皇太子は優良物件。
確かに焦る必要はなかったかもしれないと、レティシアは王城に着いてから思った。クラウスの手によって髪と衣服の乱れは完璧に直され、幸いにしてクラウスの付けた跡もドレスの下に隠れた。身だしなみを整えたレティシアが、じゃあ行くかと、クラウスに声を掛けると、彼は短い詠唱をした。
眼前が光ったかと思うと、目の前に広がっていたのは、王城の広間で、レティシアは呆気に取られた。そして、未だ戦闘の跡が生々しく残り、破壊の限りを尽くされた室内を見回していた皇太子と目が合った。
言葉に困ると言うのはこう言う事だ。幸いにして、その場に居たのは皇太子と、数人の臣下、そしてゼウスだけだ。それでも、ゼウス以外は突然眼前に現れた二人を見て、驚愕の余り言葉も無い。最初に立ち直ったのは、皇太子だけだった。
「・・・色々話は聞いたよ、とにかく無事で何よりだ。」
「ご迷惑お掛けしました」
「いやいや、僕らの方こそ、傀儡になってしまったのは申し訳なく思っている。特に・・・クラウス、私は君の命を奪う所だったそうだね。」
気遣う皇太子に、だがクラウスは肩を竦めて見せた。
「別に、今こうして生きているんだから構わん。」
あっさりとしたものだった。傀儡になっていた事は彼も承知しているし、結果的に命は助かったのだから、それなら色々というものでも無いと割り切っている。一切気にしていない男に、皇太子は苦笑し、周囲に居た臣下たちは彼に軒並み感謝の祈りすら捧げた。
「・・・?何だよ」
祈られる覚えも、筋合いも無いクラウスは怪訝そうな顔をするが、皇太子は笑いをかみ殺しつつ、
「いや、君のお母上を名乗る女性が来て、もしも君が私に斬られた傷で、そのまま死んでいたら、我が国の民を皆殺しにして、国を滅ぼすつもりだったと、笑って言い残してくれたものだからね。言うだけ言って上機嫌でどこかに消えてしまうものだから、誰も信じなかったんだけど、その後来たこの人が、まあ・・・よく脅してくれてね。」
クラウスは閉口して、澄ました顔で立っているゼウスを見返した。
「人間をおちょくって遊ぶんじゃない。」
「私もマリアも少し灸をすえただけだ。城内の人間全員が操られるなど、仮にも神術を軍の主力にしている者達があり得んだろう。」
ひいいと善良なる人々が恐れおののいている。ゼウスが変装を解いていても、誰も異論を唱えず、むしろ畏怖を持って彼を見返している所からして、説明の際に信用させるために、多少脅かしたらしかった。
ただ、皇太子はある意味肝が据わっている男である。神々を前にしても、口調はいっそ穏やかだ。
「しかし驚いたよ。よもや家臣の一人と思っていた男も、新米兵だと思っていた君も、挙句に私が求婚していた女性も神族だというのだから。神様って案外身近にいるものだね。」
「・・・あんたたちが気付かないだけで、紛れ込んでいるものだ。それよりも求婚とはどういうことだ?」
先ほどの冷静さが嘘のような鋭い眼光で睨まれて、皇太子は肩を竦め、まずゼウスに擦った。
「いや・・・ほら、レティシアを妃にって、ずっと僕に推してくれていたから。全部振られたけど。」
「成る程・・・貴様の仕業か。」
クラウスはゼウスを睨んだが、彼は肩を竦め、
「途中までは私ではない。レティシアの居所が分からなかったから、お前に託したのだからな。私に娘がいるのならば、お前の嫁にさせろと言うあの二人には、流石に困ったが、まあ大丈夫だろうと思っていた。」
「・・・・・・・・・・。」
クラウスはもう言わんとすることが分かったらしく、軽く睨んだが、ゼウスは小さくため息を付き、
「お前だから、大丈夫だと思ったのだが。」
とまた繰り返した。
「レティシアがこんなに可愛い女だったのなら、早く言え。」
「言えるか、お前のような男に。探し出すのには適任だから託したが、四六時中娘を口説けと頼んだ覚えはない。」
「あんたの娘を口説いたつもりはねえよ。」
初め二人の会話を不思議そうに聞いていたレティシアは、ヒートアップしていく両者の言葉に頬を赤く染めざるを得なかった。
だが、ゼウスも譲らない。
「お前の神気が途絶えたというから、お前の両親と様子を見に来てみれば、お前は酒場で何時ものように若い女達に囲まれていたからな。レティシアが悲しんでいるのも分かった。」
これにはレティシアも驚いた。
「あ、あの場に居たのですか?」
「そうだ。人に紛れて様子を見ていた。だから、お前が翼を封印しているのも分かったし、人として生きたいのだろうという事も推察が付く。それならば、人間の女として最高の地位につけてやりたいと思うのは当たり前だ。」
何だか神族の発想と言うものは、凄まじい気がしたレティシアは呻いた。
「・・・それで、ヴィーゼ伯爵に成り代わって、私を王城に呼んだのですね。」
「信心深い男らしくてな、伯爵は大変協力的だった。」
道理でまるでクラウスの事を知ったかのように話すわけだ。
「私が皇太子殿下の妃になれるわけが無いでしょう。」
「何故だ?この男は、お前に惚れ込んでいるぞ。」
「そっ・・・それは、有り難い事ですけど・・・っ!」
頬を真っ赤に染めるレティシアに対し、皇太子は、臣下達が口々に、
「殿下、いじらしい。」
と拭うのを目の端で捉え、傷口を広げないで欲しいと彼は真剣に思いつつ、
「ああ、うん。もう良いよ、レティシア。分かっているから。」
「・・・・殿下、あの・・・・。」
「言っておくけれど、あの時はまだ僕は意識があったし、心から言った事だよ。」
幸せにおなり。
そう優しく言ってくれた皇太子の眼と、今は何ら変わることが無く、レティシアは微笑んで頷いた。
穏やかに微笑み合う二人を見て、ゼウスはやはりため息を付く。
「・・・人間として生きるのであれば、やはりこちらの方が良いと思うのだがな。」
これには即座にクラウスが反応した。
「黙れ。レティシアは人間だろうが神族だろうが、俺のものだ。」
それを主張するように、彼女を抱き寄せて、苦笑している皇太子をも睨みつけた。
皇太子も男である。
長年思慕を募らせていた女性を突然現れた男に奪われたのだから、面白くはない。それでも皇太子としての自制心と、せめてレティシアとは良き友人で居たいという思いから、レティシアに対しては寛大である。だが、失恋の原因を作った男にまで寛大である必要性は感じない。
「・・・男の嫉妬は見苦しいよ。」
「お前がそれを言うな。」
皇太子の対抗心を、クラウスは即座に見抜いたらしく、鼻で笑う。睨み合う二人の若者に、ゼウスは小さくため息を付いた。自分が瀕死の重傷を負わされたことは流す癖に、レティシアが絡むとまるで子供だと呆れたのだ。だが、この男がただ只管に愛してくれたからこそ、レティシアは心を開き、そして自分の道を歩き始めた事は認めざるを得なかった。
穏やかに微笑むゼウスを、レティシアは黙って見つめ、そして彼の元に歩み寄ろうとして、クラウスに抱き戻される。
「ま、待ってくれ。私が、王城に戻りたかったのは・・・この男が神界に帰る前に、渡そうと思って。」
「渡す?・・・・ああ、そう言う事か。」
ようやくクラウスは皇太子を睨むのを止め、レティシアの首から下がっているネックレスに手を伸ばすと、短い詠唱をした。何をしているのだろうかと皇太子や居合わせた人間たちには分からなかったが、眼晦ましの術から解放され、突如目の前に現れたように見えるゼウスは目を見張った。
可視化された鎖から下がっていたペンダントは、だがその場で形を変え、元の一冊の本に戻った。
それをレティシアは大事そうに持ち、困惑しているゼウスを見返した。
「母様は、私に二十冊の本を書き残した。その内十九冊は、神術に関してのもので、寄贈しても構わないと言っていたから、今は衛士隊の保管庫にある。でも、これだけは、人の手に渡してほしくないと言っていた。」
「お前への形見か。」
レティシアは小さく首を横に振り、無地の表紙を見つめた。
「・・・これには母様が見つけた神族からの眼晦ましの術が掛かっていた。クラウスが人間になったから、この本の存在に気付いて、術も一度解いてくれた。そして私には一文も読めなかった内容を、私に教えてくれた。」
「・・・・・・?お前に読み解けないものを、彼女が遺したのか?」
「これは神族の文字で書かれたものだから、私には良く分からなかったんだ。母様が書いたのは私に向けてじゃない。」
「・・・・・・・・・・・。」
「一番最後のページは、死に際になって書き足したらしい。それは、貴方の術を破壊する研究の成果だった。未完成ではあったけれど、私にもそこだけは少し読めた。母様は・・・・貴方を殺したいほど憎んでいたのかと思ったけれど・・・どうやら、封印を解く術を探していたようだ。」
表装を撫ぜるレティシアの手は優しい。母の形見が無くなってしまう事は哀しいけれど、それ以上にこの男に渡した方が、母が喜ぶだろうと思うと、受け入れられる。
「・・・わたしを監視していたオゼ達は、多分この書を欲しがったはずだ。母様が遺したものを徹底的に調べてみたいだから。でも、母様はそれを見越したように、眼晦ましの術を掛けていた。」
「・・・・・・・。彼女はとても賢明な女性だったからな。」
「うん。」
レティシアは母の気持ちがようやく分かった気がした。だから、毛嫌いし続けて来たゼウスに、微笑みかける事ができた。
「母様はこれを私に渡してくれたけど、中身は私に向けてのものじゃないよ。」
「・・・・なに?」
「これは、きっと貴方に渡して欲しかったんだと思う。だから・・・貴方にあげる。」
そう言ってレティシアは本を彼に差し出した。
「・・・・良いのか?形見の品だぞ。」
「私は母様との思い出が一杯ある。それに、貴方は・・・一応、わたしの父様だから・・・・。」
気恥ずかしそうにごにょごにょと言ったレティシアだが、ゼウスには十分聞こえた。彼は嬉しそうに微笑んで、レティシアの手から本を受け取り、そして表紙を開いて目を落とし、息を呑んだ。
切れ長の瞳が柔らかなものに変わり、彼は静かに表紙を閉じた。
「ゆっくり、大切に読ませてもらう。」
「・・・・・・・好きにすればいい。私はあんまり中身は知りたくない。」
幼い頃はかなりのお転婆であった自覚のあるレティシアは、恥ずかしい事が書いてないだろうかと何となく心配になる。だが、クラウスが不思議そうに言った。
「何故だ?お前の可愛い事ばかりしか書いてなかったぞ。」
「・・・・・!」
そうだった。この男は全部読み解いていた。つまり幼い頃からの事を知られてしまったという事だ。
「ほ、本当だな?」
「俺はお前には嘘はつかねえよ。」
クラウスはくすくすと笑って、顔を赤らめた恋人の頬をくすぐった。