とかして、あの美女をモノにしようと・・・いや、うおっほん!」
慌てて誤魔化すラウェルである。
一方マリアは、緊張を帯びたワルキューレ達を見て、優美に微笑んだ。
「貴女達は分かるかしらね?」
「御意・・・・恐れ多い場所ですね。」
「ふふふ。ヘレンはとても厳格な神だもの。」
そう言って、不思議そうに湖を覗き込んでいる二人の獣人、ミディールとリルに警告した。
「貴方達も気を付けなさいね。ヘレンは男が嫌いだけれど、勇気のない女子供も嫌悪している。一瞬でも怯めば、引きずり込まれるわよ。」
「ひえええええ・・・リル、何だよ、ここ!」
尻尾を縮こませるミディールに、リルはブンブンと首を横に振った。
「し、知らないわよ!わたしが潜入していたヘレン様の宮殿は、こんな所になかったもの!」
驚愕のリルに、マリアはくすくすと笑って、
「ああ、ヘレンは二つ本宮があるのよ。こちらの宮は、普段は誰も居ないの。」
湖畔は静まり返り、人気も無い。周囲には薄い霧が立ち込めて、この周囲一帯は深い森であることが辛うじて分かるくらいだ。ただ、その中でも際立ってこの湖は異質だった。まるで水一滴一滴が意思を持つかのような力を感じるのだ。
「でも、この湖は序の口よ。彼女の宮殿はこの湖の中央にあるわ。」
「ど、どうやって渡るのですか?」
ミディールが意を決して尋ねると、マリアが指をさした。
湖の遥か彼方から、ゆっくりと大きな舟が近寄って来たのだ。全員の視線が集まり、レティシアもまたその舟に釘付けになった。舟に乗っていたのは、頭から真っ白なローブを羽織っただけの女性だった。深くかぶっている為に、顔は殆ど見えず、赤い形の良い唇から、ようやく女性と分かるくらいだ。
全員の前で、彼女は舟を止めると、静かに言った。
「ご用向きをお伺いいたします。」
「・・・ヘレン様の元に、クラウスと言う男が行っているはずなのですが・・・・帰って来ないので、心配になり、参りました。会わせて頂けないでしょうか。」
レティシアの嘆願に、女は淡々と返した。
「確かに、五日ほど前に、この舟にお乗りになりました。」
「では、クラウスはまだヘレン様の所にいるのですね!?」
「はい。お渡りになられますか?」
「お願いします・・・・!」
「・・・・・。今一度、お伺いいたします。ここより先はヘレン様の地所。ヘレン様のご気分を害されれば、二度と戻れぬ事も御座います。それでも宜しいですか?」
レティシアは、蒼白になった。その事に怯えたのではない。心配で仕方が無くなったからだ。
「クラウスが戻ってこないのは、ヘレン様のお怒りを買ったからですか?」
「・・・・・・・・・。それはお答え出来ません。私は警告いたしました。貴女にも。そしてクラウス様にも。」
「・・・・・・・・・・・。」
「どうされますか?」
女の声は変わらず静かだった。乗ると言っても、去ると言っても、どちらも責めないであろうことは、その口調だけで分かる。
レティシアの答えは決まっていた。
全員が舟に乗り込むと、女は一人舟を漕ぎ始めた。数十人が乗り込めるほど大きな舟であるにも関わらず、女は一人で軽く漕いでいく。
岸辺は次第に離れ、やがて見えなくなるとともに、霧が深くなった。
レティシアはただ只管進路方向を見つめていた。心は急くばかりで、クラウスは無事だろうかと、そればかりが不安になる。
気付けば、隣に座っているはずのマリアの姿さえ見えなくなるほど、霧が立ち込めていた。それでも舟は迷いなく、進んでいく。舟守らしき女は、もう何度も往復しているのか、慣れたものなのだろう。
霧は濃いが、空気はとても澄んでいて、何だか心地が良い。
緊張に強張っていたレティシアは、舟に揺られながら、顔を緩めた。
そう言えば、舟に乗ったのは、これで二度目だ。
食糧にするために小川で魚釣りをしたりした事はあったが、住んでいた村の近くには舟が必要な大きな河も海もなかったからだ。大きな魚が釣れると嬉しくて、喜んでくれる母の顔が見たくて、急いで帰ったものだった。
父なし子と蔑まれ、母と二人の生活は苦しくもあったが、厳しくも優しい母が居てくれたから、レティシアは辛くは無かった。
元々、母は自分が居なくなっても困らないようにと、幼少の頃からレティシアに沢山の事を教えた。生活をしていく上で必要な技術の殆どは、母から教わったものだ。金を稼ぐために、軍に入り、最前線に派遣される事も多かった母は、常に死を意識していたのだろう。留守の間も、身を護れるようにと、神術を教え込まれた。
ただ、母は、もしかしたら自分の余命を感じていたのかもしれない。ある時から、母のそうした教育は一層厳しくなり、レティシアは流石に何度も泣いた。母はそれでも許さなかった。厳しい表情を崩さない母の目はただ悲痛であり、母の想いを知ったレティシアは、泣かなくなった。
母が死んだのは急だったが、涙は出なかった。
突如現れた父親に、母の亡骸をあっという間に葬られて、半ば拉致されるように神界に連れて行かれ、泣く暇も無かった。人間の子と蔑まれて、神界から逃げ出した時に、オゼ達に捕まって虐待された時には、流石に苦痛で生理的な涙を零したが、それもすぐに止まった。母を喪ったあの日から、レティシアは心から泣けなくなった。
神族なんて、嫌いだ。
心の底からそう思い、人として生きようと必死になった。軍に入って三年の間、レティシアは神術の研究に没頭した。それがずっと続くと思った。
クラウスが、現れるまでは。
一つだけ、彼に言っていないことがあった。
クラウスは以前寝物語に、初めて会った時、一目で惚れたと教えてくれた。それに気づいていたかと聞かれれば、否としか言えなかった。彼は『お前は皇太子の方ばかり見ていたからな』と不満そうで、つい『軍人だから当然だ』と答えてしまったが、実はそれだけではない。
軍人としてあるまじき事だと思って、黙って居たが、クラウスを見返した途端、職務が頭から飛んでしまった。
見たことも無いほどの美貌を持つ男に、魅入ってしまったのだ。漆黒の瞳は澄んでいて、今まで見た男の誰よりも美しく、淀みがない。皇太子と立ち会っていても、息一つ乱さず、涼し気な顔で立ち、優れた武人であることを感じさせる。
ただ、彼の周囲を囲む女性達の黄色い声に我に返った。彼女達は良いかもしれないが、自分は軍人であり、職務がある。何度も何度も頭の中で言い聞かせ、軍人としての己に徹したことで、幸いあまり動揺は外に出さずに済んだ。
この男が傍に居ると、なんだか心臓に煩い。軍人として何とか生計を立てられるまでになり、ようやく安定した生活を手に入れたレティシアは、この平穏を崩したくはなかった。
だから、彼の元に行けと言った上官命令を達すると、早急に逃げ帰りたくなった。でも、クラウスは呼び止めた。止めて欲しいと思いながらも、同時に嬉しいとも思ってしまい、訳の分からない自分に大分混乱した。
そんな状態だったから、彼が衛士隊に同行を申し出ても、レティシアは断れなかった。
あれから、クラウスにはペースを乱されっぱなしだと思っていた。
人として生き、人として死ぬ事を目標に、静かな人生を送るはずだった。伴侶も要らなかった。男は、信頼に足る仲間か、もしくは父親のような浮気癖のある駄目男としか見えなかったからだ。生きていくのに必要な智慧もあったし、神術のお陰で食べるのには困らない。
だが、神が嫌いだと言えば、クラウスは翼を引き千切り、神力を封じ込めてしまう程、律儀な男だった。
マリアを彼の恋人か妻かと誤解して、彼自身を拒んだ時、彼は凄まじく怒ったが、それでも、『嫌われるモノがある自分が悪い。』と、慰めてくれた優しい男だった。
人の身体でオゼ達に深手を負わされても、尚人として生きる道を選んでくれた。
その時、気付いたのだ。
自分はクラウスにペースを乱されていたのではなかった。彼はどこまでも寄り添い、レティシアの心を大切にして、常に合わせてくれていたのだ。揺るぎない愛情を注いでくれた彼に、レティシアは新たな人生を送る勇気を貰った。
クラウスともっと、一緒に生きていたい。そう心から願い、レティシアは翼を取り戻し、神族になったのだ。
舟が大きく揺れて、レティシアははっと我に返った。気が付けば、岸に船が着いていて、眼前に広がっていたのは、木々が鬱蒼と生い茂る大きな山だった。
振り返れば、湖はまだ深い霧が立ち込めていたが、山は澄み渡った真っ青な空があった。
「着いたわね、降りましょうか。」
マリアに促され、レティシアは島に降り立った。カイリとゼウス、そしてワルキューレ達も次々に降り立ったが、舟の上で一人だけ呻いていた。ラウェルである。真っ青になって、今にも卒倒しそうな勢いで突っ伏している彼に、レティシアは目を丸くする。
「あの・・・どうしたんでしょうか。」
「いい夢を見たんじゃないのかしら。」
マリアは冷然と笑う。
「夢ですか・・・?」
「貴女は舟の上で何も見なかったの?」
「ええと・・・夢と言うか、何だか昔を思い出していました。子供の頃から・・・つい最近のクラウスの事まで、随分懐かしい気がしましたけれど、嫌ではなかったです。」
マリアは優しい笑みを深め、頷いた。
「そうでしょうね。さ、行きましょう。」
「はい。あ、ちょっと待って下さい。ラウェル、降りないと!」
全員が一斉に無視したラウェルであるが、舟が勝手に湖に戻り始めて、慌てて声を掛ける。すると、ラウェルが我に返ったように、慌てて立ち上がり、舟から飛び降りた。湖の水が跳ねて、彼のズボンの端に触れそうになり、慌てて彼は陸地の奥へと進んだ。
「危ねえ・・・。」
冷や汗を拭うラウェルに、レティシアは、
「居眠りしているからですよ。そんなに気持ち良かったんですか?」
「気持ちが良いもんか!相変わらず地獄絵図だ!」
「え?何か見たんですか?」
不思議そうなレティシアに、ラウェルはうっと言葉に詰まり、全員の白い眼に更に何も言えなくなる。
「ああ・・うん、君はね。そうかもしれない。取り合えず、助けてくれてありがとな・・・また引きずり込まれる所だったわ。」
「良く分からないけど、一人で乗っているのも寂しいかと思って。」
あの女船頭はいつの間にかいなくなっていた。舟だけが勝手に霧の湖の中へと消えていくのを見て、レティシアは声を掛けたのが間違いではなかったように思えた。
「・・・・優しいな、君は。借りが出来たかな。」
ラウェルは苦笑したが、レティシアは無論警戒を怠らない。
「だったら、もうあんなことしないで下さい。」
「いや、しないって。またやったら、俺クラウスに今度こそ消されるし。」
肩を竦め、ラウェルは深い山を指さした。
「行くんだろ?大分抑え込まれているが、頂上付近にあいつの気配がするぞ。」
「え!本当!?」
それにはカイリも同意した。
「ラウェルの言う通りだ。我々でも辛うじて感知できる程度だが、近づけば分かるだろう。」
「じゃあ、今すぐ翼で飛んで・・・!」
「それは止めた方が良いな。落ちるぞ。」
「どうしてですか・・・・?」
別段身体に異常も感じないし、荘厳な森に不穏な空気もない。だが、カイリは首を横に振り、そしてラウェルを見やった。
「ラウェル、行って見ろ。」
「げ。何で俺!」
「見て貰った方が早い。」
とカイリが容赦なく言えば、マリアまでもが、
「行きなさい、駄犬!」
と命じる始末である。分かったよとラウェルがぶつぶつと文句を言って、翼を広げて飛び立った。次の瞬間、森の中から無数の漆黒の鳥が飛び立ち、空中のラウェルに群がると、一気呵成に嘴で突きまくった。全く容赦がない。
「痛え!いや、お前な!待てっ!痛ええっ!」
神術を使うどころではない。辛うじて彼が術式を唱えても、漆黒の鳥にはすり抜けてしまう。だが鳥の攻撃は当たるのか、ラウェルが悲鳴を上げる。ほうほうの態で逃げ戻って来た彼だが、意外にも傷は見当たらない。せいぜい髪の毛がぼさぼさになり、衣服がよれよれになった位だ。
「もう一度行って来い。」
ゼウスが冷ややかに言うと、ラウェルは半泣きで、
「嘘だろ!?十分じゃないか!」
と抗議した。
レティシアは唖然として、カイリに尋ねた。
「一体どういうことですか・・・・?」
「自分の足で来いと言う事だよ。あの鳥も幻影だが、五感を狂わせる。身体に傷は付かないが、やられた方は溜まらんな。」
すでにその証明をしているラウェルは、衣服を整えつつ立ち上がった。
「気を付けたほうが良いぞ。ヘレンは見かけによらず陰険な所もあ・・・・痛え!」
去って行ったはずの鳥に後頭部を一撃されて、ラウェルは呻いた。
レティシアは聳え立つ山を見据えた。見る限り荘厳で美しい山だが、頂上ははるか遠く険しい道のりが予想された。窮した顔をしたレティシアをマリアが案じた。
「大丈夫よ、貴女を傷つけたりしないから、怖くないわ。」
「いいえ、そうではなくて・・・そのマリア様、御免なさい。」
「なにが?」
「このドレス、多分どうしても汚してしまいます。着替えて来れば良かったですね・・・・。」
クラウスを見つけるために何処まで行っても良いが、流石に山登りをするとは思わなかった。上質なドレスを仕立ててくれたのに、申し訳ない。
マリアは目を見張り、くすくすと笑った。
「良いのよ、そんな事気にしなくて大丈夫。歩きにくいかもしれないけれど、良いの?」
「はい!捲れば良いだけですから!」
「・・・・・・・。レティシア、貴女年頃の女の子なんだから、捲っちゃダメ!クラウスが怒り狂うわよ!」
マリアは頼もしく思うと同時に、頭が痛くなった。