神様、この可愛い生き物が、何故か泣いてしまいます。
夕刻に差し掛かる頃、レティシアは目を覚ました。不意に気配を感じて視線を向ければ、傍らにクラウスが座って本を開いていて、何だか安堵した。
レティシアが目を覚ましたことに、クラウスもすぐに気付いて、本を閉じると、
「起きたか。大丈夫か?」
と言って、身を屈めて額にキスを落とした。触れるか触れないかくらいの軽いキスに、足りないと思ってしまう自分が、何だかレティシアは恥ずかしい。ただ、クラウスはすぐに視線を逸らし、ベッドから降りた。慌てて起き出したレティシアを留めて、彼は今読んでいた本を手渡した。
「書庫室から借りて来た。あの獣人一族の事が書いてある本だ。奴らを可愛がってるから、あいつらの生態を知っておくのも良いだろ?」
「あ・・・ありがとう。前から探していたんだ。」
「管理している女が何か探しているようだったと言ってたのがそれか。じゃあ、丁度いいな。もう数冊あるらしいから、読み終えたら、別のも借りて見たらいい。女には言っておいた。」
そう言いながら、身なりを整え始めたクラウスに、レティシアは困惑した。彼は帰って来て着替えたらしく、普段着から上質な外出着を身に着けていた。
「・・・また、何処かに行くのか?ラウェルの所?」
「奴にもう用は無い、別件だ。距離があるから戻って来るまでに二・三日掛かる。お前はここに居ろ。俺が戻るまで、両親とワルキューレがお前を護る。」
「・・・・そう・・・。」
寂しいと、過ってしまった自分勝手な思いを、慌てて押し込めて、努めて冷静に続けた。
「今度はどこに行くんだ?」
ぴくっと僅かに彼の手が止まり、再び何事も無かったかのように動いたが、その躊躇だけで十分だった。
「いや、別に・・・言いたくないなら良い。気を付けてね。」
「・・・・悪い。今は聞くな。」
そう言って、宥めるようにレティシアの頬に軽くキスをすると、あっという間に立ち去って行った。忙しなく居なくなってしまった彼の空白を埋めるように、すぐにロディーナ達が姿を見せたため、レティシアは慌てて笑みを作った。
クラウスが発ってから、三日目にして、彼はカイリの宮殿に戻って来た。だが、レティシアが彼と会う事は無かった。クラウスはカイリの宮に立ち寄っただけで、また何処かに行ってしまったのだ。彼に会えたのは両親たちだけで、彼の姿を探してやって来たレティシアに、マリアは申し訳なさそうに言った。
「御免なさいね。さっきまた出て行っちゃったわ。貴女もクラウスを待っていてくれたから、少しだけでも会って行けばって言ったんだけど、いいの一点張りで聞かなくて。忙しないわねえ。」
「そう・・・ですか。あの、クラウスは今度は何処に行ったのですか?」
「ううん・・・そうねえ。あまり貴女には言いたくないのだけれど、心配よね。」
躊躇うマリアに、レティシアは強く頷いてしまう。行き先を知らせて貰えないのは仕方が無いかもしれない。でも、また三日離れ離れになって、その上また何処かに出かけてしまったのならば、気にならないと言うのは嘘になる。
マリアに助け舟を出すように、カイリが静かに口を開いた。
「四柱の一人であるヘレンの所だよ。」
「ヘレン様・・・・?」
「知らないかい。それは良かった。」
何が良かったのか、レティシアにはさっぱり分からず、困惑するしかない。粛々と控えているロディーナ達に目を向けてみても、誰も口を閉ざしたままだ。
カイリは表情を和らげて、
「彼女はとても温厚な女神でね、四柱でも最も在位年数の長いんだが、それに驕ることも無く、己の使命を全うする、とても優秀な神だよ。クラウスも流石に彼女には無遠慮な事はしない・・・はずだ。」
「クラウスが・・・。」
誰に対しても基本的に傲岸不遜な彼が、配慮する女神。一体どんな人なのだろうかと思いながらも、胸の奥が勝手に疼いてしまう。
マリアが苦笑して、
「まあ、戦を仕掛けに行った訳じゃないし、その内帰って来るでしょうから、大丈夫よ。気にしないで。」
と言ったが、それ以上有無を言わせない勢いの二人に、レティシアは頷いてしまった。
それからと言うもの、レティシアは何をしていても、ヘレンの名前が頭を過って気になって仕方が無かった。ただ、カイリの宮殿の誰に聞いても、夫妻の話以上の事は聞けず、まるで戒口令を敷かれているかのように、皆が皆口が重い。
最終的には、レティシアが聞きまわっているのが伝わったのか、ヘレンの名を出した瞬間、侍女達がお許しくださいと逃げていく始末である。
これでは埒が明かないと、レティシアは獣人一族の地に向かった。情報に詳しい彼らなら、何か知っているかも知れないと思ったのだ。同行してくれたのはロディーナ以下ワルキューレの女騎士達であったが、そこにソールまで付いてきた。ロディーナはあからさまに邪魔という態度を示している。
「何故お前まで来るのだ。役に立たんから、帰れ。」
「同僚に向かってそれは無いだろう。俺はクラウス様の目付だぞ。」
「成る程。置いて行かれたのだな。」
「違う!」
鼻で笑った女達に、ソールは真っ赤になって怒ったが、レティシアは彼らの会話に加わる気力はなかった。どちらも既に彼の事を聞いて撃沈した相手であるからだ。
そこに、レティシアの来訪を聞いて、嬉しそうに駆けて来たのはミディールだった。
「あっレティシア様!おめでとうございます!」
満面の笑みで言われて、レティシアは目を瞬く。
「何が?」
「え・・・・きゃあああああああ!」
少年のキラキラした目が、不意に違う方角に向いたかと思うと、真っ青になってガタガタブルブルと震えだした。余計な事を言うんじゃないと、凄まじい殺気を一心に浴びたミディールの尻尾は当然ながら爆発している。
これに驚いてレティシアが振り返れば、整然とした一同が澄ました顔で立っていて、首を傾げてまたミディールに目を向ければ、もう既に半泣きである。
「ど、どうしたの?ミディール。」
「な、な、なんでも・・・ありましぇん・・・。御用向きは・・・なんでしょうか。」
耳が垂れ、完全に怯えきっているミディールに、レティシアは困惑しつつ、早く用件を言ってくれと言わんばかりの少年に、申し訳なくなり、
「ええと、リルにちょっと聞きたいことがあって・・・いる?」
「ひょええ!?リ、リルにですか?あいつ、きっと泣いて失神しますよ・・・僕で良ければお伺いします・・・。」
何故だ。何故ここまで怯えられるのだろう。この間まで満面の笑みで懐いていてくれた彼らが、急に自分と話をするだけで怯えてしまう理由が分からない。
「この間、クラウスと何か話していたみたいだけど、良ければ教えて貰えないかなって。」
「おおう・・・・なるほど・・・・。」
ミディールは思い切り顔を引き攣らせた。レティシアの背後に居並ぶ神々の視線がさらに強くなったからだ。これは間違いなく口外したら地獄を見せられるやつだと、本能的に察知する。
レティシアの護衛はワルキューレと定められており、獣人族も彼女達の傘下に入って居ながら、彼らと面識の深いソールがわざわざやって来ている理由を彼は察した。間違いなくクラウスの差し金だ。
言うなよ、という無言の圧力である。
これはリルに一刻も早く知らせてやらなければならないが、哀し気なレティシアを見ると、脚が鈍る。そうしている内に、呑気な鼻歌が聞こえて来た。音が外れたあの下手糞な声は、間違いなくリルだ。
「あ、リル!」
レティシアの声に、鼻歌を止めて、リルが嬉しそうに駆けて来た。
そうして、ミディールの二の舞になった。
辛うじて泣くのを堪えたミディールと違い、些か臆病なリルは号泣である。レティシアはまず何とか彼女を宥める事から始めるしかなかった。ようやく泣き止んだのを見計らって、
「貴女、この間クラウスと話していたでしょう?」
「は、はい・・・突然来られたので、びっくりしましたけど・・・。」
リルは不思議そうにレティシアを見返した。周りの神々があんまりにも怖いので、レティシアにしか目を合わせない。だから、ミディールの必死な視線にも気づいていない。
「クラウスが何を言ってきたのか、教えて貰っても良いかな?」
「・・・・?そんな、大したことは聞かれませんでした。私はヘレン様の宮に出入りしていたので、それでだと思いますけれど・・・・ヘレン様の事を知りたがっていたご様子で・・・。」
「そう・・・なの。」
「はい。あ、でも・・・・っきゃああ、ごめんなさい、ごめんなさい!?皆さん、なんでそんなに怖いんですか!?」
長い耳を震わせてぷるぷると震え始めたリルの絶叫に、流石にレティシアも気づいて、素知らぬ顔をしているソールを見やった。
「この子達に、何か言いましたか?」
「滅相もありません、我らは粛々と控えております。」
それは紛れも無い事実で、だが無言の威圧だけでも格上の神々は十分に迫力がある。
「二人だけで話しても良いですか?」
これではリルともミディールとも話にならないと思ったが、すかさずロディーナが異論を唱えた。
「それはお止め下さい。我らはクラウス様のご不在の時には、御傍を離れないように言い使っております。いつどこでラウェルのような輩が出るとも限りません。」
「・・・ラウェル・・・・。」
そう言えば、クラウスはリルの次にラウェルに会いに行っていた事を思い出す。出来れば会いたくはないが、クラウスの旧友であるし、何か知っているかもしれない。だが、やはりクラウス不在の時に会うのは怖い。
葛藤するレティシアに、ロディーナは息を呑み、
「いけません、レティシア様。あのような下劣な男に近付いたら、御身が穢れます。」
「私も会いたくないよ。でも・・・クラウスが帰って来ないから・・・・。」
「心配される事はありません。若様もすぐにお戻りになられます。少しばかりヘレン様の宮での滞在が長くなっているだけです。」
「どうして?」
「・・・仔細は分かりませんが、大丈夫です。」
軍人として常に凛としているロディーナの歯切れが珍しく悪い。何事か秘めているのは察したが、これ以上何も話してくれない事は明らかで、レティシアは小さくため息を付いた。