第1部 何もない世界で
錆びた扉の音が小さく音を立てる。慣れた手つきで扉に鍵をかけ、男は階段を下って行く。
男の名は『佐藤 光』今年26歳を迎え、先日まではしがないサラリーマン生活を送っていた。背中は小さく丸まり、髪もボサボサ。とてもこの間まで『サラリーマン』と呼ばれていたとは思えなかった。
階段を下り切ると光は駅の方へと歩き出す。
光が東京に引っ越して来たのは18の時。東京という都市に期待と不安を抱きながらやって来た。地元の友達と別れ、光は新しい生活を始めようとしていた。
ーーここでも俺ならやって行ける。
その当時の光は誰にも負けないという強い意志を持っていた。しかし、そんな彼が東京の波に飲まれるのは早かった。めまぐるしく変わる町の風景、慣れる事のない電車通勤。
自分が思い描いていた東京という町に嫌気がさしていたその時、更なる悲しみが彼を襲った。
今から約5年前ーーー
光の大切な人が死んだのだった。
その人の死を告げる手紙を見た時から、光の瞳に輝きが灯ることはなくなった。生きているという喜びを忘れ、今まで感じていたストレスも何も感じなくなった。誰と話していても上の空、何をしても怒らない。いつからか光は自分が何なのか分からなくなっていた。
駅までの細い道を抜けると、大道路へと出る。沢山の人混みの中、光もその一部となる。
「狭くて低い空だな」
光は空を見上げボソッと呟く。光が何か呟いた所でこの町の人達が光を気にする事は無い。誰も光に目もくれず自分の道を急ぐのだ。この町は忙しすぎる。光は横目で自分の横を通り過ぎて行く人を睨んだ。
その目を見ても誰も気にしない、誰も彼に構おうとはしない。光はやがて駅のホームへと消えて行った。
光が電車に乗り3駅ほど進んだ。最初光が乗り込んだ時よりは人は減っているが、まだまだ人は多い。更に4、5駅進むとやっと足元に荷物が置けるようになった。
更に4駅後、光は椅子に座っていた。席は転々と空いていて町並みも少しづつ変わってる。
この時光は大きな事に気が付いた。
ーーこれは………ニオイ…………?
光がニオイを感じるのは約5年振りになる。光は慌てて窓から外の景色を眺める。まだ色は見られなかったが光はどこか懐かしさを感じた。光の故郷へ向かっているのだから当然なのかもしれないが、これまで何も感じられなかった光にとって、これはとても大きな事だった。
やがて光以外の乗客はほぼ居なくなった。窓の外をずっと眺めていた光は席から立ち上がった。ドアの前まで行くと、電車はゆっくりとスピードを落として行く。
停車した電車のドアが開いたーー
光の頭に何か強烈な思い出が流れ込んでくる。
駅で涙を流す女の子に、俯く自分。
ーーそうだ、あの時彼女は泣いたんだ………。
駅に降り立った光は乗っていた電車を見送った。この時の光は気が付かなかったが、いつの間にか光は風を感じるようになっていた。
駅の改札を出て、光の自宅へと向かう。田んぼの端を通り歩き慣れた道を行く。不意に光は視界が歪むのを感じた。
ーーなんだこれ……?
光がその場に座り込もうとした時にはもう光の意識は飛んでいたーー




