誰か、この女神を止めて下さい。
人間の住まう世界が夥しい数が存在する事を、レティシアは幼い頃に神界に連れて行かれて過ごす中で、初めて知った。人間だけで構成されている世界もあれば、異種族が混在している世界もある。
ただその中にあって、それぞれの人界は繋がらず、混じることもない。唯一すべての人界が繋がっているのが、神界であった。
神と呼ばれ敬われ、時として伝説的な種族として扱われる彼らは、人界を統べている一族でもある。ただ、彼らは永い時を生き、圧倒的な力を有している分、時に怠惰で、時に気まぐれだ。
人界に降りては人と混じってみたり、戦に紛れてみたり、怒りの余り人界一つ滅ぼしてしまう身勝手な神族もいるという。
それを是とする一族が、レティシアには未だに理解しきれない。
幼い頃は、人と神の混血児という事もあり、ゼウスの宮ではオゼなどの一部の神々から揶揄されたり卑下される事も多く、あまり良い印象はなかった。ただ、神族が全て彼らのような者では無いと知り、考えを改めた今、先入観なしで、目の前に広がる荘厳な光景を見ても、やはり言葉が無かった。
神界に行くと言うクラウスの言葉に、レティシアは直ぐに頷けなかった。やはり幼い頃の苦い経験があり、いくら身体は神族になったと言っても、たかだか一月程度の事で、どうしても腰が退けた。
ただ、クラウスが、
「大丈夫だ。お前を侮蔑するような者は、全員即刻処分してやる。」
と何だか恐ろしい励ましをしてくれたし、マリアも艶然と微笑んで、
「わたくしたちの家で、貴女を傷つけるような者なんて、存在を許さないから、平気よ。」
と更に輪をかけて慰めてくれた。カイリまでも、極めて優しい口調で、
「申し訳ないんだが、待ってあげられないんだ。我々としては一日でも早く、君を招きたい。」
と宥められる。
どうやらクラウス一家の彼らの家に招待してくれるようなのだが、どうして彼らがここまで鬼気迫るのか、レティシアはいまいち良く分からない。ただ、神界に行くと言うよりも、クラウスの生家に行くと言う話なら、まだハードルが低い気がして、レティシアは頷いた。
そして、今。
目の前に広がる、信じられない光景に、言葉を喪っている。
あまりの光景に、ついつい人界と何ら変わらぬものであった空を見上げ、ああ青く澄んでいて綺麗だなと、またしても現実逃避して、そして改めて、クラウスの《実家》を見返した。
どこの大国の王城だろう。
以前ファルス神王国の王城を例えて、その二・三個くらいだとクラウスは言っていたが、冗談ではなかった。広すぎて、絶対に案内ナシでは迷子になる自信がある。
白亜の石で創り上げられた荘厳な宮殿は、凄まじい広さだった。正門から通されたが、普通の家の扉と比較するのが申し訳なく成る程巨大で、金銀の装飾が施されて見事なものだった。入り口にはずらりと神々しいばかりの美貌を持つ神々が首を垂れて、出迎え、扉を開けてくれた。
そこで回れ右をしたかったのに、クラウスに腰に手を回されていて、それさえ出来なかった。
廊下は大理石で傷一つなく、磨き上げられていて、本当に靴で踏んでいいのか、レティシアは真剣に悩んだ。天井にも細かい装飾が施され、その空間は統一感があり、だが奥へと進むと、そのフロアごとに趣が変わって、目を楽しませてくれる。
あまりキョロキョロと見てしまうのも失礼だろうと、レティシアは視線をなるべく固め、前を行く夫妻に付いて行った。二人ともこの絢爛豪華な宮殿の主人に相応しい堂々とした歩き方だ。行きかう人々も、最高礼を尽くしているのが分かる。
ただ、緊張し続けるレティシアに対し、隣を歩くクラウスは上機嫌で、恋人の手を取った。
「どうした、レティシア。口数が少ないぞ?」
「こ、ここは、一体どういう所なんだ・・・。」
「どうって、俺の家だ。」
平然と言うクラウスに、レティシアはくらくらした。だがふらつく訳にもいかない。うっかり壁に手を突いて汚してしまったら、絶対に賠償できない。掃除の仕方も分からない。雑巾で擦ったりしたら、罰が当たりそうだ。
「家という規模ではないと思うのだけれど・・・。」
「まあ、父上は四柱の一人だし、母上も至高神だからな。部下はそれなりにいるし、領地も抱えているから、上納品もある。」
「はあ・・・。」
元々ここで産まれ育ったためか、彼の口調は極めて軽いが、見渡す限りあまりに荘厳であり、どの程度の規模なのか想像もつかない。
夫妻は元より、クラウスも宮殿にいても全く違和感がない。つまり、明らかに浮いているのは、自分だけだ。出迎えた宮殿の使用人らしき神々は元より、すれ違う武人らしき人々も、一家に対して最高礼を尽くしているが、明らかに異質であろう自分を見ている事に、レティシアは気づいていた。何と言われるかも、想像が付く。
幼い頃にゼウスの宮に強制的に連れて行かれたレティシアは、その後ゼウスにほぼ放置された。彼は宮殿について早々に、身の回りの世話役を数人の神々に言いつけて、宮殿の奥へと消えて行ったのだ。レティシアはその頃ゼウスに猛反発していたので、ゼウスに何を言われても口も聞かなかったし、稀にゼウスがやって来ても完全に無視した。滅多に会いに来ないような父親に、心を開きたくなかったからだ。
ただ、ゼウスがレティシアの力を吸収して秘めていたために、彼自身の力は下級神以下に落ち、あまり出歩けば、ゼウスを狙う者に露見することになると知ったのは、つい最近の事だ。
だがそんな事を知らない当時のレティシアは、いつも孤独だった。世話役は丁寧で親切ではあったが、最低限の事しか話さないし、レティシアと親密になろうとする様子も無かった。生きるというだけであれば、決して悪い環境ではなかったが、ゼウスの配下の中には辛辣な者もいた。
オゼなどはその筆頭で、レティシアを見てあからさまに侮蔑の言葉を吐いてきたこともあったが、それ以外の者からも、神と人の混血児であるレティシアは何かと低く見られた。世話役が用意してくれたドレスは豪奢なものだったが、人界の平民として産まれ育っていたレティシアは服に着られているだけだと自分でも思ってしまうほどだった。惨めで、母親を馬鹿にされ続ける日々に耐えかねて、逃げ出したのだ。
今は完全に神族になったし、年を重ねているとはいえ、ゼウスの宮殿同様に豪奢な場所に連れて来られても、やっぱり浮いているに違いない。招待して貰ってありがたいが、何か傷つけたり壊したりしない内に、早々にお暇しようと決めた。
ただ、その見通しは大変に甘かったことを、レティシアはすぐに思い知る事になる。
「ああ、可愛いわぁ・・・わたくしにこんな愛らしい娘が出来た何て、本当に幸せ。クラウスの馬鹿を初めて心から誉めてあげたいわ。」
誰もが惚れ惚れとする美女にうっとりと呟かれ、レティシアは恥ずかしくて穴があったら入りたい気分だった。
時は一時間ほど前に、戻る。
親子に連れられて訪れた一室には、見目麗しい女神たちが十数人揃っていた。誰も彼も地味なお仕着せを着て、髪を丁寧に結い上げて、統一された外見でありながら、何と全員美女揃いという、まず圧巻の光景にレティシアは目を剥く。更に、彼女達は主人たる一家のみならず、レティシアにまでも丁寧に挨拶をしてくれた。呆気に取られるレティシアを他所に、マリアは夫と息子を早々に部屋から追い出しにかかった。
カイリは微笑んで応じたが、クラウスはあからさまに顔を顰め、
「何で俺まで。」
と、不満そうであったが、マリアは、
「女性の身だしなみの時間を見ようなんて男は、最低よ。」
「レティシアを抱いた後は、いつも俺が世話してるんだから、構わないだろ。」
何を今更と言わんばかりのクラウスに、レティシアは真っ赤になったものである。
大勢の前で、何と言う事を言ってくれるのだ!
だが、彼の母親もつわものである。全然動じてくれない。むしろ、動じて欲しい。
「それは当然だけれど、それとこれとは話が別よ。良いから出なさい。邪魔よ、わたくしの邪魔!」
「やっぱり母上の都合じゃねえか。」
クラウスは顔を顰めたが、レティシアに半泣きで睨まれて、目を泳がせると、肩を竦めて出て行った。マリアは息子の我が儘に辟易した様子でため息を付き、そして粛々と控えている侍女達を見据えた。
「この程度で一々動じないの。」
ぴしゃりと言われて、侍女達が顔色を変えて、「申し訳ありません。」と一斉に詫びる。レティシアは目を丸くした。一切姿勢を乱さず、母子の会話の間も表情を一切変えず、気配すら消して、完璧であった彼女達の、一体どこに失態があったか分からない。マリアの視線は侍女に向いていたが、これはやはり過敏に反応した自分に言われたのではないだろうか。
「あ、あの・・・御免なさい。」
すると、マリアは不思議そうな顔をして、慈母そのものの笑顔を見せた。
「あら、レティシア。どうしたの。貴女が謝ることは何も無いのよ。この子達は、貴女に仕える事になるから、特に念入りに言い聞かせているだけよ。どうせ、貴女といるクラウスを見ていれば、これからもっと驚くことになるんだから。」
「ええと・・・・。」
色々端々が気になるのだが、一番引っかかった言葉を尋ねることにした。
「仕えると、おっしゃいますと・・・・。」
「ここにいる十五人が貴女の最側近の侍女よ。後、下働きが三十人くらいかしらねえ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「少ないけど、この宮にいる侍女達の中でも、一番堅実で、誠実で、優しくて、身元も確かな子を厳選しておいたから、当分我慢してね。落ち着いたら、良い子をもう少し見繕ってあげる。とりあえず、当面の護衛の兵は上級神を百人くらいで良いわよね。それは夫が選んでいるわ。まあ・・・あの子が傍に居るから、飾り程度になると思うけれど。」
「護衛の、兵・・・。」
「あ、心配しないで?当面だから。貴女の護衛だから、わたくしも、厳選したいの。貴女の為に死ねるような忠義の女達を、ちゃんと用意しますからね。」
意味が分からない。レティシアは頭痛すら覚えた。自分はお姫様でもご令嬢でもなんでもないのだ。
ただ、マリアは満面の笑みを浮かべて、侍女達を見やると、
「さあ、やるわよ!」
と気合を入れた。
「はい、奥様。」
色々とツッコミどころがあるであろう女主人の台詞に、眉一つ動かさなかった優秀な侍女達が、一斉に応じる。
そうして、レティシアは、着せ替え人形と化し。
一時間後、マリアに、
「ああ、可愛いわぁ・・・。」
などと、うっとりと言われる事になる。
誰か。
誰か、かの麗しい女神を止めて欲しい。
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読んで頂いて、嬉しいです!神界編も、原本があるため、更新は速めです。宜しければお付き合いください。
尚、モフモフは今しばらくお待ちください。御一家が暴走しています。