マリアの正体。
翌日の昼、レティシアはクラウスに抱き上げられて、彼の拠点だと言う館を一緒に見て回っていた。自らの足で歩いて回れないのは、当然ながら一切悪びれもせずに彼女を抱き上げている男の仕業である。
館の中はどこも落ち着いた雰囲気であり、窓から見える小さな庭の植栽も風情がある。その周りは木々で覆われ、どうやらここは森の中らしい。
「マリア様の館も凄かったが、ここも豪華な所だな・・・。」
「ただの拠点の一つだぞ。あの女の館も避暑にしか使わないから、一番規模が小さい所だ。」
「ち、小さかったか・・・?」
寝室しか見ていないから何とも言えないが、寝室だけでもあの広さである。とても他の部屋が狭いとは思えず、頷けない話であるが、クラウスはのんびりと言った。
「詫びにお前にやるとか言っていたが・・・安心しろ。」
「なにを。」
「あの程度で詫びにならねえ。宮殿一つくらい寄越せと、あのクソ女に言っておく。」
レティシアは目を点にした。いや、待て。何かがおかしい。不満なのではない。そもそも幾ら彼女が許したとはいえ、クラウスと深い仲になってしまった上に、そんな事を言ったら甘え過ぎどころではない。
「ま、待て待て。色々おかしい。大体、マリア様は自由に使って良いと言って下さってはいたが・・・。」
「だから、お前のモノだよ。あの女の口調からして間違いない。」
レティシアはずきりと胸が痛んだ。言葉の裏まで読み解けるほど、クラウスと彼女の仲は親密なのだと思うと、やはり切なくなる。
神族は、恋多き種族だ。だからといって、自分の父親の好色を認める訳にはいかないが、それでも気質的にあるのだとしたら、クラウスが恋人がいる身でありながら、自分に触れるのも神族では自然な事だろう。
マリアも自分と彼を寝室に二人きりにして去っていった上、自由に使えと言ったのは、男女の仲になるであろうことも見越していただろう。
レティシアはクラウスに惹かれていた。好きだったから、身体も許した。その事に後悔は無いけれど、幾らなんでもこれ以上はマリアに甘え過ぎな気がした。
「・・・そろそろ、戻らないか?」
「なんでだよ。休暇は十日はあるし、俺は足りない。」
レティシアは真っ赤になった。平然と言い切るこの男の体力が、本当に信じられない。だが、そこに突っ込むと藪蛇になりそうで、あえて聞き流す。
「でも・・・マリア様に申し訳ない。マリア様は優しくて、寛大で、とても良い方だ。」
怒ると凄まじい迫力があったが、微笑みを浮かべ、優しくレティシアを撫ぜてくれた手は、温かい。美しい女神は、まるで慈母のようで、レティシアは何だか懐かしい気さえした。
だがクラウスは、柳眉を潜めて足を止め、顔を顰めた。
「お前、あの女にあまり懐くな。面倒臭い。」
「う、うん・・・悪かった」
それはそうだ。クラウスの恋人である彼女に、自分などが纏わりついたら、良い思いはしないに違いない。だが、明らかに落ち込んだレティシアに、クラウスの機嫌は急降下する。
「お前は俺の女だ。あの女のモノじゃない。自覚しろ。そうじゃないと、あの女はお前に何をするか分からないぞ。」
「え・・・な、何を?」
「考えたくも無い。腹が立つだけだ。何がうちの子だ、ふざけやがって・・・・本当に面倒な女だ。」
苛々した口調でクラウスは呟き、レティシアの頬にキスを落とす。
「でも、クラウス・・・マリア様は・・・・。」
不意にクラウスの目が据わった。軽く睨みつけられて、先ほどまでの上機嫌さが嘘のようだ。
「お前な、折角俺と二人きりになってるのに、あの女の事ばかり言うんじゃねえよ。」
「・・・・・・・・・・。」
レティシアは息を呑み、そして彼の怒りは当然だと思った。マリアという存在が居るのを知っていて、自分は彼と結ばれた。罪悪感から、何度も引き合いに出せば、クラウスとて不快になるに違いなかった。
泣きそうになったが、涙を堪えた。代わりに、焦ったようにクラウスが瞼の上にキスを落としてきた。
「・・・何だよ、どうしてお前がそんな顔をする?」
「クラウス、私は身を引くべきではないかと思う。」
「・・・・・・・・・・・。は?」
意味が分からないとばかりの彼に、レティシアは決死の思いだった。彼は恋人がいる身なのだ。この短くも濃密な一時はレティシアに幸福を与えたが、同じ時間を他の女性とも過ごすと思うと、自分勝手にも、切なくなってしまう。
「でも、まずはお前のこの腕輪を外・・・・っ痛いぞ!?」
いきなり強く抱きしめられて、剣呑な目で見据えられ、レティシアは何だか生きた心地がしない。
「・・・まだ俺から逃げる気か。どうやっても駄目なら・・・壊すしかねえよな・・・あまり俺の理性を当てにするなよ?」
「ま、ま、待とうか。落ち着こうか!」
漆黒の瞳が暗い色を放つというのに、どこか艶めかしい。胸を高鳴らせている場合ではないというのに、レティシアの頬は真っ赤になり、何故か体がかっと熱くなる。
「俺が・・・欲しいだろ?」
薄っすらと笑う彼は、明らかにレティシアの変調に気付いていた。
「・・・・っ・・・・。」
「よく覚えさせたからな・・・・俺以外のことを考えるな、お前は俺のモノだ。」
「・・・・でも・・・・クラウスは・・・・・。」
レティシアは唇を震わせた。罪悪感の奥に秘めた、切ない思いが涙と共に溢れる。
「私だけの・・・ものじゃない・・・。」
怪訝そうに、クラウスはレティシアを見返した。
「なに?」
「私は・・・クラウスが好きだけど、お前は、私だけのものじゃないから・・・一緒に居ると、きっと辛くなる。」
堪え切れずに涙が落ちたレティシアに、茫然としていたクラウスはようやく我に返ったように、慌てて彼女の涙を拭った。そして、心底心外とばかりに、顔を顰め、レティシアの顎を引き上げた。
「まさかと思うが、俺に別に女がいると思っているんじゃないだろうな。」
「え・・・・違う、のか?」
「居ねえよ。お前と出会う前に、遊んでいた女達はいたが、俺は特定の女とは付き合わない。お前が俺の初めての恋人だ。」
驚いて、レティシアの涙も止まったが、言わずにはいられなかった。
「マリア様は・・・奥さん・・・?」
「ああ、あんな女でも人妻だな。よく結婚したと、俺は今でも思う。」
途端にレティシアがまた泣き出しそうな顔をした。ここまで来ると、クラウスも勘が良いので、分かる。彼女が何を誤解しているのか、分かったからこそ、頭痛を覚えた。
彼はとても、かなり、大いに、心外だった。
「・・・・お前な。マリアは、俺の実の母親だ。」
「・・・・・・・・・・・。」
レティシアは目を見張り、そして愕然とした顔で彼を見返したが、凄まじい怒りの籠った目で睨みつけられ、背筋が何故か伸びる。
「早く結婚しろ、義理でも良いから娘が欲しい、孫を抱きたい、遊んでばかりいないで早く相手を見つけろ、何をしている、この愚図。俺が昔から散々言われ続けている事だ。」
「え、えと・・・。」
「どうせ今頃、神界で可愛い娘が出来たと、飛び上がって喜んでるぞ。うちの子だと言っていただろう。お前は完全に娘認定されている。子供は俺一人だし、母上は娘が欲しかったらしいからな。お前を着飾って、神界中に自慢しまくるだろうよ。しばらく、俺に返さないに決まってるから、あんまり懐くなと言ったんだ。あのはた迷惑な女に振り回されて、面倒臭いぞ。」
道理で、愛情深い側面を見せつつも、二人そろってお互い罵倒もしあう訳だ。仲は悪くないらしいのだが、母親の行き過ぎる面には、クラウスも閉口しているらしい。
孫が欲しいと願っている彼女にしてみれば、寝室にいたレティシアの元にクラウスがやって来たのを見て、止めるはずもない。この館を与えて、颯爽と立ち去っていたのは、事に及べ、逃がすなと、言わんばかりであったことを、クラウスも察知している。
無論、お言葉に甘えた訳だが。
レティシアはクラウスの腕の中で、すっかり気が抜けて涙も引っ込んだ。
「・・・ごめん。私・・・勘違いしていた、みた、い?」
語尾が片言になったのは、クラウスが冷然と笑って、自分を見下ろしていたからだ。誤解が解けたのは、彼も分かったが、レティシアがまたしても離れようとしたことを、許したわけではない。
「俺にもう一度可愛がられたいなら、そう言え。」
不敵に笑って、また転移術を発動させようとする彼に、レティシアは慌てた。身体が追い付かないのもそうだが、折角館を見て回っていたのに、惜しい。そう訴えると、ようやく彼は術式を唱えるのをやめたが、その行き先を変えたのは分かって、レティシアは頬を染める。
ただ、開いていた窓から、爽やかな風が火照った頬を撫ぜて、表情を緩めた。
「涼しくて・・・気持ち良いな。クラウスは、人間になったのに、神術が上手だな。転移術も簡単なんて、凄い事だぞ。」
「あんなもの、コツがわかれば、お前も出来る。知りたければ後で教えてやるよ。」
「お前はよくそう言ってくれるが・・・私の神術は時々不安定でなあ・・・。」
衛士隊の中では、神の血が濃い為か、随一の神術の使い手であるが、時々暴走しそうになるのに、レティシアは苦労していた。
「お前の封印が不十分だったせいだ。俺が完全に封じたから、問題なくなるはずだ。」
「ああ・・・成る程。」
爽やかな風とクラウスの温もりが心地よくて、何だか眠気に誘われる。
「おい。」
不満げな彼が、何を言わんとしているか分かって、レティシアはくすくすと笑った。
「だって、眠いんだ。クラウスは良く疲れないな・・・。」
「あの程度で疲れるか。」
不貞腐れながらも、抱き上げてくれる腕は優しくて、最早情欲を誘うものではないことを、レティシアは分かっていた。穏やかで、静かな一時に、レティシアの瞼は次第に重くなる。
不意に、クラウスが足を止めた。
「・・・なあ、レティシア。」
「うん・・・?」
「俺はな、初めてお前に出会った時、一目で惚れ込んだ。気付いていたか?」
眠りかけた頭を振り絞り、レティシアは記憶をたどった。
「いいや、全く。」
あっさりと言い切られ、彼は呻いた。
「素直で結構だ。・・・だと思ったよ。お前は皇太子の方ばかり見ていたからな。」
「・・・・当たり前だ。わたしは、衛士隊の隊員だぞ・・・・殿下を御守りする義務がある。」
そう答えたのが限界で、レティシアは眠りに落ちて行った。
腕の中で静かな寝息を立て始めた彼女に、クラウスは失笑し、彼女を起こさないようにゆっくりと歩いていった。
実のお母さんを糞婆と呼ぶのは止めましょう。