レティシアの過去。
ヒロインの過去編になります。
残酷な描写があるため、苦手な方はご注意ください。
母の臨終に突如現れたゼウスに、強引に連れて来られたレティシアであったが、ゼウス自身が彼の宮殿の奥に身を潜めたまま出て来ず、監視の目が緩いことに目を付けて、神界から逃げだした。
人界に降り立った時は、酷い雨だった。でも、ようやく戻ってこられたと安堵した時、レティシアは大勢の神々に突如周囲を囲まれた。ゼウスに命じられてレティシアの世話をしていた神々では無かった。
ゼウスに連れて来られたレティシアを《下賤の人間の子》と嘲笑していたオゼと、その五人の配下達だった。彼らに尾行されていた事にようやく気付いたが、もう遅かった。
「やはり人の子には、清廉な神界の空気はあまりに合わなかったようだな。お前のようなものは、掃き溜めにいるのが似合いだ。」
五人の神々も野卑な声を上げ、散々にレティシアを侮辱したが、レティシアが異論を唱える事は許されなかった。オゼが部下達に命じて、レティシアを虐げ始めたからだ。
逃げる間もなく周囲を囲まれ、全員が刃を引き抜き、レティシアが近付くと面白おかしく肌を切り刻んだ。全身の至る場所から血が吹き出し、だが逃げなければ殺されるから、レティシアは必死で刃の届かぬ場所へ逃げた。だがそこには別の者がいて、違う場所を斬られてしまう。
全身が真っ赤に染まり、激痛が走る。嬲られながら、だがレティシアは必死で逃げ道を探した。そうして、意を決して、油断している神の一人の元に駆けた。無論肩を斬り捨てられたが、そのままレティシアは駆け抜けた。
眼前に見えた森の中をただ只管走った。上手くいけば撒けるかもしれないと思った。
全身を冷たい雨が打ち、痛みで何度も転んだ。泥だらけになりながらも、ただ死にたくないという思いで走った。だが神々は逃げたレティシアに慌てるどころか、愉悦の声で、追ってくる。
圧倒的な力を持つ彼らにとって、人間の脚力などたかが知れている。枝を足場に軽々と木々の間を飛び越えながら、レティシアに向けて無数の刃を降らせた。
「ほらほら、どうした。逃げねば死ぬぞ!?」
「人間狩りというのも、一興だな!」
頭上から降って来る悪意は凄まじいもので、だがレティシアはたた駆けるしかなかった。追い立てられて、走りながらも身体に当たった刃は新たな傷を産み、とうとう足が縺れて泥だらけのぬかるみの中に倒れた。
瞬時に五人の神々はレティシアの前に降り立つと、一人がつまらなそうにレティシアの頭を蹴りあげた。激痛と共に鮮血が眼前に広がるが、それ以上に背中を踏みつけた足の力に、悲鳴を上げた。
「・・・・っぁア・・・・!」
べきっと鈍い音が響き、レティシアは己の骨が砕けた音を聞いた。容赦ない一撃を落としたのはオゼだった。
「遊びは終わりだ。死ぬ前に答えろ。お前の母親が創り上げた術式は一体どのようなものだ。」
「・・・・・・っ?」
意味が分からなかった。だが、激痛が走るレティシアの背を、さらにぐっと力を込めて踏みつけ、オゼは冷然と言った。
「ゼウスは、お前の母の元から戻って来た後、神力を著しく落としている。あの女の何かしらの術が掛けられているのは間違いない。教えろ、その術を!」
吼えたオゼのギラギラとした眼に、ゼウスの配下だと教わったこの男の目論見が、レティシアには分かった。主であるゼウスを裏切るつもりだろう。だが、父を嫌悪していたレティシアは、それに対しては何とも思わなかった。それに何より、母からゼウスを倒すような術式など、教わっていなかった。
母は攻撃的な術式を得意としていたが、レティシアには積極的に防御の術式を教えていた。自分の身を護れるようにと、母は常々言っていたからだ。
「・・・知らない・・・。」
レティシアは擦れた声で答えた。嘘でも何でも無かった。知らないものは知らないのだ。オゼが足を持ち上げ、再び踏みつけて、鈍い音をもう一度聞いたが、レティシアは朦朧としながらその音を聞いた。
「嘘を付け。」
「・・・・知らない。」
繰り返すレティシアに痺れを切らしたオゼは、不意に足を外すと、レティシアの前に屈んだ。そうして、レティシアの背に手を当てると、強引に純白の翼を引き出した。
「・・・・っあ・・・・!?」
無造作に翼の根元を掴まれて、ぎりぎりと引き上げられる。身体が軽く浮き、背が悲鳴を上げる。
「役立たずの小娘め。神の証など、貴様には不要だ。」
オゼは唸るように言うと、レティシアの翼を根元からぼきりと折った。絶叫するレティシアの手足を、他の五人がそれぞれ足で踏みつけて、嘲った。
「光栄に思え、オゼ様に奪われるのだ。」
「もっと美しい娘であれば、可愛がってやったのだがなあ。」
「うへ、俺はこんな泥だらけの血塗れの女は御免だね。」
誰一人として、レティシアを助けようとする者などいない。オゼがわざわざ翼を折り、苦痛を長引かせる方法を取っている事を、誰も咎めない。
「やめ・・・て・・・もう、止め・・・て。」
レティシアはあまりの激痛に懇願した。だが、何もかも無駄だった。オゼが無造作に翼を合わせて掴むと、容赦なく引きちぎった。
全身を裂かれたような痛みが走り、レティシアはいっそ気を喪いたかった。だがそれすら神々は許さなかった。
「忌々しい人間の子め。お前のような者に神の証など不釣り合いだ。」
そう冷笑して、オゼは短く詠唱すると、彼の手に現れたのは、大きな焼き鏝だった。雨に濡れて、蒸発した熱がじゅうじゅうと音を立てる。
その異音にレティシアは省みて、何をされるか理解し、泣いた。
「嫌・・・嫌!・・・わたしは、何も知らない・・・何も・・・・っ!」
止めてと叫ぶ声は、だが背中に押し当てられた激痛に、堪え切れず上げた自分の絶叫が、かき消した。
奴隷の証だとせせら笑う声とともに焼き鏝が離れても、レティシアはぴくりとも動けなかった。泥だらけの土が口に入ってきたが、それすら何も感じられなかった。大粒の涙も雨で流れた。
泥だまりに沈んだレティシアに、オゼは冷ややかに一瞥し、
「フン。つまらん、死んだか?」
「まだ息はあるようですが、まあ時間の問題でしょうね。殺しますか?」
「いや、放っておけ。長くは持つまい。のたうち苦しみながら、死ぬのが似合いだ。獣に食われるが早いか。」
オゼはレティシアに温情を掛けた訳ではない。
こんな大雨の中、森の奥深くに来るものはいないはずだった。間もなく日暮れであったし、暗くなれば泥まみれになっている女に気付ける者などいようはずがない。
与えた苦痛に苦しみ抜いて死ねと吐き捨てて、オゼは部下達を引き連れて去った。
それが、大いなる過ちであったことを、オゼはその時も、今もまだ知らない。
レティシアの身体はオゼの想像以上に強靭だった。彼女が神としての力をゼウスに吸収され、神界に来た時にはすでに非力であったことも、侮ったことへと繋がった。
オゼ達が去っても、レティシアはあまりの痛みに意識を朦朧とさせていた。ただ血の匂いに、獣が寄って来る気配がして、純粋な恐怖が意識を取り戻させる。
震える手で焼けただれた自分の背に手を回し、残された力を振り絞って、詠唱を始めた。
翼はもう無い。いずれ生え変わる事は知っていたが、焼かれた背の痛みがあまりに耐え難く、そこから逃れたい一心だった。
そうして味わった苦痛ごと、翼を封印した。再び翼を生やす時には、とうに背の傷は治っているかもしれないが、苦痛の記憶は拭えない。それでも良かった。
もう翼など要らない。自分を虐げてくる、身勝手な神々など、大嫌いだ。自分は人間として生きる。
母は信じた道を行けと言った。でも、選択するまでもなかった。自分は人として生き、人として死ぬのだ。
レティシアは、そう胸に誓った。
それを、後になって、今度こそ選択を迫られることになるとは思ってもいなかった。
でも、その時、レティシアは自ら道を選ぶことが出来た。
大丈夫。もう、怖くない。
支えてくれる人がいる。愛してくれる人がいる。一緒に歩いてくれる男がいる。
彼が、神族だろうと、人であろうと、構わない。
ただ一瞬でも長く、クラウスと生きたいから、自分は神として生きる。
クラウスは、自分の為に、神を辞めてくれた。
それならば、今度は私が、彼の為に、人を辞めよう。
彼は、神族だろうと、人であろうと、愛してくれるだろうから。




