07. 天上世界アタラクシア
「では、そろそろここに来た目的を果たすとするか」
しばらくの間イツキの膝の上でちやほやと構われていたわたしは、ウサギのその言葉に視線を向けた。
「……目的?」
「うむ。お前を最初にここに連れてきたのは、もちろんイツキに会わせる目的もあったが、それ以外にもこの世界の説明をするにあたって都合がよかったからなのだぞ。イツキ、頼めるか?」
「ええ、わかりました」
ウサギの言葉に背中で頷く気配がして、途端、わたしの身体を包んでいた温もりが失われた。
なんの予兆もなく起こった出来事に慌てて背後を振り返るが、そこには誰もいなかった。
気づけばわたしは、ひとりでソファに腰掛けている。
「では、足場を移動させますね」
イツキの声は、前方から聞こえた。
目を白黒させて前へ向き直ると、彼はいつの間にか元の席に戻っていた。
つい一瞬前までその膝の上にいて、胸に背中を預けていたはずなのに、いったいいつの間に移動したのだろう。
こちらへ移ってきたときもそうだったが、わたしにはまったく認識できなかった。
まさに刹那の出来事で、瞬間移動したかのようである。
実際、そうなのかもしれなかった。
わたしがよほど不思議そうな顔をしていたのか、ちら、とこちらを見たイツキはくすりと笑みを零す。
「かか様はそのままで。少し揺れますので、席に掛けたままお待ちください」
彼がそう告げた直後である。
わたしたちが足場にしていた小さな空中庭園が、ゆっくりと上昇を始めた。
星神樹から伸びて宙に固定していた枝がさらに伸長して、足場を押し上げているようだった。
高く、高く。
庭園は空に昇っていく。
雲海のように眼下に広がっていた星神樹の緑葉が、遠ざかっていく。
大樹が視界を占める範囲が、どんどんと小さくなっていく。
代わりに、その枝葉で隠されていた地上が再び姿を現していた。
「…………」
ここまで来ると、高さへの恐怖はほとんど感じなかった。
地上から離れすぎて、逆に現実感に乏しかったのだ。
脳内では決して想像することができない高度。
想像力が追いつかない俯瞰世界。
誰かの視界を借りて見下ろしているような、或いは写真やスクリーン越しに眺めているかのような感覚。
視線を他のふたりに向ける。
ウサギもイツキも、自然体だった。平気な顔をしている。
きっとこれが彼女たちの、アタラクシアの神様の視点なのだろう。
当たり前の光景なのだ。
わたしの意識だけが人のままで、彼女たちに追いついていない。
いずれ時間が解決するのだと知っていても、ほんの少しだけ、焦りを感じた。
「うむん。ここらでよかろう」
ウサギがそう言ったのは、足場が上昇を始めてからおよそ十分ほど経過したときである。
彼女の言葉を受けて、足場の上昇が停止する。
相当な高さまで昇ってきたはずだが、風や寒さはほとんど感じなかった。
なんらかの力で防がれているのか、それともこの世界がそういう作りになっているのか。
今のわたしでは判断できなかった。
「この高さからであれば、アタラクシアの大地を一望できる」
そう言って立ち上がったウサギは、わたしに向かって「近う寄れ」と手招きする。
「今から吾れがこの世界の地理をざっと教えてやろう。――イツキ、端に寄ってもこやつが落ちんように柵を頼む」
「かしこまりました」
イツキの答える声がして、次の瞬間には足場をぐるりと取り囲むように、地面から太く頑丈そうな枝が飛び出した。拳ひとつ分ぐらいの距離を開けて等間隔に真上へ伸びた枝は、ちょうどわたしの胸ぐらいの高さに達したところで止まる。
次いで、それぞれの半ばから横にも枝が伸びはじめると複雑に絡み合い、網目模様の柵を形成する。
最後にそこへ地面から伸びた蔦が絡みつき、茶褐色だった囲いに色を添えていった。ところどころでは花が咲いてもいる。
「これでたとえ体当たりをしても壊れません。さ、行きましょう、かか様」
すぐそばに立ったイツキが、いまだ座ったままだったわたしに手を差し出してきた。
サクラもそうだったけれど、彼もまた綺麗な手をしていた。
白魚のようにほっそりとした指に、シミひとつない白磁のように透明な肌。
それを見ていると、なんだか自分の手がとても汚いものに思えてしまって、手を取ることに躊躇してしまう。
そんなわたしの様子になにを思ったのか、ショックを受けたように愕然としたあと、イツキの顔が今にも泣きそうに歪みはじめて、慌ててその手を握った。
ホッとした表情が彼の顔に浮かび、ゆっくりと微笑みが戻っていく。
わたしのほうこそホッとした。なにもそんなことぐらいで泣かなくても、と思う。
さっきまではむしろ、そっちこそ『かか様』じゃないかと思うほど母性的で包容力が全開だったのに。
この変わりようはなんなのだろう。
こちらが素なのだろうか。
イツキの手を取って席を立ち、そんなことを考えながらウサギのもとに向かうと、腕組みをした彼女は「くふふ」と愉快そうに笑っていた。
「普段のそやつは何事にも動じず、全てを受け入れ、大樹らしく泰然と構えておるのだがな。お前のことになると、途端にあの様だ。面白いであろう?」
「……意外には、思った」
「仕方ないのです。だって、かか様が相手なのですよ?」
見上げたイツキの頬は、うっすらと色づいていた。
少しだけ唇を尖らせる仕草が、ちょっと可愛いなと思う。
「ま、わからんでもないが」
さらりとそう答えたウサギは、「さて」と続ける。
「そろそろ説明を始めるとするぞ」
柵に向かって歩きだした彼女のあとに、わたしとイツキも続く。
「まずは起点として、お前とサクラの屋敷の位置からだな」
柵の前に立った彼女は、そう言って視線を下界へ向ける。
横に並んだわたしも、遥か彼方にある大地を見下ろした。
――そして、わたしはそれを見た。
「これ、が」
目を、見張る。
驚きに、口が自然と開いた。
このとき初めて、わたしはこの世界――《天上世界アタラクシア》の全容を目にしたのだ。
アタラクシアの大地は、絶空に存在する、巨大な大陸だった。
山脈があって、湖があって、砂漠があって、森があって、川があって、砂浜があった。
そして丸い形をした大地を、真っ青な海が取り囲んでいる。
穏やかな海は相当な面積があり、ポツポツと島の姿も見受けられる。
しかしそれも無限ではない。陸の直径に匹敵するほど距離の離れた沖合で、唐突に海面は途切れていた。
そこが、大陸の終端なのだろう。海の水は大陸の果てで大瀑布となって、光も届かない深淵へ流れ落ちていた。
大陸の終端の向こうはただ『青い空』が続くだけで、他にはなにも存在していない。
果てがあるようにも、見えない。或いは、無限に続いているのかもしれない。
――そう。
この大地は絶海の孤島などではない。
どのような仕組みになっているのか、どこまでも続く青い空――絶空に囲まれた、大海を擁する大陸なのだ。
「陸の中心に、高く隆起した柱のようなものがあるだろう? あそこはアタラクシアの者どもからは《玉座》と呼ばれておる。お前の暮らす屋敷がある場所だな」
地球では決して有り得ない光景を目の当たりにして呆然としていたわたしは、ウサギの言葉に我に返った。
彼女が指差す方向を見てみれば、たしかになんとなく見覚えのあるような気がする台地があった。
ただこの高さからだと、鉛筆のようにしか見えない。
近くには(この真下でもある)円の形に広がる星神樹の緑の枝葉も確認できた。台地が鉛筆なら、そちらはテニスボールぐらいの大きさである。
「《玉座》はこの世界の中心にあたる。そこを基準点にして、お前の屋敷が面している方角を南、逆を北、北を向いて右手側を東、左手側を西としている。まあ、このあたりはお前の世界と同じだな。北に行けばいくほど気温が下がり、南はその逆であるというのも」
次いで、地上に向けられていたウサギの指が台地よりも下方――南の方角へずれる。
「その南に、ふたつの大きな山脈があるのが見えるか? うむ。それよ。岩と鉱物ばかりゴロゴロしている禿山が《鋼竜山脈》、もう一方の豊かな緑に覆われて山頂には雪が積もっているほうが《竜珠山脈》と呼ばれておる。黒と白の神竜がそれぞれ棲家にしていてな、昨日も派手にやり合っておっただろう? 飽きもせず事あるごとに縄張り争いを繰り返している」
そう言われて思い出すのは、昨日、絶壁の縁に立って目にした光景。
漆黒と純白のドラゴンがビームのようなものを撃ち合う姿だった。
「あれが、神竜……」
「まあ、実態は単なる脳筋であるがな。白いほうは取り繕って妙に理性的な言動をするが、どっちもどっちだ。五十歩百歩であろうよ」
身も蓋もない表現だった。
たしかに昨日の様子を見るかぎり、理性的とは口が避けても言えないけれど。
「あまりにも酷いときは、ほかの方々に両方まとめて袋叩きにされていますよ」
イツキが、くすりと笑って言う。
「四方八方から色とりどりの光線を撃たれて空で派手に爆散する様は、一見の価値があります。カラフルな花火みたいでとても綺麗なんです。今度、一緒に見ましょうね」
「え……あ、う、うん。そのうち、ね」
反応に困る。
その状況は一大事のような気がするのだが、この世界の住人からするとそうでもないのだろうか。
それとも一種の見世物になってしまうぐらい頻繁に起こっているのだろうか。
ウサギの言葉もそうだったが、ドラゴン、ましてや神と名のつく存在だというのに扱いが思いのほか軽い。
昨日目にしたときは、相当に圧倒されるものを感じたのだけれども。
「説明を続けるぞ。鋼竜と竜珠、南のふたつの山脈に対して北にもひとつ大きな山脈がある。《白神連峰》――永久の雪と氷に覆われた極寒の山々だ」
ウサギの指が動く。
それを追って視線を北へ移せば、たしかに。
周囲の森は青々としているというのに、ちょうど《玉座》と大陸北端の中間に位置するその山脈だけが白いもので覆われていた。
まるで明確な境界があるかのように山全体が隙間なく白一色に染まり、周囲の緑からくっきりと浮き上がっている。
「暑さを厭う連中が集まってな、ああやって結界を張り引きこもっておるのだ。冬になれば顔を出す者もいるが、今は夏真っ盛りだからな、当分は出てこんだろうよ」
「……やっぱり、今って夏なんだ。この世界にも四季があるんだね」
わたしの言葉に、ウサギは頷く。
東から昇った太陽が西に沈み、再び昇るまでを一日として、それが365日で一年。
その一年のうちには四季があり、それぞれ春夏秋冬と呼称されている。
これもまた、わたしの世界――日本と同じであると彼女は説明した。
それを聞いてふと疑問に思うことがあったが、今はとりあえず彼女の話に耳を傾ける。
「その他の特筆すべき地形は、鋼竜山脈と竜珠山脈のさらに南に広がる《夢幻砂漠》と、《玉座》の東に位置する《昏き森》、北西に広がる《精霊湖》ぐらいだろう」
スッスッス、とウサギが動かした三箇所を順に見やる。
大陸南、ふたつの山脈と南端までの間には広大な砂漠があった。それは大陸を縁取るように東(砂漠を基準にすれば北東)へ続いており、その先、ちょうど《玉座》の真東にあたる一帯には霧に包まれた薄暗い森が広がっている。これが昏き森だろう。
次に、《玉座》の北西。
そこには横に長く伸びた、大きな湖があった。湖からは数多くの川が大陸各地へ流れ出ている。
「精霊湖には名前のとおり精霊の神が住み着いておる。そやつが四六時中水を生み出しておってな、それがアタラクシアの水源のひとつとなっている。もうひとつは、空も海も所構わず泳いでおる水神のやつだ。まあ、でかいクジラだな」
思い出すのは、昨日見た空飛ぶクジラ。
たしかサクラも水神と言っていた。
「基本的に一日の半分は海におってな、海水のほとんどはあやつが生み出している。それに雨雲とは別に、気ままに雨を降らすこともある。大陸の外縁から深淵へ水が流れ落ちていっても水がなくならんのは、この水神と精霊神が絶えず供給しておるからだ」
ウサギの言葉に、わたしはなるほど、と頷く。
たしかに海の水があれだけの大瀑布となって常に流出していたら、供給がなければすぐに枯れてしまうだろう。
その両者はアタラクシアを成り立たせる上で、かなり重要な存在になるわけだ。
「かか様、ぼくの本体があそこまで成長できたのも、彼らの存在――その水に含まれる神力による部分が大きいのですよ」
イツキが振ってきた話題に、わたしは視線を隣へ向ける。
「もちろん、大地から与えられる要の力がもっとも重要であることは変わりませんが、それを後押しする役割を彼らの水は果たしてくれました。ありがたいことです」
そう語る彼の目には、純粋な感謝が浮かんでいた。
神的存在である星神樹にとっても、やはり普通の植物のように水は重要ということなのだろう。
「――とまあ、少しばかり脱線したが、アタラクシアの地理をざっと説明するとそのような感じになる。どうだ、なんとなく全体像はつかめたか?」
ウサギの言葉に、わたしは頷く。
大陸全体が見渡せる遥か上空から説明されたので、とてもわかりやすかった。
彼女がまずここに連れてきたというのも納得である。
「あとはまあ、《玉座》の周囲にはアタラクシアの食料庫である農耕神の農場だとか、獣神の放牧場などもあるのだがな。この高さからでは見分けがつかんだろう」
覗き込んでみる。
たしかに森や草原があるのは確認できるが、どれも同じに見える。ここからでは判別は難しかった。
「そちらはこのあと実際に訪れて、お前の紹介も兼ねて説明する予定だ。この世界で暮らしていくにあたって、人であるお前にとって食糧の供給源は大事であろうからな。なにかと世話になるだろう」
そう言われて想像したのは、今日の朝食のメニュー。
ご飯、お味噌汁、卵焼き、大根ときゅうりの漬物。
おそらくはあれらに使われた食材も、その農場や牧場で育てられたものなのだろう。
あちらの世界では口にしたことがないほどに、ぎゅっと素材の味が凝縮されていた。
――と、そんなことを思いだしていたからだろうか。
きゅるるる。
わたしのお腹から、小さな音が聞こえてきた。
咄嗟に両手でお腹を押さえる。
きゅるる。
けれどその甲斐なく、また鳴ってしまう。
……わたしは、俯いた。
「…………」
沈黙が流れる。
ふたりの視線が自分のつむじのあたりに集まっているのを感じるけれど、恥ずかしくて顔を上げられない。
「くふん」
ウサギの特徴的なあの笑い声が聞こえた。
くふっ、ふふっ、ふふふ――と彼女は笑いだす。
それを耳にして、なおさら顔を上げることができなくなってしまった。
「あ、あのネコが、たかが腹の音が鳴っただけで羞恥のあまり俯いてしまうとか、やめい! 吾れを笑い殺すつもりか!」
ついにはお腹を抱えて笑い転げはじめる角つき少女の姿に、なにもそんなに笑うことないでしょ、と思う。
お腹の音を他の人に聞かれたら、女の子なら誰だって恥ずかしく思うはずだ。
そんなことをぶちぶちと心の中で愚痴っていると、
「は、はあーーーーん! か、かわいい! かか様かわいい! なんですなんです、その初心な反応!」
がばり、と突然横合いから抱きしめられてしまった。
イツキである。
「ていうかちゃんとかか様にも恥じらいがあったのですね! 『わたしのお腹の音が鳴ったらそれがすなわち食事どき。すぐにご飯を用意するの』とか『下着とか鬱陶しいから要らなくない?』とか『身体洗うのとか超めんどい。全部イツキがやって』とか、そういうことばかり言うものだから、てっきり羞恥心とか存在しないものだと」
それ、絶対わたしじゃない。
やっぱりみんなの言う『わたし』は別人なのでは? という一抹の不安が生じる。
いずれわかる、とか言われても、そんなふうに厚顔無恥な『わたし』なんてわかりたくもないのが正直なところだ。
「くふん、くふっ、まあ、ネコの恥じらいについてはあとでまた話すとして、そろそろ昼時であるからな。そやつが腹を空かせるのも無理はないだろうよ」
「ああ、そういえばそのような時間でしたか。では、足場を下ろしてからご用意しますね」
「フルーツはたんまり並べるのだぞ。リンゴにオレンジにサクランボに――」
「はいはい、わかっていますよ」
わたしはそんなふたりの会話を、イツキの胸の中で聞いていた。
お腹の音を聞かれてしまったのは、とても恥ずかしかったけれど。
でもわたしのお腹の音が鳴って、ただそれだけで、わたしだけのためにご飯の準備をしようと思ってくれる誰かがいる――その事実が、わたしの中の空っぽだった場所に、なにかを満たしていく。
ここには、自分でも制御できないどうしようもないモノによって起こされる、理不尽な出来事を責めて、怒って、罵って、勝手に失望して、「お前に食べさせるご飯などない」と暗い部屋に閉じ込める誰かなんていないのだ。
今までずっと満たされることのなかったものが、この世界に来たとき、あの美しいひとに出会ったときから、少しずつ少しずつ、わたしの中に注がれ続けている。
――いつか、それがこの胸をいっぱいに満たすときがくるのだろうか。
くればいい、と思う。
そうあってほしい、と願う。
ぎゅうっと、顔をイツキの胸に押し付ける。
草木の匂い、自然の香りがわたしを包んでいく。
「大丈夫です、かか様。ぼくは、ずっとここにいます。いつでも、ここからあなたを見守っています」
その声が耳に届いたとき。
自分の全てが、巨大な掌にやさしく包み込まれる光景を、わたしは幻視した。