マリア様は孫が欲しい。
七日目の朝、マリアは二人が滞在している館にやって来た。
一週間前の息子の気配からして、レティシアを抱くまで帰さないだろうという事は容易に推察が出来た。それは大変結構な事だ。早く孫娘を抱きたいマリアは、勿論息子を止める気など更々なかった。その為の場所も提供したが、何故か早々に場所を変えられた理由は分からなかったが、単に気に入らなかったのだろう程度で、それは構わなかった。
どんな手段を用いても良いから、一刻も早く、可愛いレティシアを、自分の血族に引き込んで欲しい。そうしたら、マリアは思う存分、レティシアを可愛がれる。
ただ、彼女も人の身体だ。寝食は必要である。あの息子ならば、たとえ人間になったとしても碌に寝なくても平気かもしれないが、華奢で細身のレティシアをこれ以上痩せさせてはいけない。息子の相手をしているなら、猶更だ。何しろ、クラウスは神界で戯れに女達と遊んでいたが、男を骨抜きにすると評判の美女達を、一晩で腰砕けにした猛者である。彼女達は今でも息子を熱心に誘っているらしいが、あまりしつこく言い寄られるのが嫌らしく、誰も彼も短い付き合いで終わっている。
そんなクラウスが、惚れ込んだ娘を抱いたら、それこそ一大事だ。
マリアは、息子の体調よりも、レティシアの体調の方がよっぽど心配だった。だから、即座に二人の行方を追って見つけ出すと、神界の自分の宮から口の堅い、信用のおける部下の官女を朝昼晩と派遣して、食事等の生活に必要な品を運ばせた。
クラウスは人間になっても変わらず気配に敏く、離宮にやってきた官女たちにすぐに気づいた。初めは邪魔だと言わんばかりであったらしいが、
「彼女は人間です。体力莫迦の貴方とは違うのです。食事は摂らせなさい」
というマリアの言伝を聞くと、それもそうかと思い直したらしい。
ただ、レティシアの元を離れるのは嫌だったらしく、全部別室に置いておけと言った。レティシアを休ませていたり、寝かせている間に取りに行っている様子だった。
マリアはレティシアの様子を知りたかったが、官女たちが詮索しようものなら、一睨みで黙らされたらしい。荷駄を置くついでに、少し官女が様子を探ろうものなら、凄まじい殺気が飛んできて、官女たちは蒼白になって帰って来て、ぶるぶると震えながら、
「クラウス様がお怒りの御様子です、どうかこれ以上はご勘弁ください。消されてしまいます」
と泣いて縋って来たので、どうなっているかもマリアは一向に分からない。
焦れに焦れて、とうとう自分の足でやって来た。
さりとて一週間である。流石にあの息子も少しは冷静になっているはずだと、マリアは思い込んだ。
まさかと思うが、と寝室に行ってみたが、二人の姿は無かった。寝乱れて、明らかに情交の跡を残していたが、赤面する程マリアは初心ではない。むしろ大歓迎である。
とはいえ、一体どこに行ったのか。考える間も無いことだった。息子の不機嫌そうな気配が伝わって来たからだ。官女たちは怯えてひれ伏すほどのものだが、マリアには全く効果は無い。むしろ道案内になるとばかりに館の中を進んで、そうして庭先の木陰に居た二人に歩み寄った。
可愛い義理の娘になるはずのレティシアは、だが昼日中だというのに、すやすやと静かな寝息を立てて眠っていた。マリアが厳選して運ばせたドレスの一つを身に着けていてくれたことは喜ばしい事だったが、そのドレスの彼方此方から覗く息子のキスの跡が、凄まじい独占欲を感じさせる。
華奢な身体に力は無く、彼女は外だと言うのに裸足で汚れも無い。クラウスがここまで抱き上げて来たのは明らかで、現に今も長椅子に座ったクラウスに横抱きにされている。
「これはどういう事かしら。」
マリアが目を怒らせると、クラウスも一切怯むことなく、むしろ邪魔者が来たとばかりに睨み返し、
「レティシアが久しぶりに外に出たいと強請ったから、連れて来ただけだ。」
「では待望の外に出たのに、何故彼女は寝てるの。」
「さっき庭先で可愛がったからだろ。」
「あなた、獣みたいな事するんじゃないわよ!」
「レティシアが俺を誘うからだ。」
彼女はきっと嬉しかったのだ。久々に吸う空気。心地よい風。ぽかぽかの長閑な太陽。
だから、もっとここに居たいと、クラウスに言ったのかもしれない。少し自分の足で歩きたい、かもしれない。多少の対クラウスの危機管理能力が身について来ていれば、そろそろ館を出ようとは言わないはずだ。彼を刺激するような事を言わなかったとしたら、ただ嬉しい余り顔を綻ばせて、クラウスの劣情を誘ったとも考えられる。
ただ、現実として、レティシアは想像以上に疲れていて、息子の手管に堕ちていることは明らかだった。
「・・・まさかとは思うけれど、この一週間、ずっとな訳ないでしょうね?」
睨みつけると、クラウスは心外とばかりに顔を顰めた。
「いいや。母上も煩く言ってきただろう」
「・・・・・・・・・・・・」
「失神する事も多かったが、限界が来たようなら寝かせたし、食事は摂らせたぞ」
「・・・貴方、女は一度で十分じゃなかったの?」
一日も早く孫の顔が見たいマリアは、何時まで経っても伴侶は愚か特定の恋人すら作らない息子を心配して、息子と関係を持った女神たちに話を聞いたことがある。息子の好みを探って宛がう為だ。恋愛に奔放な神族であり、神界の女主人とまで謳われるマリアを崇拝する女神たちは、彼女が母親という事もあって、教えてくれた。
彼女達は口を揃えて嘆いて言った。自分では、クラウス様のお相手を務めきれなかった、と。
数多の男神達を虜にしてきたはずの百戦錬磨の女神でさえも、同じことを言う始末である。
機微に聡いクラウスの行為は巧みで、女神達をたちまち虜にしたが、誰一人としてクラウスを夢中にさせることは出来ず、一夜だけで飽きたとばかりに別れるのだと言う。実際、クラウスが同じ相手に再び触れることはなかった。これはマリアにとっては由々しき事態だ。ただでさえ生殖能力の低い神族である。孫を抱くなど夢のまた夢だ。無理やりにでも宛がわなければと、ゼウスの娘に白羽の矢を立ててみたのだが、今になってマリアは頭痛を覚えていた。
あの醒めた、冷徹な息子が、ここまで愛情深くなったのは、母親として喜ぶべき所だろう。だが、あまりに溺愛が過ぎて、レティシアが壊れないか、マリアは真剣に心配だった。
「・・・・あんたが今神族でなくて良かったわ。」
「うるせえ。」
顔を顰めたクラウスが、レティシアを撫ぜる手には今なお封印の腕輪が嵌まっている。マリアはそれを見て、小さくため息を付いた。
「貴方がこの子の為に、このまま人間になると言うのなら、それも良いと思うわ。あの人もそう言っている。強いられたわけではなく、貴方が決めた道ですもの。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「でもね、一つ忠告させて。レティシアは、狙われてる。」
レティシアに柔らかな視線を向けていたクラウスの目が一気に鋭い物となって、母親を見返した。
「どういう事だ。」
「酒場で彼女が出て行ってしまった時、私は貴方の腕輪の気配を覚えたから、彼女を追うのは簡単だったわ。貴方は人の身体だからそう易々とは行かなかったでしょうけれど、私はすぐに彼女に追い付いた。だから気付いたのよ。あの子の後を付けていた変な連中に。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「だから、まず安全第一だと思って、わたくしの館に連れて行ったのよ。機転が利くでしょう?」
自慢気な母親の腹積もりを、勿論クラウスは見透かしている。
「嘘をつけ。母上なら、不審者の十人や二十人、瞬殺したはずだ。俺に邪魔されない内に、レティシアを苛めようとしただけだろうが。」
「・・・・・・。あなた、子供の癖に可愛くないわ。本当にわたくしの息子かしら。」
「奇遇だな。俺も時々、疑いたくなる。俺は母上みたいに短気でも、獰猛でもない。」
睨み合う親子だが、こういう言い争いが不毛であることは常なので、マリアは直ぐに切り替えた。
「連中は部下に追わせたわ。突然わたくしがレティシアを連れ去って、泡を喰っていたみたいだけど、それどころじゃなくなったわねえ。」
マリアは優美な笑みを浮かべる。マリア直下の配下は、影のように彼女に付き従っているが、主の性格がそのまま移ってしまったのか、神界中で恐れられる者達だ。何者かがレティシアを付け回していたと聞いた時点で、殺意を抱いたクラウスは、全く同情しない。
「殺したんだろうな。」
「そうしても良かったのよ。わたくしのレティシアを付け回すなんて、人間だろうと神族だろうと、殺して炭にして消し飛べばいいのだけれど。」
「レティシアは、俺の、女だ!」
「あら。わたくしの娘にもなるのよ?初めての孫も女の子がいいわぁ。うふふふ、楽しみ。」
この話も平行線を辿るであろうことはクラウスも推察が付く。苛々としながらも、切り替えなければ日が暮れる。
「何故殺さなかった。」
「彼らに殺意が無かったと言うのが一つかしらね。レティシアの様子をずっと伺ってはいたけど、襲ってくる様子は無かった。まあ、そんな敵意があれば、貴方が勘付いているはずだけど。」
「・・・・・・・・。確かに、俺は大抵レティシアの傍に居たが、言い寄って来る雄どもはうざる程居たが、害意は感じなかった。」
「貴方に勘付かれたら困るからかもしれないわね。」
「なに?」
「神界で貴方を知らない神族など居ないわ。だから、貴方が彼女の傍に居る時に、不審な行動は極力取らないようにしていたのではなくて?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「レティシアを付け回していたのは衛士隊の隊員達よ。でも、わたくしの部下に《質問》されても、彼らは何も覚えていなかった。むしろ何故自分達が夜道に居るかさえ分かっていなかった。意味が分かるかしら?」
マリアの部下達は優秀であり、容赦が無い。相手が人間であれば、精神に直接働きかけ、意思に関係なく情報を引き出すことも難なく出来たはずだ。その彼らが空振りに終わったのだと言う。
「その連中は、操られていただけで、監視の《眼》に使われていただけか。」
「そういう事ね。しかも、相手は彼らを操った痕跡を、殆ど残していなかった。それもすぐに消えてしまったし、あれから探るのは無理ね。念の為、その後全隊員を探らせたけど、術が掛けられた跡が残っていた者は何人か居たけれど、既に全員解かれていた。私たちに末端が捕まったと気付いた時点で即座に他の《眼》も消したのね。周到な事だわ。あんな芸当が、人間に出来るはずがない。相手は神族よ、クラウス。しかもかなりの手練れ。」
「・・・・成る程ね。随分俺を警戒しているようだな。」
レティシアを常日頃《監視》していた者は、クラウスが彼女の傍に居るようになってから、一時その手を緩めたのだ。僅かな力でも、気配に敏いクラウスは気づく。だから、クラウスが傍に居ない頃を見計らって、再び《監視》の目を強めた。
「まあ、見つかりたくは無いでしょうねぇ。貴方、本当にあの人に似て容赦が無いから。」
「楽に死なせてやるつもりはねえよ。今度少しでも痕跡を見せたら、消える前に辿って行って始末してやる。」
唸るように言ったクラウスに、マリアはだが表情を曇らせた。
「相手次第だとは思うけれど・・・貴方は人間の身体なのよ。自覚なさいな。私達に任せてもらっても構わないのだけれど。」
「俺が神族だろうが、人間だろうが、レティシアを傷つける奴がいるなら、殺すまでだ。」
既に殺気立ち、物騒な空気を放っている息子に、マリアは小さくため息を付いて、説得を諦めた。
「後は直接この子に心当たりがないか、聞いてみるしかないわね。」
「狙われていると、レティシアを怯えさせろと?」
冷ややかに返したクラウスに、マリアは何とも言えない顔をした。
確かに、マリアとてレティシアを怯えさせるのは本意ではない。自分や夫ならば、クラウスが本来の神としての力を持っていれば、彼女に一切思い悩ませることなく、不審者ごとき抹殺してやれる事だって不可能ではない。
だが、マリアはレティシアが神族に翼を捥がれた事を知っている。彼女が見たのはレティシアの記憶の一端であり、気配は感じ取れない。彼女を襲った者の姿も見えなかった。だが、神の証である翼は人間には手折れないもので、彼女を虐げたのは神族だ。そして、今も彼女に、神族の何者かが監視を付けている。
余程彼らに執着される程の何かを、彼女は秘めている。幾ら手先を始末した所で、根本が解決しなければ、いつまでも彼女は狙われてしまうだろう。
ただ、それを息子に言ってやる訳にもいかない。レティシアとの約束がある。
それに溺愛しているレティシアが、自らの手ではなく、手酷い暴力を受けながら、無残に翼を捥がれたなどと知ったら、息子がどれ程激怒するか、想像に容易い。
そう思うと、やっぱり息子が今人間で良かったのかもしれない。国一つ滅ぼす程度で済めば安いものだ。もしも神族であったら、人界一つ丸々滅ぼしかねない。神界でも名だたる、大変危険な神である息子を持った、自称・慈愛深き女神の苦悩は深い。ただでさえ、
「何であの危険極まりない御方を地上に降ろしたのですか。人界に迷惑ですよ。」
と部下達から一斉に言われ続けていることもある。
「それはそうなのだけれど・・・・。」
ぎらりと漆黒の瞳が光り、マリアは目を泳がせた。この息子は勘が鋭い。そしてマリアとレティシアの間で、彼の知らない話が有った事を、忘れている訳ではなかった。