ブクマ100件お礼話:靄の向こうで
薄い靄のかかった不思議な場所だった。
シロウはひとり、そこに立っている。
辺りを見回しても、白い靄以外に目に入るものはない。
わき上がる不安から無意識に腰へ手を添えれば、慣れた剣の感触があり、ほっと安堵する。よく見れば、シロウはきちんと軍服を着込んでいた。
「なんだ? 仕事中に、どこかへ迷い込んだのか…………?」
自分を落ち着かせるために、あえて声に出す。
ここへ来る前の記憶は曖昧で、すぐには思い出せそうにない。
留まるべきか進むべきか、少しだけ考えて、歩いてみることにした。
何もせずにいるのは、シロウの性に合わない。
「何もないな…………」
しばらく歩いても、辺りの景色は変わらない。靄は変わらず周囲を漂っているし、目に留まるようなものは何も見当たらない。どの方向に向かっているのかも、定かではなかった。
さてどうしたものかと、考えたところで。
「シロウさん?」
とても聞き慣れた声がした。
「…………アキ?」
「わあ、シロウさんだ」
声がした方へ振り返れば、アキがこちらへ駆け寄って来る。
勢いよく飛び込んで来るのを、シロウはしっかりと受け止めた。
「シロウさんが出てくるなんて、いい夢だなあ」
「……夢、なのか?」
どうやらアキにとって、これは夢らしい。
ではシロウも夢を見ているのだろうか。
「ふふ。何もない場所にふたりきりですね」
「あ、ああ」
この不可思議な場所で、アキはまったく恐れている様子がない。こういうところがアキのすごいところだなと、シロウは感心する。
「アキ、少し歩いてみないか?」
「そうですね」
このままここに留まっても仕方がないような気がしたので、もう少し移動してみることにした。歩いていてアキに出会えたのだから、また何かあるかもしれない。
アキがはぐれないように、シロウはしっかりと手を繋ぐ。
「何か見つけても、ひとりで走って行ったりしないようにな」
「はーい」
嬉しそうに繋いだ手をにぎにぎと握るアキは、本当に分かっているのか。少なからず不安なので、シロウはこの手は絶対に離さないようにしようと決めた。
ふたりで歩いていると、だんだんと靄が晴れてきたように思えた。
それまで白だけだった視界に、他の色が映りこんでくる。
「んー? この場所、なんとなく見覚えがあるような……」
「そうなのか?」
確かめるように、アキはきょろきょろと辺りを見回している。
まだぼんやりとしているが、シロウには森のような場所に見える。ただ、木々や植物には見覚えのないものが多い。ヌシの棲む森とは植生が違うようだ。
ここが本当に夢だとすれば、アキの記憶にある場所が舞台となっている可能性はあるから、アキの故郷の森だろうか。
「…………アキ?」
そこへ、今度は見知らぬ声が聞こえた。
シロウは咄嗟に腰の剣へ手を伸ばし、声の聞こえた方向を見据える。
するとそこには、線の細い青年が目を見張ってこちらを見ていた。いかにも王都の女性が好みそうな顔立ちだが、こんなところで出会うのは本当に人間だろうかとシロウが考えていると、隣から驚いたような声が上がった。
「兄さん!」
「は?」
思いがけないアキの呼びかけに気の抜けた声を出してしまったシロウをよそに、青年は笑みを浮かべて近づいて来た。
「やっぱり、アキだね。どこに行っていたんだい? ずいぶんと探したよ!」
「あー、ごめんね、兄さん。よく分からないけど、急に飛ばされて迷子になっちゃったみたい」
「飛ばされた?」
「森に調律に出かけたら、いつの間にか違う国に居たの。……なにかに呼ばれたのかな? そちらとはすごく距離があるから帰るのはむずかしいだろうって、泉の精霊に言われた」
「そうなのか…………。精霊が言うなら、そうなのだろう」
精霊という人外の存在の言葉に、青年は納得したらしい。アキの故郷では、シロウの国よりも精霊が身近な存在であるようだから、その力への理解も深いのだろう。
「兄さんは、どうしてここへ?」
「私にもよく分からない。おそらく、眠っていたはずなんだ。なにかのきっかけで、夢が繋がってしまったのかもしれないね」
アキと同様に、青年もここは夢だと言う。アキの兄ということは、青年は調律師だ。シロウには無い感覚を持つふたりが言うのだから、そうなのかもしれないなとシロウが頷いていると。
「おや、」
そこでようやく、青年はアキの隣に立つ存在に意識を向けた。
「アキ、そちらは?」
青年の視線が、シロウとアキがしっかりと繋いでいる手に注がれる。
さっとシロウは手を離すが、代わりにアキが腰に抱きついてきた。
「この格好いい人は、シロウさん。軍人さんだよ。迷子だった私に住む場所を提供してくれているの。シロウさん、こちらは私の兄のハルです」
「…………一緒に住んでいる、ということかな?」
アキの言葉を聞いて、青年ハルの顔色が変わった。
年頃の妹が、見知らぬ年上の男性と一緒に住んでいると聞けば、兄として面白くはないだろう。隠すつもりはないが、きちんと段階を踏んで説明をしなければ誤解されそうだとシロウが慌てている隙に、アキはあっさりと返事をしてしまう。
「そうなの。一緒に住もうって、誘ってくれたんだ」
嬉しそうに告げるアキに、ハルは眉を寄せた。
その顔を見て、これは初対面から心象を損なってしまったかもしれないと、シロウの気分は沈んだ。ただでさえ、目つきの悪さから第一印象は良くないだろうに、おまけにシロウは軍服を着ているから威圧感も増しているに違いなく、これでは底辺だ。
だが、アキとはいい加減な気持ちで暮らしているのではない。ここは誠意をもって説明する必要があると、シロウが気持ちを奮い立たせると。
「それは…………、大変なご苦労を、」
「え?」
とても申し訳ないといった表情で、ハルはシロウを見ていた。
「アキと暮らすのは大変でしょう。すみません、奔放な妹で。ご迷惑をかけていませんか?」
「あ、いえ……」
「アキは私たち兄弟の中でも、いちばん問題を起こす子でした。行方不明になったのも、精霊あたりに何かをしてしまったのではないかと考えていたくらいで……」
「はあ、」
思いがけず謝られてしまい、シロウは気の抜けた返事をすることしかできない。
姉の方が問題児だと不満げに主張しているアキの言葉は、ハルにもシロウにも届かなかった。
「アキ、この方……シロウさんに迷惑をかけているんじゃないだろうね? もしも無理やり居座っているなら、ここが夢の中だとしても、どうにかして連れ帰ってしまうよ」
「そんなこと! …………ない、ですよね?」
元気よくハルに反論したと思えば、アキは急に自信がない様子でシロウを見上げてくる。
確かにアキは、いろいろなことを引き起こしている。先日、森で拾った種を庭に植えようとしてイズルに止められたことでも思い出したのかもしれない。
だが、事件になる前に止めてくれたイズルにはとても感謝したが、シロウがそれでアキを迷惑に思うことなどない。
「ああ。アキが一緒に暮らしてくれて、俺は幸せだ」
珍しくシロウがはっきりと言葉にすれば、アキは嬉しそうに破顔した。
「ですよね! 私もシロウさんと一緒に暮らせて、幸せです!」
腰に抱きついたままだったアキが、ぎゅうぎゅうと力をこめてくるのに、シロウはその頭に手を置いて撫でた。
ハルは、そんなシロウたちの様子に、そうですかと安心したように笑った。
聞いてみれば、ハルはシロウと同じくらいの年齢らしい。だが線の細さと柔和な顔つきから、もう少し若く見えた。この容姿であればさぞ女性たちに騒がれているだろうなと、シロウが感心すれば。
「えっ、兄は故郷ではまったく人気がありませんよ。やっぱりシロウさんみたいに強そうじゃないと」
「妹よ、兄だってそれなりにだな……」
妹の評価に眉を下げるハルによれば、アキの言うことも間違ってはおらず、周囲の女性たちは強い男性を好む傾向にある。だが、調律師という立場から、そこそこに人気はあるのだと、ハルはアキに言い聞かせている。
「ふうん、兄さんがねえ……。でも、シロウさんがすごく格好いいことには異論がないでしょう?」
「そうだね。これほどに魅力的な男性は、なかなか見ないね。鋭い目もいいけれど、やはりこの筋肉が…………あ、失礼しました」
なぜか本能が警鐘を鳴らしたので、話しながら自然に伸びてきたハルの手を、シロウは後退って避けた。
アキとハルはあまり似ているところがないなと感じていたが、シロウの筋肉を賛美するところは、まさしくアキの血縁を思わせた。
だがそんなハルとしばらく話をしてみて、シロウはひとつ認識を改めた。
アキが突飛な行動をすることがあるのは、故郷の常識が違うからかと考えていたが、どうもそればかりではなさそうだ。ハルの話を聞いて、あちらの常識もシロウのものとそう違わないのが分かった。アキのあれは性格だったのだ、と。
お互いのことを話していたのがなんとなく途切れたところで、ハルがシロウをじっと見つめて言った。
「……あなたの瞳は、まるでセキレイのようですね」
「え?」
セキレイとは、アキの故郷で狩りに使われる鳥だと聞いた。アキと初めて出会ったときに言われたことは、今でもシロウの中に強く残っている。
ハルまでも似ていると言うなら、それほどにそっくりなのだろうかとシロウは目を瞬いた。
「そうでしょう。真剣なときのシロウさんの目は、もっと格好いいよ! ……そういえば、オボロは呼べないの? シロウさんに見せてあげたいな」
本人よりも嬉しそうにシロウを自慢するアキに、オボロとは誰だと目で問う。
「オボロは、兄さんが飼っているセキレイです。すごく格好いい子ですよ」
アキの兄ハルは調律師でありながら、セキレイを飼っているらしい。しっかり訓練をしたので、オボロは狩りをすることもできるのだとか。
シロウも、それは是非に会ってみたかった。
「そうだね、呼んでみようか」
ハルは快く頷くと、どこからか取り出した手袋を左手につけた。セキレイを止まらせるための防護用だという。随分と分厚いのは、それだけセキレイの爪が鋭いのだろう。
それから、首に下げていた青い笛を手に取り、これはセキレイの呼び笛だと説明してくれた。笛を口にくわえたハルが、ふっと息を入れたように感じたが、笛の音色はシロウには聞こえなかった。
だがすぐに、ばさりと、どこからか大きな羽ばたきの音がした。
「やあ、来たね」
差し出されたハルの左腕に、大きな鳥が威風堂々と降り立つ。微笑んだ主人へ挨拶をするようにくちばしを動かすその鳥を見て、シロウは言葉を失った。
そんなシロウを見上げて、アキがふわりと笑って告げる。
「シロウさん、オボロですよ」
オボロと名づけられたその鳥は、羽は美しい灰青色で、胸と腹の部分がやや白かった。ハルの頭くらいに立派な大きさの堂々とした体躯に、主人への忠誠を宿した、理知的で獰猛な紺色の目をしている。
見慣れぬ人物に警戒しているのか、シロウのことをじっと睨んでいるようだ。だがその仕草さえもこの鳥には似合っていて、頼もしさすら感じた。
自分と似ていると言われた鳥がこれほどの存在だったことに、シロウの心は静かに震えた。
「ふふ。オボロは格好いいでしょう?」
「ああ…………」
「ありがとうございます。オボロも、あなたに興味を持ったみたいですね。やはり似ているからかな」
鋭い目でシロウを見つめる鳥は、あれで好意的な態度らしい。とてもそうは見えないが、そういうところもシロウに似ているのかもしれない。
そうして別の存在が登場したからか、それとももう時間だったのか、だんだんと辺りの靄が濃くなってきた。
アキとハルもそのことに気づいたらしく、辺りを見回している。
そろそろ、この出会いも終わりなのだろう。
「そうだ。姉さんたちは元気?」
「ああ。父さんも母さんも、みんな元気だよ。アキが突然いなくなって心配はしていたけど、そちらで大事にしてもらっているなら良かった」
「うん。すごく大事にしてもらってる。仲良しもできたし、毎日楽しいよ」
「そう。ならばなにも心配は要らないね。せっかくだから、そちらの国を調律してあげるといい」
「うん」
兄妹は、あっさりと別れの挨拶を終えたようだ。
そんなもので良いのかとシロウは心配になったが、今日会えただけで十分だし、もしかしたらまた夢で会えるかもしれないしと、アキは笑ってシロウの手を握ってきた。だからシロウも、応えるようにぎゅっと握り返す。
そうしている間にも、どんどん靄は厚さを増している。
「シロウさん。いたらない妹ですが、アキのことをよろしくお願いします」
「はい、必ず大切にします」
シロウの真剣な目を見て満足げに微笑んだハルとオボロの姿が、やがて見えなくなった。
そのまま視界も白に染まり、繋いだアキの手のぬくもりを感じながら、シロウの意識も遠のいた。
次に気がついたときには、シロウは自室の寝台の上だった。もちろんその手の先にアキはおらず、やはりあれは夢だったのかと、眠気を払うように頭を振った。
だがその後の朝食の席で、不思議な夢を見たのだという話をすると、アキもそっくり同じ夢を見たと言う。
夢の中での不思議な邂逅に、ふたりは顔を見合わせたのだった。
「調律師と隊長」のブックマークが100件を超えましたので、お礼と記念の番外編でした。
いつもお読みいただき、ありがとうございます(^^)




