クラウス、激怒する。
前話に引き続き、残酷な描写があります。ご注意ください。
レティシアは、自身の名を呼ぶクラウスの声に惹かれるように、ゆっくりと顔を上げた。意識は朦朧としていたが、自分の背中に感じる懐かしい感覚に、徐々に現実に引き戻され、振り返ってみれば、純白の翼があった。
安堵して、クラウスにしがみついていた腕を緩め、身体を起こした。
自分を食い入るように見つめる彼の表情は見たことも無いほど、苦痛に歪んでいた。当然だ。クラウスは瀕死の重傷を負っている。命を留めているのもやっとのはずだ。
「ごめんね・・・痛い、よね。待ってて・・・今、外すから・・・。」
「・・・っレティシア。」
クラウスの声が震えていた。どうして彼が今にも泣きだしそうな顔をしているのか、分からなかったけれど、レティシアは彼の腕に嵌まる腕輪に触れた。
詳しい術式は分からない。ただ、触れて分かるのは、クラウスがこの腕輪に掛けたであろう条件だった。
レティシアが神族で無ければ、外せない。
それを今まで一切自分に言わなかったところに、クラウスの愛情を感じた。彼は神族として生きる道を、決して強いようとはしなかった。自分が死に瀕していても、彼は口を閉ざし続けた。
優しく、律儀な勇神を、レティシアは愛しいと思った。
レティシアが短い詠唱を終えるとともに、彼の両腕から腕輪が外れた。クラウスは息を呑み、そして彼女の想いに応えるように、自身も詠唱を始めた。
《鍵》を解かれた封印は、元をただせばクラウス自身が掛けたものである。レティシアが、彼が神である事を是と告げてくれたのであれば、彼に躊躇うものはなかった。
詠唱が終わると同時に、クラウスの身体も光を放ち、雄々しい黒翼が露になる。それと同時に、彼に無数についていたありとあらゆる傷が一瞬にして消えた。
命を奪いかねなかった胸の傷でさえも、跡も残らなかった。
その様をレティシアは目に焼き付けるように見つめて、顔を綻ばせた。紫紺の瞳から大粒の涙を零して、心底嬉しそうに微笑んだ。
「・・・良かった・・・・これで、一緒に生きられる・・ね。」
そう言って意識を失ったレティシアを、クラウスは無言で強く抱きしめた。
彼は全てを知った。
レティシアが、何故神族を毛嫌いしていたのか、翼の封印に怯えたのか。そして、オゼとその配下達に血の気が引いた顔をしていたかを。
だが、彼女は味わった苦痛をただ一人抱え、耐えていた。そして封印を解く時には、自分達に気遣って、大丈夫だと言って笑っていた。絶望を味わった過去を越えてまで、自分を救い、共に歩こうとしてくれるレティシアに、クラウスはもう愛しているなどいう言葉では足りない気がした。
レティシアの身体を優しく抱き上げて、彼女の身体が収まるソファーに寝かせると、マリアが気を利かせて、隣室から毛布を持ってきて、彼女にそっとかけた。
クラウスは眠りに落ちたレティシアの額にキスを落とすと、彼女の周囲一帯に強力な護法を掛けた。それでも足りぬと、マリアが更に自身の護法を掛けたかと思えば、ゼウスまでも更に掛けた。
三人はその間も無言である。
クラウスはそうして、眼晦ましの術を一部だけ解いた。人間にしか使えない種のもので、戻すことは出来ないが、崩すことは出来る。
マリアの周囲だけ解かれた事に、彼女自身は怒るどころか、息子の意を汲んで、初めて優美にして冷徹な笑みを浮かべた。
「そうねえ・・・こうしなきゃ、あの卑怯な糞どもは逃げてしまうものねえ・・・。」
ゼウスとクラウスが神としての力を取り戻していると知れば、とても敵わないと逃げ出すことは容易に想像が付く。彼らはマリアの神気を追っているのだ。無論、至高神である彼女に挑もうとは思っていない。人間同然のクラウスや、著しく力を落としているゼウスに狙いを定め、人間を利用して、追い落とそうとしているに過ぎない。
だがマリアの神気に、いち早く気付いたのは、オゼ達ではなく、彼らよりも遥かに力が強く、妻の気配が消えたのに血相を変えて人界を探し回っていた男だった。
「マリア、無事か!」
愛する妻の元に突如として現れた男は、だがその場に漂う凄まじい殺気に、目を見張った。何故だか分からないが、妻が凄まじく激怒しているのは分かる。これは、自分でも抑えられないと、彼は経験上知っていた。
大陸一つくらい吹っ飛ぶかなと、彼はまだ呑気に考えていた。愛する妻が無事ならば、それでも良い。
ただ、異様な空気を放って近づいてくる不穏な連中にも気づいた。マリアを狙っているらしく、一目散に向かってくる。館を一斉に囲われたことに気付いた彼は、柳眉を潜めながらも、剣を手にした。
「状況は良く分からんが、お前を狙っているようだな・・・・。全員始末するか?」
彼は神界でも有数の愛妻家である。マリアに危害を加えようとする者は地獄を見せる事でも有名だった。だが、彼の妻は、それ以上に苛烈である。
くつくつと喉を鳴らし、
「わたくしたちの邪魔しないでくれる?」
「なに?」
困惑した彼は、だが次の瞬間クラウスが眼晦ましの術を全て解いたために、ようやく視界に旧友と息子を捕らえた。
「クラウス!それに、ゼウスまで・・・一体何なんだ?」
息子と旧友の無事も分かり安堵した彼だが、流石に顔を顰めた。二人の身体には傷は無かったし、神族としての力を取り戻しているのが分かる。だがどちらも衣服は血塗れで、彼方此方切り裂かれ、手酷い目に遭ったのがありありと分かった。
だが、眼晦ましの術を解いた瞬間、クラウスは別の詠唱を始めていて、父親には目もくれない。
そして、ゼウスはと言えば、彼が見たことも無いほど醒めた目をしていた。
「カイリ、お前は手を出すな。一人でも分けてやるのは惜しい。」
「なに?」
困惑するカイリに、詠唱を終えたクラウスが淡々と言った。
「父上。レティシアを護っていろ。」
「護れと言われても・・・これを破れる者は、神界に誰も居ないと思うが・・・分かった。」
降参の態で、彼は両手を上げて、素直に息子の言葉に従った。
ソファーで眠りに落ちている銀髪の娘には、彼にも記憶があった。酒場で見かけただけだが、彼女に逃げられただけで、息子が血相を変えて追いかけていったものだ。その後、マリアから、クラウスが溺愛しているゼウスの娘だと教えてもくれた。あのクラウスが、誰かを愛するなんて奇跡だと、二人で喜び合ったものであったし、何者かに翼を奪われたという話には胸を痛めてもいた。
その彼女に対して、今ゼウスと、マリアと、クラウスのそれぞれの強固な護法がかかっている。四柱であるカイリでも破壊するのは無理だ。放っておいても、彼女には傷一つ付けられないに違いない。
妻とゼウスがここまで激怒しているのは、恐らく彼女が一因なのだろうということは分かる。息子はといえば、最早激怒の範疇を越えている。どうしたら息子がこの人界を滅ぼさないだろうかと、真剣に考え始めたほどだった。
そして、息子がこの館一帯に張り巡らせた強固な結界に、カイリは閉口した。この館と外を隔絶する種のものだ。つまり、館の周囲に群がっていた者達は、一切の逃げ場を封じられた事になる。クラウスとゼウスの神気が解放された瞬間、逃げようとした気配も感じていたが、全員この結界に弾かれていた。
「・・・オゼは俺が殺る。」
と、淡々とした口調でクラウスが告げる。
「仕方ないわね。じゃあ、あの男の部下達はわたくしのものよ?」
口元に微笑を浮かべた、女神の眼が全く笑っていない。ゼウスは顔を顰め、
「待て。私にも寄越せ。五人いるから、私が三人、お前が二人でどうだ?」
「冗談じゃないわ。私の方が何故少ないの。生きたまま一人を半分に裂けばいいじゃない。そうしたら平等よ。」
「仕方ない。承知した。」
日常会話でもするかのような軽い口調で、凄まじい言葉を吐きながら、妻子と旧友が部屋の出口に向かって去っていくのを、カイリは見送った。
オゼと言うのは確かゼウスの部下であった気がするが、まあどうでも良い。
ただ、莫迦な事をしたものだと、本気で思う。
ゼウスは神界の最高実力者に当たる《四柱》の一人である。言わずもがな、神界でも随一の力を持つ神族の一人だ。マリアもまた自分に敗れて《四柱》の座こそ譲ったが、女神としては最強の部類に入ることに変わりはない。
そして、クラウスは。
まだ産まれて二十五年程度しか経っていないにも関わらず、神界ではまだほんの赤子同然の年齢であるのに、既に父親である自分の力量を越えている。慣例に従い、カイリは四柱の座を譲ろうとしたが、『面倒臭いから要らねえ』と蹴られた。
それ程の勇神である。
息子の力量を知る己の部下達からは、神界一危険だと言われている男である。ただ、その事実はあまり公になっていない。
神界でクラウスは無為だった。神族は力量差が明確である分、怠惰になりやすい種だが、クラウスの場合はあまりに神力が強過ぎて、常に持て余していた。聡明であり、何事にも勘が良い事もあって、難解な術を簡単に使いこなしてしまう。だから、何をしても飽きっぽかった。努力と言う言葉が一番嫌いであろうし、一番似合わない息子だった。
そんな息子が、唯一許さなかったことがある。
幼少の頃から、父親であるカイリと、母親であるマリアを、傷つけようとした者をクラウスは一切許さなかった。凄まじい怒りを放ち、敵となった神族諸共に神界の一部を崩落させたとき、夫妻は息子の愛情深い側面があることに喜びつつも、流石に頭を抱えた。数多ある人界に比べて、神界は広大であるが唯一無二であり、そして遥かに強固であるというのに、それを粉砕してくれたのだ。修復にはかなりの時間を要した。
ただ、クラウスがそこまで怒るのは、両親が絡んだ時だけだったので、滅多に起こりうる事態でもない。クラウスの力を見せつけられた敵は全員消し飛ばされていたし、証拠も無い。
だから、神界でのクラウスの立ち位置は、至高神カイリとマリアの嫡男、言うなれば名家の御曹司であり、優れた美貌と才能を持つ、将来有望な、上級神という認識が一般的だ。
彼が無為で怠惰な分、誰もそれを疑わなかった。知られているとしたら、時々垣間見せる冷徹さくらいだ。
だが、その息子はかつてない程怒り狂っていた。血族を害された時を遥かに凌駕するものである。
本当に、莫迦な連中だと、カイリはまた思ったが、全く同情しなかった。
静かに眠るレティシアを起こしても可哀そうだと思い、彼は外の喧騒から遮断する術を施すと、彼女の向かいのソファーに腰を下ろして、神界の自身の書庫から読みかけの本を導くと、のんびりとめくり始めた。
三人が出て行ってすぐに、無関係と思しき人間たちが次々にクラウスの結界の外に弾き飛ばされ、あっという間に気配が六つになったのを感じる。
ただ、それからが長かった。三人の標的はその六人だったのだろうと、カイリは思った。
部屋の外からは、断末魔の叫びと、絶望に打ちひしがれた声に混じって、
「もう殺してくれ。」
「俺達が悪いんじゃない、命令されただけだ。」
「どうかお助け下さい。」
「消さないで。」
と数々の悲鳴が聞こえたが、カイリはぴくりとも反応しなかった。
ただ、館中に響くのではないかと思う程の、一際大きな凄まじい悲鳴と絶叫が聞こえて、流石に彼も柳眉を潜め、感想を漏らした。
「あの声はオゼか。煩いな。」
そう言えば、息子がオゼを仕留めると言っていた。成る程と納得して、カイリはページを捲る。息子も煩いと思ったのか、それ以降オゼの声だけは聞こえなくなったが、それが別に加減を始めた訳ではないことは、彼も息子の凄まじい覇気を感じているから、すぐに分かる。
その間にも、オゼの部下達らしき悲鳴が聞こえ続け、カイリはそれをまるで音楽を聴いているかのように聞き流し、一冊を読み終えた頃、三人が戻って来た。
出て行った時と全く同じ装いだった。返り血一つ浴びておらず、息一つ乱していなかったが、カイリは六人の神が消滅させられた事を感じ取っていた。
クラウスは他に目もくれず、レティシアの元へと歩み寄ると、穏やかに眠る彼女に安堵した顔をして、自身の結界を解いた。そして、今度は邪魔だとばかりに、ゼウスとマリアの護法を粉々にした。
これには流石にゼウスも呆気に取られた顔をして、
「・・・・嘘だろう。私の護法だぞ。」
「わたくしのもよ。本当に・・・我が子ながら危ないわあ。」
と、マリアは小さくため息をついて、
「あの連中も自業自得だけれど、この子を刺激するなんて、莫迦な事をしたと思わない?」
「オゼの部下も、我々に殺されただけでも感謝してもらいたいものだな。」
「あら、手を抜いたの?」
「まさか。だが、オゼを見ていたら、そう思わざるを得ない。」
「まあ・・・ねえ。わたくし、あの男をクラウスが消すまで、クラウスに近寄りたくなかったわ。」
二人にそこまで言わしめたクラウスはといえば、全くの別人ではないかとさえ思われる程の優しい笑みを浮かべて、レティシアを膝の上に横抱きにすると、何度も頬や額にキスを落としていた。
完全に蚊帳の外になってしまったカイリは失笑し、立ち上がった。
「この世界は残っているかい?」
「壊したりはしないわよ。レティシアが生まれ育った大切な故郷なんだから。結界内だけよ、暴れたのは。」
「それにしては何だか胸騒ぎがするんだが。」
と言って、外の様子を見に行った。ゼウスもマリアもそれを止めなかった。見たほうが早い。
そうして、カイリは扉を開けて、何もない空間を見返し、呆気に取られた。館はレティシアのいる一室を残して跡形も無く消し飛び、美しい庭園も影も形も無く、抹殺されたであろう六人の神の姿もなかった。ただ、一面血塗れであり、身体中の血液を出し尽くしたのではないかとさえ思われた。
カイリは小さく呻いて、だが吹き飛んだのがこの程度で済んで良かったと思って、また扉を閉めたのだった。
クラウスは、怒らせると大変不味い神族です。
マリアも、危険です。
カイリは、もっと危険です。
このご一家は、実は神界でも有名な、危険物です。