クラウスの苦手なもの。
ファルス神王国の王都周辺は、葡萄の名産地である。その為に、王都には質の良いワインを初めとした酒が多く揃い、人々の喉を潤していた。ただ、中には悪酔いする種のものもある。安価であり、手っ取り早く酔えるが、簡単に呑み潰れる評判の酒だ。大の男でも数人がかりで一本空けられるかどうかという代物だった。
その酒瓶が、十以上も空で転がっている光景に、新たな酒瓶を運んできた店主は信じがたい顔で、客人たちを見やった。
店主と客である衛士隊は顔なじみだった。新入りの男が入ると、決まって彼らが連れてきて、この酒を呑ませてひっくり返るのを楽しむと言う悪趣味な悪戯を仕掛けているのを知っている。お決まりの恒例行事のはずだが、今回は衛士隊の隊員たちは顔こそ笑っていたが、妙に気合が入り、殺気立っていた。
そもそも、店に入って来た時から彼らは際立っていた。彼らと言うよりも、ひと際長身の若い男に、酒場に来ていた女達は一斉に釘付けになったのだ。王都でも稀有であろう美貌と、それに相応しい優れた体格は、圧倒的な美を誇り、惚けきった顔で見つめる者が続出した。ただ、周囲にいるのは衛士隊の隊員達であり、流石に迂闊に声が駆けられず、女達はじれったい思いだったらしい。
邪魔ね、あの人達。一人だったら、絶対声を掛けるのに!
そう言わんばかりの突き刺さる視線を浴びまくった衛士隊の隊員たちは、ぶるぶると震えた。そして席を離れて店主の元に注文票を届けに来た彼らが、こそこそと話していたのは。
「あの野郎・・・これだけモテる癖に、よりにもよって俺達女神に手を出しやがって」
「吐かせろ!潰すぞ!」
「おうっ」
「勿論だッ」
と、肩を組み合って意気投合していた事を、店主は記憶している。
そして彼らは酒が届くと、一斉に新米と思しき若い男に、例の酒を注ぎまくっていた。気の毒にと、店主は始め同情的だった。だが、男は軽々と注がれた酒を全て飲み干すと、愕然としている『先輩方』に、平然と言ったものだ。
「あんたたちは、飲まないのか?」
人に勧めておきながら、自分は逃げるなど出来るはずがない。そうして、一人、また一人と倒れて行った。
一時間も経つ頃には、五人は呑み潰れて机に突っ伏し、二人は外で吐いてそのまま倒れて、二階の宿屋に運び込まれ、残る二人も「世界が回る」「目の前であひるが飛んでる」と洒落にならない事を言っていた。
一人黙々と飲んでいる男に、新しい酒を渡した店主は、呆れ返った顔で、
「あんたみたいな酒豪は初めて見たよ」
「そうか?酔いが回って来てるから、随分弱くなったとは思っているが。でも、これは美味いな」
顔色一つ変えず、平然と口を付ける男の表情は一切変わっていない。口調もはっきりしていたし、先程は外で潰れた二人を面倒そうに両肩に抱えて二階まで運んでやっていた。足取りもしっかりしている。どこが酔っているのかと思いつつ、だが男の称賛に目を細めた。
「そうだろう、うちの自慢の品だ」
隊員たちが全員呑み潰れたのを見て、店主は彼らが注文した悪酔いするものではなく、上質のワインを提供した。これ程の酒豪ならば、飲んでもらって損は無い。
店主は楽し気に笑い、そして唸っている隊員達に苦笑した。役得と言うべきか、彼らの周囲には女達が群がって、実に甲斐甲斐しく世話を焼いていた。それは勿論彼女達の優しさからくるものではない。
男の圧倒的な飲みっぷりに惚れ惚れと見ていた女性陣は、彼らが飲み潰れたのが好機とばかりに、世話を焼く態で近寄ってきているのだ。「大丈夫?」と優しい声を掛けながらも、視線は全て一人の男にうっとりと注がれている。ただ、誰一人として男に声を掛けられずにいる。
圧倒的な美貌だけなら、女達は怯まなかった。だが、この男の覇気は常人のものでは無く、容易く触れることは愚か、気安く声を掛ける事さえも許されないような、威圧感がある。惚けてはいたが、二の足を踏み、じれったい思いである。
一方の男も同僚の世話役が出来て楽だと思ったのか、放っておいている。
そんな男女入り乱れた席に、悠然と歩み寄って来た女が居た。ざわめいていた酒場が、女が入って来た瞬間しいんと静まり返った。ほろ酔い気分でいた他の客達は、一気に酔いが醒めたような顔で、女を見つめ、ごくりと喉を鳴らした。
クラウスは、女がやって来たことにとうに気付いていた。いくら自分が人間同然の身とはいっても、この女の放つ気配は相変わらず強烈だ。何を言われるかも想像がつく。そして、歩み寄って来る女に視線を向け、呻いた。
妖艶な笑みを浮かべながら、自分を見据えた女が、激怒しているのが分かったからだ。
「お久しぶりね」
「・・・・ああ」
クラウスの歯切れが悪い。出来れば早々に席を立ちたいと言わんばかりの彼に、女は冷ややかな笑みを浮かべた。そして、彼の周りを囲んでいる若い女達など目もくれず、進んだ。クラウス目的で近づいて、他の女達をけん制し合っていた彼女達が、その女には道を開けた。そうしなければならないと思ってしまう程、女は美しく、艶やかで、女でさえも惚けてしまっていた。
そうして、女は当然のようにクラウスの隣に座ると、細くしなやかな手を、彼の頬に触れた。クラウスは避けない。顔を顰めて、撫でられるままになっている。
「一体これはどういうことかしら?」
「・・・・・どうもしない」
「嘘。なんなの、この身体は?」
「別に。・・・止めろよ」
ようやくクラウスが顔を背けると、女は頬を撫ぜていた手をするりと降ろし、彼の両腕に嵌まっている腕輪を探り当てた。神の力を封じるそれに、女の目が見る見るうちに怒りに染まる。
「どういう事?何故、わたくしの大切な貴方にこんなモノがされているの?」
膝まであろうかと言う美しい黄金色の髪が、怒りのあまり動き出したのを見て、クラウスは顔を顰めた。
仔細を説明したら、この女は元凶を絞め殺しかねない。頃合いを見計らって殺していいとも思うが、今は不味い。
だから問い詰めに掛かる女を、クラウスはただ只管無視した。
すると今度は、女の美しい金色の瞳から大粒の涙がぽろりと落ちた。それを目の端で捉えたクラウスは、小さくため息を付く。
「あー・・・止めろ」
「酷いわ。どうして何もわたくしに言ってくれないの。貴方をこんなに愛しているわたくしに、何も教えてくれないなんて、あんまりだわ!」
さめざめと泣きだした女に、クラウスは額に手を当てて呻く。悲痛な声を漏らして泣く女に、女の美貌に惚けきっていた男たちの視線が一斉にクラウスに刺さる。別にそれはどうでも良いのだが、店主が諭すように、
「兄ちゃん、こんな綺麗な人を泣かせちゃあいけねえよ。奥さんなんだろ?」
「まあ、人妻ではあるんだが・・・だから、止めろって」
女がここぞとばかりに、クラウスの首に腕を回して、豊満な身体を押し付ける。それを羨ましそうに見た店主に、クラウスは顔を顰めた。
だが、彼は無理に引き剥がさなかった。そうした所で無駄だと知っている。
この女は、手段を選ばなないと分かっている。威圧してもダメで、今の泣き落としが効かないと分かったら、また次の手を打ってくるだけだ。果てしない。
飽きるまで放っておくに限る。
この女は神族の頂点に立つ至高神にあたり、神族であった頃ならまだしも、人間同然の自分では逆らえない。受け流すしかないのだ。ただ、容易くあしらえる女で無い事は重々承知していたから身構えたし、女の凄まじい神気がその場を呑んでいたから、『彼女』の存在に気付くのに遅れた。
抱き着かれて辟易していたクラウスは、次の瞬間凍り付いた。
酒場の入り口で、レティシアが一人立ち、静かに自分達を見返していたからだ。
レティシアは唇を硬く結び、紫紺の瞳は唯一の感情を映していた。嫌悪である。自分のこの姿を見て、彼女が何を彷彿させたか、クラウスは即座に理解した。目が合った瞬間、一瞬哀し気に歪んだ瞳は、だがすぐに逸らされて、彼女は踵を返すと出て行ってしまった。
「待・・・・っ」
「あら、どこに行くのよ」
逃がさないとばかりに泣いていたはずの女がぐいとソファーに引き戻し、乗りかかる。傍目には細い女の肢体だが、凄まじい怪力である。流石に人の身体ではクラウスも押しのけられない。
「・・・っ邪魔だ、退けよ!」
「わたくしの質問に答えて頂戴」
「この糞婆が!」
焦る余り、女にとって禁句とも言うべき怒号を上げたクラウスは、女の目が見る見るうちに冷徹に光り、自分の失言に気付いた。
「・・・よくも言ったわね、クラウス。この、わたくしに向かって!」
女が凄まじい怒号を上げた瞬間、その煽りを喰らったように、酒場に居た人々が一斉に失神した。常人ではとても耐えられぬ覇気を浴び、流石のクラウスも顔の色を僅かに変えたが、彼の瞳もまた怒りに染まった。
「黙れ。俺は離せと言ったはずだ!」
人間同然の身体になった事に悔いはない。だが、今は神である女のこの腕が振りほどけないのが悔しい。一刻も早く、レティシアの元に行きたいのに、よりにもよってこの女が邪魔をする。
凄まじい殺気の飛ばしあいをしている両者に、のんびりとした若い男の声がした。
「やあお前達、喧嘩をするなら、何時ものように他人に迷惑が掛からない場所でやりなさい」
二人の前に突然現れたのは細身の長身の青年だった。腰ほどまである流れるような美しい漆黒の髪は、中性的な美しさを誇る男に良く映える。白い素肌はまるで女のようにきめ細かく、整った顔立ちは柔和さが滲み出ている。殺伐とした空気の中で、大勢の人々が泡を吹いて倒れている中で、飄々とした男の周囲だけが空気が違う。
青年に視線を向けた二人は同時に殺気を消した。
虫も獣も殺さないような優し気な風貌をしながら、この男を怒らせると神界が破滅するとさえ言われる程狂暴な男だ。
二人は男を恐れてはいないが、怒らせると大層面倒臭いと言う認識でもいる。ようやく、女はクラウスの拘束を解いた。それを見ると、瞬時にクラウスは立ち上がり、倒れている者達の間を縫って、酒場を飛び出して行った。
「あっ!待ちなさい、クラウス!」
女が肩を怒らせて止めたが、
「煩え、糞婆!」
という、またしても品に欠ける捨て台詞を吐いていった。
女はわなわなと震え、一度絞め殺してやろうかしらと思案した所で、青年がのんびりと彼女の名を呼んだ。
「マリア、まあ少し落ち着きなさい」
「だって・・・あの子ったら、今は人間同然なのよ。下手をすれば簡単に死んでしまうわ」
唇を震わせるマリアに、青年は宥めるように言った。
「まあ、それなら仕方がない。運命だな」
「何ですって!」
再び怒りに火が付きそうなマリアに、だが青年は目を細めた。
「考えてもごらんよ、クラウスがそう簡単に、人間に封じられると思うかい?」
「・・・・・・・・・・」
「我々にとって屈辱でしかない力封じの腕輪を、あの子は随分大切にしていたようだよ」
クラウスはマリアに身体に触れられるよりも、腕輪に触れられるのを随分嫌がっていた。マリアは力封じの腕輪などという汚らわしい拘束具に触れさせたくないのだろうと思ったが、彼の見立ては違ったらしい。
「・・・・・・・・。あの腕輪、クラウスとは違う気配がしたわ」
「じゃあ、《鍵》をしたのは、その者だね」
「・・・そうね」
徐に立ち上がると、マリアは冷ややかに、だが艶然と微笑んだ。青年が困ったようにぽりぽりと頬を掻き、
「殺してはいけないよ。きっとクラウスが怒る」
「相手次第ね」
そう言ってマリアの姿はその場から消えた。最早止めても無駄と思ったのか、青年は小さくため息を付き、悉く失神している人々を見回して、さてこの連中はどうしたものかと思案し始めた。
色々と無敵の彼ですが、苦手な存在も居るのです。