神様、この可愛い生き物はとても優秀です。
「さあ、どうする?」
それは、冷酷な問いだった。眼晦ましの術が消えた今、最早彼らに生きる術はない。
次の瞬間、彼らの姿はその場から消えた。あっという間に四散した彼らを見据え、ゼウスが首を傾げた。
「早いな。あっという間に逃げ散ったぞ。」
カイリも怪訝そうにしつつ、
「クラウス、どういうつもりだ。逃がしてやるのか。殺す気じゃなかったのか?」
「殺るならとうにやっている。だが、レティシアが可愛い顔をしてくるからな。」
クラウスは、真っ赤になったレティシアにくすくすと笑って、頬にキスを落とし、
「お前が途中で止めに入ると思ったが。」
「・・・そうしようかとも思った。あの子達は、目的はどうあれ、私を護ってくれたのは事実だから、殺さないであげて欲しいと思った。ミディールは、真っ先に私の鎖を外して、痛みから解放してくれたし、何故かお前をとても怖がっていたけれど、勇気を振り絞って行ってくれたんだ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「あの子達は、神族の中で一番弱いかもしれないけど、勇気が無い訳じゃない。ただひたすら一生懸命生きている命を、無暗に消さないで欲しい。でも、そんな事は私が言わなくても、お前は分かっている気がした。だから、何も言わなかったんだ。クラウスは優しいから、大丈夫だと思ったんだ。」
静かに聞いていた彼は、くすりと微笑んで、愛おしそうにレティシアの額にキスを落とした。
「俺が周囲に優しくしてやれるのは、こうしてお前が俺の傍にいるからなんだがな。」
「そ、そうか・・・?」
「ああ。随分丸くなったと、色んな奴から最近よく言われる。」
レティシアは目を瞬いたが、しみじみと頷いているのは彼の両親である。カイリは満面の笑みで、
「君みたいな子がクラウスの傍に居てくれて、本当にありがたい。」
と言えば、マリアなどは感激を隠そうともしない。
「あの、どうしようもない子だったクラウスも、成長するのねえ・・・。」
呆気に取られるレティシアに、クラウスは「な?」と一笑している。これに面白くないのはゼウスである。
「だからと言って、勝手に娘を自分達の宮に連れて行かないで貰いたいものだな。」
抗議するゼウスに、マリアは冷然と笑った。
「あら、だってレティシアはもううちの子ですもの。」
「勝手に一族に加えるな。私の娘だぞ。」
「レティシアがまた父親として見てくれて嬉しくなって、手元にまた置こうなんて企んでいたみたいだけど、良い度胸よね。諦めなさいな。」
「レティシアはまだ二十だ。神族ならば、まだ親の庇護がいる年だぞ。」
「うちのクラウスも二十五よ?でも、庇護よりも監督が必要なくらいなのよ。平気だわ。」
睨み合う両者に、カイリは苦笑して、レティシアに言った。
「我々が君を半ば強引に神界に連れて行った理由が分かったかな?」
「こんな理由だったんですね・・・。」
「そうとも。ゼウスが直ぐに勘付いて抗議してきたから、二人で黙らせに行ったんだが、よもやその隙をラウェルに突かれるとはね・・・・全く忌々しい。」
どうやら彼らが《所用》と言って出て行ったのはその為であったらしい。ラウェルの宮を囲んだ軍に、ゼウスの一軍もあった訳だ。
レティシアが納得していると、逃げ散ったと思われた獣人の一族が、息せき切って全員戻って来た。駆けまわったらしく、彼方此方擦り傷が付いていたが、全員の眼差しは強く、クラウスを見返していた。
ウルが進み出て、頭を垂れた。
「我が一族にどうかお力添えを下さいませんか。」
「俺に何の益がある。」
「我らは潜入や斥候に長けております。些少な情報でも、貴方様にお伝えいたします。必ずやお役に立てると思います。」
術が崩壊し、最早一族の命運は尽きた。逃げ惑ったところで、滅亡は目に見えている。それならば、生き残る術はただ一つしかない。己らが役立つことを、格上の神族に必死で売り込むしかない。
「・・・続けろ。」
「今、この周囲一帯に、我らを好んで嬲り、狩りだと言って来た下級神の一派が迫っております。微弱ながら、我らにも神気がありますので、気付いたのでしょう。かの一派から我らはずっと身を潜めておりました。」
「人数は。」
「東に十、東南より十二、南より九。」
ウルは次々に正確な位置情報を伝えて来た。それだけではない。相手の名前、どのような武装をしているか、どのように移動してきているか。彼らは斥候として確実な仕事をして見せた。相手は狩りだと思っているようだが、狩られる側の方が余程彼らの動きを把握していた。
ただ、獣人の一族に足りないのは、力だ。これに関しては最早どうしようもないものだった。
「・・・・良いだろう。丁度憂さ晴らしをしたい奴らが揃っている。」
これには得たりとしたのは、マリアとカイリ、そしてゼウスである。彼らは全く暴れ足りないのだ。マリアなど舌なめずりせんばかりである。
「うふふ・・・狩られる側になったらどうする気かしら。私が東南に行くわ。」
「待て。平等の精神はどうした?今度こそ、私に譲れ。」
とゼウスが抗議する。カイリはやれやれと苦笑して立ち上がり、
「私は南で良いよ。一々殺すのも面倒だから、消してくるよ。探し回るのは面倒だから、誰か案内してくれるかい?」
これにすかさず獣人たちが反応し、三方に散っていく三神に従って駆けて行った。そうして、レティシアとクラウスが二人きりになったが、そこに遅れて戻って来たのはミディールとリルの二人だった。
「どうしたの?」
レティシアが声を掛けると、緊張を孕んだ声で少年は答えた。
「僕らは村長から常に別行動を取るように言われています。裏を掻かれると困りますから、背後を取られないように。・・・北から二人来ます。」
クラウスは微動だにしなかった。
「・・・・・。それにしては殆ど神気がしないな。何故だ?」
「私達から略奪した眼晦ましの術の腕輪を使っているのでしょう。視界に入らない限り、分かりません。」
警戒した表情で、答えるリルが、更に正確な位置を伝えると、クラウスは肩を竦めた。
「レティシアの母の術は弱体化が始まっている。小細工をしても無駄なんだがな。」
それを聞いて、レティシアも納得した。
「私に腕輪が嵌まっていたのに、駆け付けてくれたのはその為か?」
「村自体に眼晦ましの術が掛かっていたから、流石に二重にされると分からんが、ここまで距離を詰めれれば、分かる。しかし、ラウェルの奴はどこであんなものを手に入れた?」
「戦利品だって言っていたけど・・・まあ、一番渡っちゃいけない男の手にいったな。クラウスが壊してくれて何よりだ。しばらく女性を拉致するなんてことはやらないだろう。」
すると、クラウスは冷笑を浮かべ、
「それどころか、今女を抱くどころじゃないだろうよ。」
「・・・・?そう言えば、ラウェルは今どうしているんだ?」
「知りたいか。」
クラウスは冷然と笑った。その目は極限まで冷え切っていて、レティシアは彼の怒りの深さを知る。以前自分を虐げた者達の末路を尋ねた時も同じだった。その時はクラウスが報いを受けさせたのなら良いと思ったが、ラウェルは彼らのような害意は無かったし、クラウスの友人ということもあって気になるので、頷いた。
「別に同情はしないし、あんな性癖は迷惑千万だと思うが・・・殺してしまうほどではないと、思う。」
するとクラウスの怒気が一層増し、今度は珍しくレティシアにも飛び火した。
「お前は甘い。」
「え、えと・・・・。」
「お前を俺の下から連れ去った挙句、忌々しい枷と腕輪を嵌めて、わざわざお前の細い腕に食い込むように鎖で吊ったんだぞ。その上、お前の腕に傷を付け、泣き叫ぶお前の身体を何度も鞭打って喜んだ挙句、犯して躾けるなどとほざいた、あの糞野郎など、十回殺してもまだ足りねえ。」
神族は膨大な時を生き、二十を超えた頃から死に際まで殆ど老いることが無い。身体を傷つけられても、神力に比例して回復速度は速く、人間では死ぬほどの傷も瞬時に癒してしまうクラウスのような男もいる。あまりに肉体の損傷が激し過ぎると、その肉体は死を迎えるが、神族はそれでは死なない。神力を宿す彼らの魂が、新たな肉体を産み、蘇らせるのだ。この魂が寿命を迎え、消え去る時に初めて神族は本当の意味で死を迎える。その為、神族にとって死は日常茶飯事で、最も恐れるのは消される事である。神の魂は強靭であるが、それを上回る神力を宿す魂の持ち主には破壊されてしまう。
ラウェルを殺したと言うのはあくまで肉体的なものであるが、当然ながら肉体の死の痛みは凄まじいものがある。それを延々と繰り返された彼の地獄は、実はまだ終わっていない。
ただ、そんな事は知らないレティシアは赤くなり、青くもなった。
「ク、クラウス・・・・全部知ってる・・・!?」
鞭を打たれて、肌を露にされたなど、大勢の前で言うのも憚られたので、レティシアは流石にそこまで彼に言わなかった。ミディールも同様で、レティシアの羞恥も慮って、彼に説明するときに、あくまでラウェルがレティシアを虐げていたとぼかしたのだ。
「当たり前だ。ラウェルとディアンを締め上げて、全部吐かせた。奴の拷問室にお前の血痕と血を吸った鞭も見つけたらからな、奴らも言い逃れは出来ない。まさか自分達があの部屋を使われるとは思っていなかっただろうな。」
レティシアの血を見た瞬間、ぷつりと彼の中で《切れた》らしい。
「クラウス・・・?」
何だかこれ以上聞くのが怖いのだが、クラウスはくつくつと楽しげに笑った。
「ディアンはそれでも一応制止していたみたいだから、五・六回くらい殺すだけで済ませたが、あの糞野郎はまだ足りねえ。今すぐにでも消し飛ばしてやりたいんだが、お前が見つかっていなかったからな。今は取り合えず放置してある。」
「ああ、うん。もうそれくらいでいい・・・十分だ。」
「どこがだ。奴がお前にした事を思えば、あと何回殺しても飽き足らん。」
凄まじい怒りである。レティシアはその不穏な空気に、つい真っ青になっているミディールとリルを見やり、
「もしかして、村の外の不穏な空気って・・・クラウス?」
二人はこくこくと頷き、リルが半泣きになりながら、
「神界中が怯えていました。」
と言うものだから、レティシアは目を剥く。ただ、ミディールは落ち着かなげな様子で、
「あ、あのクラウス様・・・気配が・・・・。」
とちらちらと彼の背後を見やる。森に潜み裏をかいたつもりの下級神二人組は、完全に運が悪かったとしか言いようがない。現在、クラウスの怒りの所為で、神界中の空気が不穏で、神気が混ざり、感じ取り難かった。その為、よもや自分達の《獲物》のすぐ近くに、神族一の危険な男がいるとは思っていなかったのである。
彼らは蒼褪めている二人の獣人に狙いを定め、野卑な声を上げながら、襲い掛かろうとした。
「見つけたぞ、今日はその皮を剝ぎ取ってやる!」
「兎娘は俺にやらせろ!犯しまくってやる!」
その声をレティシアは確かに聞いた。息を呑み、振り返った時には。
「うぎゃああああああああ!」
と凄まじい男たちの悲鳴と共に、森の二方向に道が出来た。一瞬にして別々に吹き飛ばされ、木々をなぎ倒し、遥か彼方に吹き飛ばされた男たちは、とても生きてはいまい。
クラウスはレティシアを抱き直すと、
「来ると分かっているなら、始末するのは簡単だ。」
と平然と言った。どうやら、あれだけ怒り狂っていながらも、失念していた訳ではないらしい。あまりの力の差に、ミディールとリルは最早茫然とするしかなかった。
そして、それは彼らだけではなく、随分とすっきりした顔で戻って来た三神に付き添って戻って来た獣人たちも同様である。凄まじいものを見たと言わんばかりである。
「全部始末したわよ。でも、聞いた以上に最悪の畜生だったわ。この子達、きっと外見が可愛いから、余計に狙われちゃうのね。分かるわ!」
マリアはほうとため息を付くが、息子は容赦が無い。
「安心しろ。母上を襲おうなんて奇特な男はまずいねえよ。」
「なんですって!」
目を怒らせるマリアを、カイリが宥めつつ、
「それで、彼らはこれからどうするんだ?」
と尋ねた。全員の視線を浴びたクラウスは、肩を竦めた。
「こいつらは俺の役に立つことを証明して見せた。俺の庇護下にあれば、下級神どもも手を出さないだろう。」
それは極めて異例であった。
クラウスのような強い神の配下は上級神が揃っており、下級神が立ち入れる場など与えられない。最下級神を召し上げるなど、稀有な事だが、クラウスは気にした様子もなかった。
「ただし、レティシアに忠誠を誓ってもらうぞ。二度と俺の女を苛んだら許さん。手も煩わせるな。彼女に傷一つでも付けたら、一族諸共消し飛ばしてやる。」
「・・・っ勿論でごさいます。ありがとうございます!」
ウルが歓喜を抑えながら、深々と首を垂れた。
自分に忠誠を求めるのではなく、彼女に誓えと言うのが、クラウスらしいところである、
獣人たちは喜色満面で、全員の尻尾が揺れていた。クラウスの名は絶大であり、庇護下にあれば、無暗に虐殺されずに済む。更に優しいレティシアに忠誠を誓えと言われれば、一も二も無く頷くものである。
レティシアも、あえて自分の配下にすると言ったクラウスの優しさが分かった。まだ神界に来て間もないレティシアは突然配下などが出来ても困ってしまう。一族の命運を担い切れる自信も無い。だから、クラウスは自身が召し上げるとしながらも、ただレティシアに害する事だけは許せないから、忠誠を誓わせたのだ。
最初から、きっと彼はこうするつもりだったのだ。自分の母が護っていた一族だから。
「ありがとう、クラウス。」
「・・・多少なりとも役に立ちそうだからな。何だ、纏わりつくな!」
尻尾を振りながらやって来たミディールとリルに、顔を顰めたが、彼らは心外そうだった。
「あの、レティシア様のお手に忠誠の口づけを・・・僕ら一族の決まりなんですが。」
「要らん、止めろ!」
しゅんと耳が垂れた二人に、レティシアはもう感動ものである。
「ああ・・・可愛い!クラウス、何て可愛い子達だろう!」
うっとりとするレティシアに、クラウスは顔を顰めた。
止めておけば良かったかと、彼は真剣に思った。
ラウェルの末路が・・・。ざまあ!状態です。