マリア様、最強。
一方、レティシアを抱き寄せて、のんびりと廊下を歩くクラウスは、機嫌が直っていた。
「今日は何をして過ごしたい?お前の好きな事で良いぞ。」
「そうだなあ・・・もう、クラウスの用事は良いのか?」
「一日中取られる訳でもない。用があれば、向こうから言いに来るから平気だ。やりたい事が無いなら、ベッドに行くか?」
「い、今は朝だ!」
「俺はもう三回お前を抱き損ねているんだが。」
「数えなくていい!」
レティシアが真っ赤になって抗議していると、くすくすと笑う男の声がした。いつの間にか、廊下の先に一人の青年が立っていて、足を止めた二人に代わって、悠然とした足取りでやって来た。
身長はクラウスと遜色なく、緋色の髪に、夕暮れ色を思わせるような鮮やかな赤い瞳の男だった。褐色の肌をしており、左目の下に泣きぼくろがあるのが、何だか艶めかしい。痩躯の青年であったが、身なりは整っていて、大国の皇子のような風格を漂わせる。クラウスと並び立っても目劣りしない、美丈夫だった。
だが、優美な笑みを浮かべている青年に対して、クラウスは盛大に顔を顰めて見せた。
「まだ居たのか。起きたら帰れと伝えさせたはずだぞ。」
「今起きた所だ。しかし、酔い潰れた友人を床に転がしておくのは酷くないか?」
どうやらこの青年が、昨夜突然訪れたというクラウスの友人らしいと、レティシアは思ったが、クラウスの機嫌は明らかに悪くなった。しかも、かなり急降下したのが、気配で分かる。
「連絡も無しにいきなり来る方が悪い。侍女に介抱させてやっただろ。」
「いや、駄目だな。俺の好みじゃない。」
「そんな事、俺の知った事か。第一、お前の嗜好に合う女など滅多に居ない。」
追い払うように手を振るクラウスに、だが青年は動じない。彼の腕に居るレティシアに視線を落とし、興味深げに目を細めた。優しい微笑みなのだが、レティシアはぞわりと何だか背筋が寒くなった。不快とまではいかないが、何だか今すぐ一歩でも二歩でも離れたくなるような男だ。男性的な美を誇るクラウスとはまた違った、どこか艶めかしい美丈夫なのだが、何故か嫌な予感しかしない。
つい警戒し、軍人であった頃の名残もあって、真っ直ぐに男を見返す。背を向けてはいけない気がしたからだ。だが、彼はそんなレティシアを見返して、何とも好意的な目を向けてくる。にっこりと笑う顔は何だか愛嬌があり、流石に警戒し過ぎかと申し訳なくなる程だ。
「可愛い子だな。彼女が噂のゼウスの娘か?」
「俺の女だ、汚い目で見るな。」
レティシアを背に隠すようにしてクラウスが立ち、男を冷ややかに見据える。幾ら友人であっても、随分不躾だと思いつつ、かと言って顔を合わせているのに、挨拶もしないのは非礼だと、レティシアは真面目に考えた。
「・・・レティシアです。こんにちは。」
「良い声だ。」
「はあ・・・ありがとうございます。」
不思議な事を誉める人だと思いつつ、一応礼を言っておく。
「俺はラウェルだ。よく覚えておいてくれ。」
「即刻忘れて構わないぞ。女がこの男と関わると碌な事がない。」
クラウスが間髪入れずに言うものだから、ラウェルは心外と言わんばかりに顔を顰めた。
「それをお前が言うか?」
「・・・下らんことをレティシアの前でほざくな。」
冷徹に光った漆黒の瞳に、ラウェルは肩を竦め、
「分かった、分かった。今日の所は大人しく帰るとする。」
と言って、短い挨拶をすると姿を消した。レティシアは、やっと肩の力を抜いた。
「ええと・・・あの人は、どんな人なんだ?」
「・・・・・・。そうだな、まだたかだか千年程度しか生きていないガキなんだが、ついこの間史上最年少で四柱の一人になった。神族としての実力は確かだ。」
たかだか二十五年しか生きていない男が平然とこき下ろす。クラウスよりも遥かに年上相手に、随分酷い。
「えっ、つまりカイリ様と同じ立場という事か?」
見るからに軽そうな男が、あの落ち着いた物腰のカイリと同じ身分にあるという事は俄かには信じがたい。
「そうなるな。父上も、ラウェルの神としての力は十分に認めている。性癖は最悪と言われているがな。」
「ああ・・・神族は人格や嗜好は二の次だったな。」
実力主義であるため、どれ程破綻している人物であろうとも、神力さえ優れて入れば人々の上に立ってしまう。人間でいえば、どれほど悪逆非道で、誰も支持しないであろう王でも、国政を好き放題されてしまうようなものである。力の弱い善良な神々は、息を潜めて、毒牙に掛からないように生きるか、もしくは同等の力を持つ神族の庇護下に入り、己を守って貰うかである。
「そう言う事だ。性格に難があるし、嗜好など最悪なんだが、意外にも部下には慕われている。面倒見は良い奴だからな。ただ、女は奴に関わるのを大抵は嫌がる。昨夜も奴の面倒を見させる侍女を見繕うのは大変だった。泣いて嫌がられたからな。」
お勤め第一と言わんばかりの彼女達が、そこまで嫌がるなんて、一体どういう男だ。
「そ、そんなにか・・・・?」
「ああ、いっそ母上に面倒を見させるかと思ったんだが、断られた。」
「そりゃあ、みんな嫌がるようなら、マリア様だって嫌だろう。」
「いいや。母上は平然と受諾してくれたんだが、奴が勘弁しろと言って逃げた。」
「・・・・・・・マリア様って、凄い方なんだな。」
「あの女を妻にした、父上の嗜好が本当におかしいと俺は思う。ラウェルよりも余程危ないんじゃないか?間違いなく神界の変人だぞ。」
噂をしていた所為だろうか。のんびりとした足取りで当のカイリがマリアと共にやって来た。
「やあ、レティシア。おはよう。今日も可愛いね。」
にっこりと微笑む美人としか言いようのない男神に、レティシアも丁寧に挨拶を返した。マリアもご機嫌に微笑んで、クラウスを見やると、
「ラウェルは帰ったようね。折角わたくしがお見舞いに行ってあげると言っておいたのに。」
「ああ・・・成る程。俺が何を言っても居座る気満々だった奴が、急に尻尾を巻いて逃げ帰った訳だ。」
「うふふふ。まだまだ青いわねえ。」
レティシアは目を瞬いた。どうやら、ラウェルはマリアが大変苦手らしい。こんなに綺麗で美しい女神なのに、彼の嗜好には合わないらしかった。随分変わっているらしいから、それも当然かと納得する。
「お二人でお出掛けですか?」
と、レティシアがカイリに問うと、彼は優美に目を細め、
「ああ、ちょっと所用があってね。遠方になるから、戻って来るのに数日かかる。その間、クラウスとゆっくりしておいで。」
「ありがとうございます、お気を付けて。」
すると、すかさずマリアがぎゅうっとレティシアを抱き締めて、
「クラウスがあまりしつこければ、嫌とはっきり言うのよ?侍女も武官も、誰もクラウスに太刀打ちできないから、止められないし、自分の身は自分で護るのよ!?」
「え、あ、はい・・・。」
何だか恐ろしい事を言われた。レティシアが顔を引き攣らせていると、クラウスが上機嫌で母親からレティシアを引き剥がした。
「行け、行け、一年でも二年でも行って来い。レティシアは俺が十分に可愛がっておくから、心配するな。」
「それが心配なのよ!」
マリアは目を怒らせる。不毛な口論と悟ったのか、カイリが出立を促し、マリアは名残惜しそうにしながら立ち去って行った。
見送ったレティシアは、
「神族でも遠方に行くのは大変なんだな。」
「距離の問題と言うより、神界には自身の領域を主張するために、無数の結界が張り巡らせてあるからな。大別すれば四柱のそれぞれの結界だが、その中にも四柱に従属する神族の結界がある。それを勝手に壊せば、最悪支配下にしている四柱と戦争になるからな。面倒を避けるなら、その結界を避けて通るしかない。中には転移封じの結界もあるから、飛ぶなり地上を行くなりする必要もある場所もある。転々と移動するから、時間が掛かるんだよ。」
「ははあ・・・そうなのか。神々も大変だな。戦争を起こさないように気を付けているのか。」
「いや、別に。」
「え?」
「基本的に神族は怠惰だが、好戦的な一族だ。人間の世界の戦に首を突っ込む奴もいると言っただろう?上級神と下級神の実力差も歴然としているから、挑んでも無駄だと理解して、賢明な奴は迂闊な事はしない。拮抗していれば猶更だ。勝負がつかない。だが、四柱は別だ。自領や配下を護らなければならないし、盟主としての誇りもあるから、どちらも譲らない。やれるものならやって見ろと応じる奴が多い。被害が大きいから、周りが必死で止めるがな。」
「カイリ様は・・・・?」
「父上は自分からは滅多に戦を起こさない。母上との時間を潰されて、面倒だからな。だが、挑まれたら徹底的に相手を潰す男だぞ?見かけは優男で大人しいように見えるが、アレの中身は凶悪だ。」
臆病風に吹かれている訳でも、消極的なわけでもなく、ただ面倒臭いという理由で戦を避ける。
レティシアは頭痛を覚えて来た。やっぱり神族は凄い一族だ。
「クラウスも・・・戦に出たことがあるのか?」
つい不安を覚えて、尋ねた。脳裏に過ったのは、人体であったがために深手を負い、命を落とす寸前であった事だ。表情を曇らせたレティシアに、クラウスは優しく頬をくすぐった。
「あるにはあるが、役に立たないぞ。人界でもそう言っただろう。俺は戦力にならんそうだ。」
「そうか。」
神々としては戦力として欲しいのだろうが、クラウスが傷つくのは辛い。レティシアが安堵した顔をすると、クラウスはくすりと笑った。
「心配するな。俺は神界ではたかだか上級神の一人に過ぎないし、産まれて間もない身だから、神界では赤子同然だと言っただろう。誰も俺を当てになんてしないし、四柱である父上の采配も盤石だ。うちに攻め込もうなんて馬鹿は居ねえよ。」
「じゃあ、戦は起きないんだね?」
「ああ。俺の一族を怒らせなければな。」
優美に微笑むクラウスに、レティシアは安堵した。
やはり、大いなる間違いである。