マリア様、怒る。
レティシアは夜道を一人歩いていたはずだった。腕に抱えていたのは、母の形見である書で、そこに神封じの術式の一端が書いてあったからだ。クラウスは神族であり、神術に詳しい。これを見せたら、開錠のやり方も分かるかもしれないと思うと、一刻も早く教えてあげたくて、宿舎を出た。
自分の所為で、クラウスは人間同然の身体になっている。自分は望んで神としての力を封じたし、人間として生きていくことに躊躇いは無い。このまま自然と年を重ねて、老いて死んでいくのだと思っていた。でも、クラウスは違う。彼は純粋な神だ。何千年何万年と生きると言われている神族である。クラウスの実年齢は知らないが、父と母が存命で伴侶も居ないという事は、まだ年もそう重ねていないはずだった。
そんな彼の未来を、自分の所為で潰してしまうのは嫌だ。
それだけのはずだった。
ただ、帰路に付くレティシアの胸の奥で疼き続けた。
見なければよかった。聞かなければよかった。
分かっていても、身体が動かなかった。
彼の周りには大勢の若い女性達が居て、彼の魅せられたように惚けていた。誰も彼も美しい女性ばかりだったが、彼の傍らに慣れたように座っている美しい人は、別格だった。
レティシアが酒場に入ろうとする直前に、入っていった人だった。すっと伸びた背筋は、後姿だけでも美しく、容貌が明かりの下に照らされると、その美貌は最早言葉にならないほどだった。
クラウスの美貌に一切遜色のない彼女の腕は、親し気に彼に絡みつき、触れていた。それをクラウス自身も慣れているのか、止める事も無かった。
二人の間の親密な仲など一目瞭然で、レティシアは何だか気が抜けた。
胸の奥は酷く痛くて苦しかったが、ああやっぱりと、思った。
クラウスのような美貌を持ち、力も相当に強いであろう神が、自分などに求愛するなんて、おかしいと思ったのだ。彼にはとっくに意中の女性がいる。自分に構うのは、親に言われて仕方なく、と言うだけなのだから当然だろう。
頭では理解しているのに、胸はぽっかりと穴が開いたようだった。クラウスに絡みつく女性は、あまりに美しく、豊満な身体は女性としての美を余すところなく示していて、レティシアは嫉妬さえ湧かなかった。何よりも、クラウスに何事か詰め寄ってはいたが、見つめる瞳は優しくて、慈愛に満ちていたからだ。
誰がどう見てもお似合いだった。
だとしたら、やっぱり一刻も早く腕輪を外してあげるべきだろう。そうしたら、彼は神に戻れる。それですべて解決するに違いないと、レティシアは思った。
だから、そのまま中に入って、彼に書を見てもらおうと思って、少し話が聞こえる所まで行ってしまったのが間違いだった。
「兄ちゃん、こんな綺麗な人を泣かせちゃあいけねえよ。奥さんなんだろ?」
「まあ、人妻ではあるんだが・・・。」
恋人どころか、女性はクラウスの妻だった。意中の女性どころではない。当然だろうとも思う。だが、レティシアの脳裏に過ったのは、やはりあの男だった。
レティシアの母親というものがありながら、見境なく女に手を出していたであろう、あの男。
クラウスの周りに多くの女性達が集まっていた事も、レティシアの嫌悪感を更に助長させた。
やっぱり、クラウスも、あの男と一緒だ。
今まではそう思った男は徹底して無視し続けていたが、クラウスがそれと重なった瞬間、レティシアは心底哀しかった。悲しむ権利などないと分かって居ながら、その場に居るのが辛くて離れた。
そうして、一人、深夜で静まり返った夜道を歩き、宿舎に帰ったら、上司に既に書いてあった休暇届を出そうと思った。衛士隊は年に一度一週間の休暇が与えられる。レティシアは元々今年の休暇を使って、クラウスの腕輪を外す手がかりを探して、実家に戻ろうと思っていた。そうすればクラウスとしばらく顔を合わせなくていいと思うと、早く出してしまいたかった。
俯き加減であったレティシアは、足元を照らす明るい月光に気付いて、ようやく顔を上げて、顔を綻ばせた。
「ありがとう。」
優しいあの光は、レティシアをいつも慰めてくれた。安堵するのと、急に凄まじい眠気に襲われたのは、ほぼ同時だった。
レティシアは朝の明るい日差しの下、目が覚めた。眠気が覚めやらぬ頭で、のろのろと身体を起こし、呆気に取られた。
「・・・・・・はい?」
間抜けな声が出てしまったが、咎める者は誰も居ない。まず寝かされていたのは、豪奢な天蓋付きのベッドだった。真っ白な清潔なシーツに柔らかく、触り心地の良いそれの寝心地は体験済みだ。ただ、自分が一体何人寝られるのだろうと思う程の大きさで、天蓋の天井にまで細かい装飾が施されている。床を見れば白の大理石が光り輝き、天井からは豪奢なシャンデリアが吊るされている。置かれている調度品は、どれもこれも逐一精巧な細工が施され、庶民のレティシアは触るのも恐ろしい代物だ。
寝室らしきその場所は、広々としていて、外へ通じる窓からは燦燦と光が差し込んでいる。爽やかな空気で満ちていて、とても居心地が良い。
どこの宮殿だろうとさえ思ったが、如何せん全く心当たりがない。そろそろとベッドから降りようと したレティシアだが、勢いよく開いた扉にぎくりと足を止める。
そして、つかつかと速足でやって来た女性に、凍り付いた。
昨夜は豊満な身体を余すことなく示すようなぴったりとしたドレスだったが、昼間という事もあってか、今日は真っ白な清楚なドレスだ。波のように光り輝く黄金の髪が、一層美しい。
髪色と全く同じ瞳はだが怜悧で、凍り付いているレティシアを見下ろす。
「貴女、名前は?」
素っ気ない、尊大な聞き方であったが、女の迫力は只ならぬものである。
「・・・レアです。」
女はその名に軽く眉を潜め、だが思い直したように更に言った。
「そう、わたくしはマリアと言います。クラウスの身内であることはご存じかしら?」
「・・・・はい、知っています」
クラウスに抱き着き、最愛の人とまで言っていた女性だ。そしてクラウス自身も、それを否定もしなかったし、されるままだった。どのような関係性にあるのか、どれ程鈍くても察しが付く。
彼女は、マリアと言うのか。名前まで綺麗な人だとレティシアはつい思ったが、その美貌に似合わず、マリアの口調は凄まじく棘があった。
「それならば、話は早いわ。わたくしの最愛のクラウスに、一体なぜ貴女があんな下賤の枷を嵌めたのか、教えて頂戴。」
「・・・わたし、が?」
そんなはずはない。クラウスが力を封じたのは、彼自身の力によるもので、ただ彼はその解き方を知らないと言うだけだ。
「ええそうよ。正直に答えなさいな。事と次第によっては・・・容赦しないわよ。当然よね?クラウスの神気が突然消えて、わたくしは半狂乱になったのよ。」
女の瞳が怜悧に光り、ぞわりと背筋が寒くなった。全身を斬りつけられているような、凄まじい殺気だった。
「わたしは・・・何も力がありません。クラウスが神の力を封じたのは、クラウス自身です。」
「・・・・・・・・・・・。」
「私が神族が嫌いだと言ったら・・・封じてくれたのです。」
レティシアとしては事実を全て話していた。偽りの無い事だ。だが、マリアの顔から表情が消え、冷徹な眼が光った。
「わたくし、嘘は嫌いなの。」
「嘘じゃありません。」
レティシアは真摯に答えたが、マリアは冷笑を浮かべた。
「だったら、あの忌々しい枷から、貴女の気配がしたのは何故?」
「わたし、の・・・?」
「神の力を封印するのは自身では出来ない事よ。そんな事をしても中途半端になって、かえって危険だわ。」
「でも・・・・。」
自分は出来たのだ、と言いかけて、それはただ半神半人で、非力であったからだろうと推察できる。
マリアの口調は彼女自身偽りが嫌いだというように、騙そうとしているものではなかった。
「だから、他者の手を借りるのよ。封印を完成させる《鍵》に神力は必要ない。ただ、忌々しいその封印を《是》と思えば完成。」
「・・・・・・・・・・。」
「思い出したかしら?顔色が悪いわよ、お嬢ちゃん?」
くすくすとマリアは冷ややかに笑って、冷たい手でレティシアの喉を撫ぜた。そのまま切り裂かれてしまいそうな気がして慌てて身を引く。
だがマリアはそれすら許さないとばかりに、見返した。その瞬間レティシアは身動きが取れなくなった。
「それに、神族が嫌いですって?嘘仰いな。貴女の背中の封印は何なのよ。」
クラウスがそうであったように、マリアも即座に背中の封印に気付いた。蒼白になるレティシアに、だがマリアは容赦が無い。彼女が一言何かを呟くと、レティシアの身体は勝手に反転して、ベッドにうつ伏せに倒された。そして無造作にぐいっとシャツが持ち上げられ、背が露にされる。
「嫌・・・っ止めて下さ・・・・っ!」
「何を言っているのかしらねえ・・・わたくしのクラウスにあんなモノを付けさせておいて、挙句に神族の癖に神が嫌いですって?嘘ばかりつく子には、罰を与えなきゃ。」
愉悦の笑みさえ浮かべて、マリアはレティシアの背に触れた。
「ひ・・・・・・っ!?」
恐怖と混乱に陥るレティシアの怯えを、マリアは意に介さない。
「中途半端な封印。誰がしたの?下手糞ねえ・・・こんなもの、直ぐに壊れるわ。」
「やめ・・・止めて・・・止めてっ。!」
「ああ、可愛い声してるわぁ・・・もっと泣いて頂戴?」
くつくつと笑いながら、マリアは言霊を呟き始める。
レティシアは真っ青になった。
背中から封じたはずのモノの感覚が、蘇って来る。それと同時に味わったあの絶望と苦痛が思い起こされてしまう。
止めてと泣いても、誰も助けてくれなかった。
すべてはお前の父親が悪いのだと、嘲られて。
レティシアはあの日、純白の翼を喪ったのだ。