運命の階段 (短編16)
佐藤武彦はどこにでもありそうな会社の、どこにでもいそうな一介のサラリーマンである。
大学を卒業してから四十年近くもの長きに勤め、来年の春には定年退職を迎えることになっていた。
今朝も妻に手渡されたネクタイを首に締め、いつもの時間、いつものように会社へと向かう。
――退職したら、文江とのんびり旅行でもするか。あいつには苦労のかけっぱなしだったからな。
最近よく、武彦はそんなことを思う。
この日。
武彦はいつにない息苦しさを覚え、妻のすすめもあって、近くにある総合病院で受診してみた。
検査では肺癌という診断であった。
癌細胞は別の臓器にも転移が見られ、このままではわずか数カ月の余命、医者からは深刻な顔でそう告げられた。
即日、入院しての治療が始まる。
病院生活は思った以上に過酷だった。治療にはひどい副作用がともない、初老の武彦には体力的にも精神的にもつらかった。
癌の進行は治療が始まってからも続いていた。
地獄のような日々で、いつも心の支えになったのが長年連れ添ってきた妻だった。毎日のように文江は病室に来ては、献身的に武彦の世話をしてくれた。
ある夜。
武彦は不思議な夢を見た。
薄暗い階段を一段ずつ昇っている自分がいる。
――これは天国へ続く階段かもな。
夢の中、冗談半分につぶやいたときだった。
階段がまばゆい光でつつまれ、目の前に奇妙な男が現れた。全身黒づくめの男は、武彦が昇ろうとする階段をふさぐようにして立っている。
「ここからは進んではいけません。あなたの運命は決まっているのです」
男は階段を降りなさいと言う。
「私の運命とは?」
「いずれ、おわかりになるでしょう」
「いずれといいますと?」
「そのときが来たらです。どうか命は大切に」
男はそれだけ言い残し、光が消えるとともに黒い姿を闇に溶かした。
武彦は目をさました。
病室の薄いカーテンから、夜明けを教える朝の光がさしこんでいる。
――不思議な夢を見たもんだな。
武彦はいまだまどろむ頭で、しばらく夢のことを思い返していた。
次の日。
担当医が病室に来て言う。
「いや、驚きました。こうしたことは私も前例を知らないので、これは奇跡としか考えられません」
前日に受けた検査結果では、癌の影が跡形もなく肺から消えているのだという。
――もしかしたら……。
武彦は夕べの不思議な夢のことを考えていた。
――たしか運命とか言ってたな。あの男、天国へ行こうとするオレを引きとめてくれたのかも……。
そうでなければたった一晩で、癌細胞がすべて消えるなどあろうはずがない。
――あれが夢でもいい。とにかく自分の運命を喜ばないと。こうして寿命が伸びたんだからな。
武彦はそう考えることにした。
次の精密検査でも、癌の兆候はどの臓器にも見られなかった。
「あなた、ほんとによかったわね」
文江は手を取って喜んでくれた。
退院の日。
着替えの詰まったバッグをかかえ、武彦は意気揚々と長らくいた病室をあとにした。
入院したころの暗い表情は微塵も見られない。
武彦の背後には、やはり両手に荷物を下げた妻があとを追うように歩いていた。
病室のあった二階から玄関に向かう。
武彦は足の運動がわりにと、エレベーターは使わず階段を歩いて降りることにした。だがこのとき、自分の弱った足、それに重いバッグを下げていることを忘れていた。
「あなた!」
妻が悲鳴のような声をあげた。
階段を何歩か降りたところでバランスを崩し、武彦はそのまま階段の一番下まで転がり落ちていた。段を踏みはずしたのである。
武彦はすぐさま整形外科病棟に運ばれたが、意識は戻らず昏睡状態が続いていた。
その頃。
武彦は夢を見ていた。
薄暗い階段を一段ずつ昇っている。
――あのときと同じ夢じゃないか。
そう思っていると……。
階段がやはり光でつつまれ、再び目の前に黒づくめの男が現れた。そしてこのときも、武彦が昇ろうとする階段をふさぐように立っている。
「ここからは進んではいけません。あなたの運命は決まっているのです」
一語一句、男は前の夢と同じことを言った。
「運命が決まっているって?」
「はい、ですので命は大切に」
階段を照らしていた光が消え、同時に黒づくめの男も目の前から消えた。
武彦は目をさました。
ベッドで寝ていることに気づく。
――そうか、オレは階段から落ちたんだ。エレベーターさえ使っていれば、こんなことに……。
武彦は己の軽はずみな行動を悔やんだ。
下半身がピクリとも動かない。さらにはなんの感覚もない。それでも命だけは取りとめたらしい。
その日。
精密検査の結果、武彦は打ち所が悪く、聞いた病名は脊髄損傷ということだった。
武彦は夢のことを思い出していた。
――これがオレの運命とは……。なんとも過酷なものだな。
武彦の病院生活は半年ほど続いた。
その間、毎日のようにリハビリを続けたが、下半身の運動機能が回復することはなかった。
退院して、自宅での車椅子の生活が始まる。
「すまんな」
「夫婦じゃありませんか」
身体の不自由な武彦に、妻は手となり足となり介助をしてくれた。
そんな日々が一年ほど続いた。
ところが不幸は重なるもので、武彦は次の新たな病におそわれた。不意の脳出血で、車椅子に座ったまま意識を失ったのである、
このとき。
武彦はまたしても同じ夢を見ていた。
薄暗い階段を一段ずつ昇っている自分がいる。
――あの奇妙な男が現れて、オレは今度も助けられるんだろうな。
そう思ったときだった。
前と同じように階段が光でつつまれ、前に見た二度の夢と同じく黒づくめの男が現れた。そして同じように階段をふさぐようにして立っている。
「また助けてくれるんですね」
「はい、お助けします。あなたにここで死んでもらってはこまりますのでね」
「どうしてです?」
「いずれ、おわかりになります」
男はそれだけ答え、光が消えると同時に姿を消してしまった。
地獄のような日々が始まった。
体の動く部分は上半身の左側のみで、言葉を口に出すことさえ思うようにならない。以前に増して過酷な生活が続き、食事から排泄まで生きるいっさいを妻に頼るしかなかった。
武彦は一日の大半をベッドの上で過ごした。
「すまん……」
武彦は声を絞り出すようにして、文江に向かって深々と頭を垂れた。
「あなた、そんなに気にしないでください。私たちは夫婦なんですからね」
文江は文江でひどく疲れているであろうに、それからもけなげに武彦の介護を続けてくれた。
そんなある夜。
武彦は何度目かになる同じ夢を見た。
薄暗い階段を一段ずつ昇っている自分がいる。
――出てくるなよ。
武彦は、男が現れないことを願った。
これまで夢に男が現れるときは、自分が死ぬ目に遭遇するときで、そしてそのたびに死の一歩手前で救われてきた。
――もう十分だ。
こんなみじめな身体になってまで、自分は生き続けていたいとは思わない。
――自分さえいなくなれば……。
文江も疲れている。
今の生活から解放してやりたい。
――頼むから、このままそっと逝かせてくれ。なにもかもに疲れているんだよ。
あの男さえ現れなければ、このまま階段を昇り続けられる。死んで天国に行けるのだ。
武彦は一歩、また一歩と、男が現れないことを願いながら階段を昇っていった。
階段がまたしても光でつつまれた。
黒づくめの男が現れる。
が、男はこれまでとはちがうことを言った。
「足元に気をつけてください」
それから男は体を横にずらすと、武彦の昇ろうとする階段の先をあけてくれた。
武彦は立ち止まり男に問うた。
「これまでのように止めないんですか?」
「はい、どうぞこのまま昇ってください」
「では今度こそ、私は死ねるということで」
「はい、確実に」
「ねえ、教えていただけませんか。あなたはいったいだれなんです?」
「人の死の運命をあずかっている者、そのように思っていただけたらよろしいかと」
「それでこれまで、私が死に遭遇するびに命を救ってくれたんですね」
「人間は生まれたとき、同時に死の運命というものを持っておりまして、その運命に従って人生の幕を閉じることになっているのです。それであなたには、あなたの運命に従ってもらっただけです」
「最後に聞かせてください。私の死の運命、それはいったいどのようなものだったんでしょう?」
「あれを見ていただければ」
男は小さくうなずいてから、武彦が昇ってきた階段のずっと下方をのぞき見るようにした。
そこには深い闇があった。
その漆黒の闇に、ほんのり明かりのついた部屋が浮かんでいる。自分の介護用ベッドがあり、そしてベッドには眠っている自分がいる。
ベッドの脇には、涙を流している文江がたたずんでいた。
「あなたの死は決まっていたのです。妻の手で殺される運命にですね」
男は武彦の耳元でささやくように言った。
文江が手にしたネクタイを自分の首に巻いている。
部屋の明かりが消え、男が消え、武彦の足元の階段は闇につつまれた。