ゼウスの懺悔。
マリアが神術を発動させて三人を移した場所は、レティシアがマリアに連れて行かれた館だった。
「一気に飛ぶには限界ね。どうせ私の神気を辿るでしょうから、もっと遠くに行った方が良いんでしょうけれど・・・怪我を見せて頂戴。」
マリアの言葉に、立ち上がったヴァーゼは手を振った。
「私は良い。その内治る。」
だらりと下がったままの傷だらけの腕を見やり、マリアはもの言いたげな目で彼を見たが、
「・・・・・・。そうね。」
と直ぐに納得した。幾ら神としての力が下級神並みに落ちているとはいえ、曲がりなりにも神族である。時間が解決する。
だが、クラウスは別だ。敵を前にしても常に強気であったマリアの表情が、初めて曇った。
あの場から逃れ、一先ずの無事が分かると同時に、クラウスの身体はその場に崩れ落ちた。レティシアが咄嗟に支えたが、最早立つ力は無くなっていた。
マリアには、最早息子に戦う力など無い事に気付いていた。オゼの配下も全員上級神であり、それを五人も同時に相手にしてた息子の身体がとうに限界を迎えていたはずだ。そこにきて皇太子の刃が、著しく肉体を傷つけてもいる。
それでも、あの場で一歩たりともクラウスは退かなかった。本気で、オゼを含めた全員を抹殺する気でいたのだ。最愛の恋人を、傷つけるであろう存在を、クラウスは許さない。
たとえそれで自分の命を削ったとしても、彼女が生きる道を選ぶ。彼女を護る道を選ぶ。
人間となっても変わらぬ意思を貫き続ける息子が、マリアには誇らしく、そして哀しかった。
「レティシア、手当させて頂戴ね。」
「・・はい・・・お願いします。」
小刻みに震えているレティシアの顔色は蒼白で、だが彼女の膝を枕に横たわっているクラウスは、マリアが神術を唱えて止血し、痛み止めを施す間も、彼女をずっと見つめていた。
「大丈夫だ・・・泣くな。」
血で汚れていない手で、レティシアの頬をくすぐるクラウスの手は優しい。柔らかな彼女の手が、その手を握り返すと、笑みを浮かべた。
だがマリアの目は厳しい。思った以上の深手であり、出血が多すぎる。一部臓腑にも達していた。クラウスの顔色はひどく悪く、目に力はなかった。
マリアにはもう分かってしまう。分かりたくなくても、人の身体の脆弱さを知るマリアは、もうどれ程手を尽くしても、息子が助からない事が、理解できてしまう。ただ、レティシアを見返すクラウスの眼差しは、彼女の哀しみを拭った。神族であればあり得ない程の短い人生であっても、息子は悔いのない生き方をしたに違いない。
何故息子が神族を捨てる真似をしたのか、マリアは知らない。レティシアを《鍵》にしたくらいで、その理由についてもクラウスが頑なに口を閉ざしていたからだ。だが、更に問い詰めようともしなかったのは、息子の強い意志を感じたからでもある。
だから、彼女は溢れそうになる涙を、懸命に堪えた。
その様子を、ヴァーゼは黙って見返していたが、マリアが手当てを終えるのを見ると、彼らの元に座った。
「・・・・。クラウス、礼を言う。」
「うるせえ。お前の為じゃない」
クラウスは相変わらず口の悪い返事をしながら、苦笑を浮かべた。だが、レティシアは強張った顔で、ヴァーゼを見返し、冷ややかに言った。
「いい加減、その変装を解いたらどうですか。」
「・・・・・そうだな。」
そう言って短い詠唱の後、ヴァーゼの容貌は全て変わっていた。海を思わせるような群青の短い短髪に、切れ長の空色の瞳をした美丈夫であった。レティシアはこの男を知っていたし、マリアもクラウスも驚かなかった。
マリアが呆れ返ったような顔で、
「ゼウス、あなた中々表に出て来ないと思ったら、人間の城に居ついていたの?何やってるのよ。」
「・・・・色々と事情がある。」
ゼウスの歯切れは悪く、凍てつくようなレティシアの視線を浴びて一層泳いだ。
するとクラウスが低く笑って、
「レティシア、思う存分詰ってやれ。殺してほしいなら、俺がやってやるぞ。」
「あら、駄目よ。この男はわたくしが潰して、嬲って、殺してやると決めているのよ?」
マリアも真顔である。殺気立つ親子に、ゼウスは失笑したが、黙り込んでいるレティシアを静かに見返した。
「お前が私を嫌悪しているのは知っているし、顔も見たくないと思っているのも分かっている。」
「口も利きたくない。・・・・きいてるな、私は。」
苦虫を噛み潰した顔をしたレティシアに、ゼウスは静かに見つめていた。
「綺麗になったな。」
「煩い。」
「母さんにそっくりだ。」
「お前が、母様の事を言うな!」
レティシアは泣きそうになりながら、叫んだ。二度と関わらないと決めていた。縁も切ったつもりだった。でも、駄目だった。胸に光る母の形見が、哀しんでいるように思えてならなかったから。
この男を想って、母が泣いているのを、見てしまっていたから。
「母様は、気丈な人だった。たった一人で、一生懸命わたしを育ててくれたんだ!でも、時々お前の名を呼びながら寂しがって泣いていた!」
「・・・・・・・・・・・・」
「お前がわたしや母様を捨てたのは、お前がどうしようもない唐変木で、女好きなんだから、仕方がない。でも、何時までも母様を泣かせていたお前なんて、やっぱり嫌いだ!わたしはお前の娘なんかじゃ、断じてない!」
大粒の涙をはらはらと零して、思いのたけを叫んだレティシアは、だがゼウスが微笑みを浮かべさえして居たのに、拍子抜けした。ここまで罵られて、普通少しは怒るところではないだろうか。いや、この男に怒る権利などないのだが。
「・・・やっと、話してくれたな。」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「神界にいた一年の間、お前は私に一言も口を利いてくれなかった。お前はこんなに素直だったかな。」
ぷいと顔を背けたレティシアに、クラウスは軽くゼウスを睨みつけて、
「レティシアは元々素直で可愛い女だ・・・全部てめえの所為だろうが。」
「あら、駄目よ、クラウス。本当の事言っちゃ。」
この親子はゼウスを詰る時大変相性が良い。
ゼウスは小さくため息を付き、
「・・・そうだな。私はお前達を護ってやれなかった。」
レティシアはもうこの男と言葉を交わすまいと思うのに、気になる言葉を耳にしてつい返してしまった。
「おかしな事を言う。おまえが勝手に出て行っただけだろう。」
「・・・・・母さんがそう言ったのか?」
「・・・・・・。違う。お前は神界に帰ったと言っていた。生きている内に、会う事は無いだろうって。実際そうなった。お前は母さんの死に際になって姿を見せたじゃないか。」
詰るレティシアの視線を、ゼウスは真っ向から受け止めて、そして哀し気に微笑んだ。
「私は彼女の死に際になって、ようやくお前達の居場所が見つけられた。」
「・・・・・・なに?」
「彼女は・・・とても優れた神術士だった。私は神界で敵が多い者でな、人との間に子供が産まれたとなれば、質とされるか、嬲られて殺されるかどちらかだ。だから、彼女は神族の《眼》から逃れる、稀有な術式を探し出し、お前と、彼女自身に掛けていた。それをされると、私でも探せぬ。」
嘘だと、レティシアは言えなかった。そうした術があることを、レティシアはもう知っていたし、実際目の当たりにしていたのだ。ただ、自分に掛けられていたとは思っていたが、母自身も己に掛けていたとは思わなかった。その理由がレティシアには分からない。
「きっとお前が・・・お前が神界などに帰ったから、縁を切るつもりだったんだ。」
「・・・・そうだろうな。死ぬまで会う事は無いだろうというのが、彼女の言伝だった。」
「言伝?」
怪訝そうに尋ねたレティシアに、ゼウスは先を続けるのを迷った様子だったが、マリアが心底嫌そうにしながらも口を開いた。
「・・・・そう言う事ね、理解したわ。レティシア、わたくしはこの男の肩を持つ気は全くない。むしろ、唐変木とは早々に縁を切って、我が家の一員になりなさいと思うのだけれど、貴女がこれ以上傷つくのは見ていられないから、言っておくわ。」
未来の娘に嫌われたくないマリアは随分長い前置きの後、
「二十年前、恐らく丁度貴女が産まれて間もない頃だと思うのだけれど、ゼウスは瀕死で意識の無い状態で、彼の部下達に連れられて神界に戻って来た。私が治療に呼ばれたから、間違いないわ。彼はそれ以降、神界の領内から出られなかった。神力があまりに落ちていて、下級神と同等にまでなっていたからよ。そして、それは今も変わらない。ゼウスを狙う神族に知られれば、それこそ大惨事だったでしょうね。」
愕然としたレティシアは、思わずマリアを見返した。
「どうしてですか・・・・?」
「未だに分からないわ。ゼウスは何も言わないし、彼に忠実な配下達も彼を守りこそしても、口を閉ざした。でも、彼の力が落ちているのは、その時の傷の所為じゃない。その首環の所為よ。」
レティシアは蒼白になって、ゼウスを見つめ、そして彼の首に下がっている環を凝視してしまった。それは、見覚えのない字がびっしりと刻まれていたが、何かは分かってしまう。クラウスの腕輪と同じ品だ。
「力を・・・封印されているのか?」
「・・・・そうなるな。だが、これは私自身が封じたものだ。害意を受けた訳ではない。」
「でも・・・封印は別の者が《鍵》をしなければならないと聞いた。」
ゼウスは少し驚いたように目を見張ったが、レティシアを片腕に抱いているクラウスの腕輪を見やり、微笑を零した。
「その通りだ。」
「・・・・母様か・・・?」
問いかけはしたが、レティシアはもう確信していた。震える手で、首から下がるペンダントに触れる。
母は、自分に答えを残していっていたのだ。
読めもしない形見には、神の《眼》を逃れる術式を掛け、自分の成長の記録をゼウスに遺し、そして、死に際に必死で残したのは、ゼウスの神術を壊す術だった。
ゼウスの首環は、彼自身の術式によるものであり、母が死んでしまったら、解く術を喪う。生きたモノに直接掛ける神術よりも、無機質なものに掛けられた術式は、解呪が遅い。自分が死んでも、尚解呪が進まないことを母はそれを危惧したのだ。
「私はあの時、死んでもいいと思ったのだがな、神界で生き残る術があるなら帰れと、蹴られた。」
「・・・・・・・・。訳が分からない。母様がお前を生かそうとしていたなら、何故力を落とすような封印を施すのに協力したんだ。」
饒舌に語っていたかと思えば、ゼウスは急に押し黙った。先ほどから段々口数が減っている時点で、レティシアも薄々感じている。
そこに、静かに聞いていたクラウスが徐に口を開いた。
「レティシア・・・俺はお前を泣かせてばかりのこの男など、さっさと死ねばいいと思うが、お前が邪推して悩むよりは良いだろうと思うから言っておく。」
親子そろって前置きが長い。思わず失笑してしまったレティシアに、クラウスも仄かに笑って、愛しい恋人の頬を撫ぜた。
「恐らく、お前を護る為だ。」
「え・・・・・・。」
「俺はな、ゼウスの娘を探せと言われて、すぐに見つかると思った・・・・何しろ、この男は《四柱》であるし、秀逸な神力の持ち主だ。その娘ともなれば、莫大な力を持つ可能性もある。神の眼だったら、簡単なはずだった。だが、お前は人間同然で、しかも極めて不安定だった。」
「それは、私が自分で翼を封印していたから・・・。」
「いや、その程度で済むはずがない・・・・・。神の子を、人が産むのは極めて難しい事だ。神と人の半身である為に、神の力が制御しきれずに・・・・・大抵の子供は産まれて直ぐに死ぬ。」
「・・・そんな・・・・事が・・・・。」
「救うには・・・・赤子の身では受け止めきれない力を・・・吸収してやるしかない。」
話をする中で、クラウスの呼吸が荒くなっているのに気づいたマリアが言葉を継いだ。
「そして、戻ってしまわないように、封印を施すの。でもこれは親子であっても、違う個の力を吸収するのだから、とても危険な事よ。力は元の持ち主に戻りたがる質があるし、あの傷と今の状況を見ると、彼でも抑えるのがやっとだったのでしょうね。」
ゼウスは、レティシアが産まれた時、彼女が短命に終わる宿命だと気付いた。必ずしも強い神の子が、同等の力を得る訳ではないが、レティシアはそうではなかった。ゼウスの血を色濃く引き、至高神の子の証である銀髪で産まれた。
子を護る為にゼウスはレティシアの神力の大半を吸収し、妻と共に封印した。瀕死になったゼウスは、神々の格好の餌食である。幼い子を抱え、夫と子を護らなければならなくなったレティシアの母親は、別れを選択した。
人間であった彼女が、ゼウスを狙う神々に対抗できる術は少ないからだ。そうして、彼の部下を招き、神界に連れ戻させた。更に、神々から幼い娘を護る為、そして娘を育てる為、自らと娘自身に術を掛けて存在を消し続けた。ゼウスにも生涯会えない事を当然覚悟していたのだろう。
だからこそ、夫が見られなかった、レティシアの幼い頃の様子を事細かに書き残したのだ。
呆然自失としたレティシアに、ゼウスは口を閉ざすのを諦め、静かに告げた。
「・・・・彼女は眼晦ましの術が使えた。それを私自身にも掛けてくれと願った。だが、彼女は頷かなかった。」
「・・・・・・・・・・・・」
「自分が死んだら、誰が娘を護るのかと、叱られた。」
レティシアは目の前が真っ暗になった。
「わたしの・・・所為だ・・・・。」
ゼウスが二十年もの間、息を潜めなければならなかったのは、自分が産まれたせいだ。
母が愛する人と人生を共に出来なかったのは、自分が居たせいだ。
そして、今の状況を引き起こしているのも、元をただせば自分が王城なんかに行ったからだ。クラウスが瀕死の重傷であるのも、自分を庇っての事だ。
そして、クラウスが不覚を取ったのは、彼自身の力を、自分が封じてしまったからだ。
擦れた笑みが、乾いた口から漏れた。
ゼウスが罪悪の根源かと思っていた自分は、何と愚かであったのだろう。自分の存在が、神々を悉く堕としているではないか。
「レティシア」
優しく名を呼ぶクラウスの声が、レティシアにはただ辛かった。