ゼウスは、口下手。
憂いを隠せないでいるレティシアに、心配したミディールとリルはカイリの宮まで同行を申し出た。獣人たちは相変わらず耳聡く、神界の事を面白おかしく話してくれるので、レティシアの表情も徐々に和らいだ。その姿に、後方に付き従うロディーナは感心したように呟いた。
「成る程。確かに若様の仰る通り、愛玩動物だな。レティシア様の御心をお慰めするのに最適だ。」
「ワルキューレでは到底無理な仕事だな。可愛げと言うものが無い。」
ソールの相槌に、女達の冷ややかな視線が向けられ、彼は視線を彷徨わせる。とはいえ、二人がレティシアを笑わせてくれるのは有難いので、そのままクラウスが戻って来るまで過ごして欲しいと思ったが、それをぶち壊すであろう男がやって来たのに、一斉に顔を顰めた。
「ひょえええ!?」
「うきゃあああ!」
突然悲鳴を上げて、ミディールとリルがレティシアにしがみついた。レティシアは目を見張り、そして視線を廊下の先に向けて、目を丸くした。
「父様・・・?」
何故カイリの宮に、ゼウスが居るのだろうという素朴な疑問もあるが、何故父親がこうも不機嫌そうな空気を放っているのか分からない。ゼウスはこの世のすべてが気に入らないと言わんばかりであったが、レティシアの前に立つと、彼女を一瞥し、僅かに表情を緩めた。
「・・・久しいな、レティシア。大事ないか?」
「うん。この間は助けてくれてありがとう。碌にお礼を言えないままで御免ね。」
「構わん。あれは、お前を護り切れなかったカイリと、あの小僧の責任だ。・・・それで、あの小僧は今どこにいる?ここには居ないようだが、お前とも一緒じゃなかったのか。」
「出掛けているよ。クラウスに何か用なの?」
「用という程でも無いが、私としてはあの男に山のように文句があるにも関わらず、この間は自分の用件を済ませると、さっさと帰ったからな。」
「・・・父様に、クラウスが会いに行ったの?いつ?」
「ほんの数日前だ。何だ、知らなかったのか?」
レティシアは小さく頷いた。
リルと話をし、ラウェルの所に行った後、どうやらクラウスはゼウスの所にまで足を運んでいたらしい。でも、ゼウスの所に出向く際は、レティシアに行き先すら教えてくれなかったのだ。
ゼウスは顔を顰め、
「何をやっているんだ、あの小僧は。やはり、私は・・・何だ、貴様ら?」
リルやミディール達同様の視線を浴びせられても、四柱である彼は全く意に介さない。むしろ不快だとばかりに見据えると、流石のワルキューレやソール達でさえも顔の色を変えて、粛々と首を垂れた。
「・・・クラウス様のご指示により、レティシア様の配下となり、警護を任されておりますロディーナでございます。この者達は、配下のワルキューレで御座います。」
「ああ、お前達がマリア子飼いの女騎士か・・・・。マリアがお前達を何故鍛えていたか、よく聞かされたものだが・・・成る程な。随分と行動が早いではないか。全く持って忌々しい。」
「クラウス様のご意思で御座います。」
「・・・・・・・・・。」
ゼウスは苦虫を噛み潰した顔をして、同様に控えているソールを睨んだ。
「お前は知っている。クラウスの目付であろう。どういう教育をしているんだ。」
「恐れながら、私の務めはクラウス様が無茶をなさった時に、ご夫妻にお伝えすることを任としております。教育など滅相もありません。」
「では、やはりあの小僧の両親に文句を言うしかなさそうだな。来なさい、レティシア。」
ゼウスはレティシアを呼び寄せると、慣れた様子で廊下を進む。カイリとは旧友の仲だというから、この宮殿内も自分の家のようなものなのだろう。
堂々と闊歩するゼウスは、だが数歩もたたずに足を止めて、困惑した顔でレティシアを見返した。
「どうした?随分浮かない顔だな。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「何を悩む。何でも言って見なさい。」
ゼウスとしては長年離れていた娘との距離を少しでも縮めたかった。娘が自分を父と呼び、心を開いてくれているのが分かるから、それを再び閉ざされたくも無い。
寛大さを見せるつもりであったが、レティシアが意を決したように、
「じゃあ・・・教えて。神族って、恋人を一杯持つって聞いたけれど、本当!?」
「な、なに?」
ぎょっとしたゼウスは、娘の目が鋭くなったのを見て、視線を彷徨わせる。
「父様にも心当たり、あるんだね。」
「い、いや・・・待て、レティシア。」
「やっぱり・・・私、父様の宮殿に連れて行かれて一年くらい過ごしたけど、父様の恋人だって女性の名前、十人は聞いたけど、事実なんだね!」
「ああ・・・うん。」
ロディーナ達を圧倒していた空気など何処へやら、不味いことを聞かれたとばかりに、ゼウスの視線が落ち着かない。
「やっぱり、父様は身勝手で、好色だ!」
「ま、待て待て、レティシア!誤解だッ!」
慌てるゼウスであったが、そこに思わぬ援護射撃が入った。くつくつと喉を鳴らして、やってきたのはカイリとマリアである。
「残念ながら、その通りだよ。レティシア。君のお父上は昔から女遊びが盛んでね、大体常に五人程度は、恋仲になった女を囲っていたものだ。」
「カイリ!貴様、余計な事を!」
「困った父親よねえ。女に手が早い男なんてろくでなしよ。」
「マリア!お前もかっ!」
夫妻が強烈な後押しをするのは、無論レティシアに対してである。ゼウスはその理由が否応にも分かる。この夫妻は、自分の格下げをして、レティシアを自分の一族に取り込む気満々なのだ。
これは不味い。娘の眼差しがより一層冷たくなるのを感じて、ゼウスは唸るように言った。
「それを言うなら、お前達の息子の方が余程質が悪いだろうが。私以上に女遊びが派手だったぞ。」
「・・・ゼウス、余計な事を言わないで頂戴。」
マリアの黄金の髪がざわりと動くのも構わず、ゼウスは冷笑した。
「事実だろう。女を口説き落として夜の相手をさせたかと思えば、直ぐに飽きて捨てると、有名だったはずだ。一度捨てた女には見向きもしなくなって、放り出していたそうじゃないか。」
言い返したゼウスに、カイリはため息を付き、
「お前は相変わらず機微に疎いな。鈍すぎる。だから誤解されて嫌われたんだぞ。」
「なに?」
「私たちへの意趣返しは構わんが、普通恋仲の男の浮気癖を聞いて喜ぶか?」
「・・・・・・・・・・。」
ゼウスは息を呑み、レティシアを見やって、既に娘が先ほどよりも更に落ち込んでいるのに気づいて、天を仰いだ。
「・・・・すまん、レティシア。」
「良いよ。・・・事実みたいだし。父様も。」
「待て、少なくとも私は違うぞ。」
するとマリアが目を怒らせて、
「何よ、言い訳?みっともないわよ。」
と釘を刺したが、ゼウスは構うものかと、更に続ける。
「確かに、神族は人間に比べて遥かに恋愛に自由だし、子を成しにくい事もあって、容易に身体を繋げる。一度に複数の女と恋仲になる事も珍しい事ではない。保身と取られるかもしれないが、本当だ。」
「・・・・・それは、聞いたことがあるよ。」
「私が神族の女達と戯れていたのは、ダーナと逢う前までだ。彼女を伴侶と定めてからは、全ての女と別れた。彼女以外の女は要らないと思ったからだ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「私はお前の母に対してだけは、誠実で居たかった。まあ・・・彼女は別れる必要は無いと一蹴してくれたんだがな。」
「母様が?」
父を恋しがって泣いていた事を知るレティシアは、困惑と疑念を抱いたが、苦笑いするゼウスの表情に偽りは無かった。
「自分は人間で、いずれ私を置いていく存在だからと言っていた。随分つれない事を言うと、思った覚えがある。」
レティシアは、母が漏らしていた言葉を思い出した。
「母様は・・・よく私にこう言った。人として生きるか、神として生きるか。いつか、選択を迫られる。その時に貴女が信じた道を行きなさいって。」
「・・・そうか。強制しない所が、彼女らしいな。」
「うん。そして、少し寂しそうに笑っていた。選択できるという事は幸せな事なのよって言うの。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「母様は・・・父様と同じ時を生きたかったのかもしれない。それが難しい事だと良く分かってもいたから、時々泣いていたんだと思う。でも、母様は笑って逝ったよ。」
母の死に際を看取ったのは、レティシアと駆け付けたゼウスだった。自分達を見捨てたはずの男を前にして、だが母はゼウスへの恨み言は愚か、むしろ優しい微笑を浮かべたまま、旅立ったのだ。
何故だったのか、レティシアは今になって分かる気がした。
「・・・・最期の時に、父様が居てくれて、きっと嬉しかったはずだ。だから、母様は死後も自分に縛りつけてしまうのを、きっと良しとしない。神族の女性達と別れなくて良いと言ったのはその為かな。」
「・・・・レティシア・・・・。」
「別に、また遊びまわれって言うつもりは無いけど、私はもう二十を超えているし、保護がいるような年でもない。父様は、また自分の人生を歩いていいと思う。」
レティシアは素直にそう思った。それがゼウスにも伝わり、彼は表情を緩めた。
「私を慮ってくれるのは嬉しいが、早々切り替えられるものでもない。彼女は私が求めた唯一の伴侶であったからね。」
「伴侶?」
「神族は確かに恋多き一族だが、結婚するのは生涯で一度だけだ。たとえ、恋人を抱える事があっても、万事伴侶が優先される。伴侶が傷つけられる事になったら、全力で戦い抗う事が許される。
唯一無二の存在だ。伴侶がいる者には、神族はやたらと手を出さない。報復が凄まじいし、皆それを是認する。」
「不思議・・・多情なのに?」
「だからこそ、稀有なんだ。多情であるからこそ、容易に婚姻の神に認めて貰えない。神族で夫婦と呼ばれる神々がいるのは、ごく一握りだ。」
レティシアは思わず、マリアとカイリを見返した。言わんとすることが分かったのか、マリアが微笑んで、頷いた。
「ゼウスの言う通りよ。わたくし達は数少ない夫婦と言う訳よ。四柱であったわたくしに、いきなり『結婚してくれ』って言ってきたカイリの神経を皆疑ったものよ。」
「でも、マリア様・・・良いわよって即答したって仰ってましたよね?」
「そうよ。だって、一目惚れしてしまったんですもの。これはもう血筋ね。」
マリアはころころと喉を鳴らしたし、カイリも苦笑した。
「私は意外だったけれどね。彼女を見初めてから、どうしたら求婚を受け入れてくれるか色々悩んでいたものだ。」
今なお仲の良い夫婦であることは、明らかで、レティシアは自分の両親もその関係にあったという事に驚く。
「母様は、父様の伴侶だったのですか?」
「勿論だ。私が神界に彼女を連れて来たのは、母さんのお腹にいたお前を護る術を探しに来たんだが、婚姻の神に伴侶と認めてもらう為だ。」
レティシアの母は人間であったため、神々から卑下される事もある。だが、誰もが共通して口にしていたのは、母がゼウスの《妻》であるという認識だった。
「・・・そっか。それは少し・・・嬉しい。」
顔を綻ばせたレティシアを見返したゼウスは、ここぞとばかりに声を強めた。
「母さんのことは勿論、私はお前に話したいことが沢山ある。お前は二十歳を超えているから保護は要らんと言うが、神族にしてみれば、まだ子供だ。本来は親元に居て然るべきなんだ。」
「う、うん?急にどうしたの。」
何だか鬼気迫る勢いのゼウスに、当然ながらその場に居る全員から冷然とした視線が浴びせられた。今度こそ、マリアは黙って居ない。
「何を今更。クラウスは許可を貰ったと言っていたわよ。」
「何が許可だ。脅迫だろうが!その挙句、さっさと帰ったあの小僧に文句を言いに来たのだ!」
レティシアがクラウスへの信頼が絶大であることを、ゼウスも当然知っている。また娘に嫌われていいのかと脅されれば、良いわけが無いと答えるしかない。なまじ力業で来ない所が憎らしかった。後々、取った手段をレティシアに知られて、仮にも父親であるゼウスを傷つける真似をしたら、クラウスも叱責が避けられない事を間違いなく見越していたに違いない。
「仕方がないじゃない。今、あの子に全く余裕が無いわ。」
「・・・だからと言って、おかしいだろう!まだこの子は二十になったばかりだぞっ!」
「あら、うちの子も二十五歳よ」
ころころと喉を鳴らすマリアに、ゼウスは唸るように言った。
「どういう教育をしているんだ。」
「素晴らしい教育の成果が出ているじゃない。」
喧々囂々の両者に、レティシアは目を瞬き、困惑した顔で周囲を見るも、誰も止めない。ロディーナ達は相変わらず整然と控え、ミディールやリルは四柱の戦いに怯え、誰も仲裁に入らない。
喧嘩の遠因は自分も関わっているらしいという事は分かるのだが、理由がさっぱり分からない。だが、教えてくれそうだったゼウスも、マリアと口論してばかりで、結局聞き取る事は出来なかった。