05. 星神樹
「絶対手を離さないでね! 絶対だからね!」
「だから、わかっていると言っておるであろうが。今のお前がこの高さから落ちたら、ぐしゃあって感じになるからな。それは吾れも本意ではない」
「い、言わないでよ! 想像しちゃうでしょ!」
「なあに。もし落ちても、そうなる前に吾れがキャッチしてやるから心配せんともよいぞ」
「落、と、す、な! って言ってるの!」
「わかっとるわかっとる」
返ってきた答えは適当にすぎるものだったが、それ以上言い募る精神的余裕は、今のわたしには存在していなかった。
――現在のわたしは、地上から遠く離れた空の上を、ウサギに抱えられて飛んでいるところだった。
地表が霞んでしまいそうなほどの高さ。
身体を支えるものはお腹に回されたウサギの両腕だけで、心もとないこと甚だしい。
「……ひ、ふ、」
歯が、カチカチと鳴っていた。
手足は縮こまり、硬直したまま動かない。
遠くなりそうな意識を、辛うじて繋ぎ止めるので精一杯だった。
不思議と風の抵抗はなく、単に翼で飛んでいるだけとは思えないほど安定していたが、それでも怖いものは怖かった。
根源的な恐ろしさだった。
人間は地を這う生き物で、空を飛ぶようには作られていないのだ。
その身体も、心も。
だからわたしがこれほどに取り乱しているのも、仕方がないと思う。
絶対そうだ。まちがいない。
「まさかネコが、空を飛ぶだけでこのような姿を晒すとはなぁ。初々しいというか、なんというか」
「う、うるさい! これは人間なら仕方のないことなの! 人は空なんて飛ばないんだからね!」
「お? お前の世界だとそうなのか? 吾れのいたところでは、そこまで珍しくもなかったような記憶があるが」
「の、乗り物を使って飛ぶのは当たり前だったけど、直接飛ぶような人はいなかった……と、おもう」
「吾れ、知っておるぞ。ひこーきとかいうやつであろう?」
「……なんで知ってるの」
「くふふ、吾れは物知りさんなのだ」
眼下の景色から必死に意識をそらして、ウサギとの会話に集中する。
そうしているうちに、わたしの心は段々と落ち着きを取り戻してきた。
それでも眼下の光景をまともに見ることはまだ無理だったから、首を上げてひたすらに前だけを見据える。
「……それで、わたしをどこに連れてくの? この状態で案内なんてされても、耳の右から左だよ」
「案ずるな。いま少しすれば落ち着ける場所に着く」
「って言っても、先にあるのはあのおっきな……もしかして、あそこが目的地?」
「うむ。あれこそがアタラクシアに根付く最古の神木――」
わたしたちが飛ぶ先には、まさに天を突くといった表現が相応しい、あの巨大な大樹がそびえ立っていた。
徐々に近づいていっているはずなのに、ちっとも大きさが変わらない。
遠近感が狂う。
いつまでも辿り着けない蜃気楼を目指しているかのような気分になってしまう。
「《星神樹》。吾れらの、第一の目的地だ」
「はー…………」
遠目から見たときも圧倒されたが、いざ近くまで寄ってみるとその比ではなかった。
気圧されるというより、現実感がない。
それは、あまりにも巨大すぎた。巨大すぎて、近づきすぎると全体を捉えきれない。
視界いっぱいに広がるのは岩壁のような褐色の幹だけ。
右を見ても左を見ても、下を見ても(小さな悲鳴が漏れた!)、上を見ても、同じ光景が広がっていた。
「すごい。おっきい」
「くふっ、そうだろう? すごいし、おっきいのだ!」
わたしの率直な感想に、大きく翼をはためかせその場で滞空していたウサギは、自慢げに答える。
「でも、どうしてこんな中途半端な位置に? 天辺はもっとずっと上のほうだけど」
「天頂まで飛ぶのは骨が折れるからな。それは、こやつに任せるとするさ」
そのウサギの言葉の意味がわからず、わたしが聞き返そうとしたとき。
星神樹に変化が起きた。
幹の表皮がぱっくりと裂けたかと思うと、奥に続く空洞のようなものが現れたのだ。
人が複数横に並んで歩けるぐらいの広さのそれは、さながら地上の洞窟そのものだった。
わたしが目を丸くしているうちに、ウサギは滑空してその空洞に進入して、降り立つ。
「これが、木の中……? 本当の洞窟みたい」
足場は硬くゴツゴツとしており、まるで岩肌のような様相。
空洞はずっと先まで続いており、入り口からその果てを確認することはできない。
いかなる仕組みか洞の表面が蛍の光のようにポツポツと点灯しており、そのおかげである程度視界はきくのだが、それでもなお深奥は暗闇に包まれていた。
「これ、どうなってるの?」
「どうもなにも、吾れの言葉を聞いてこやつが気を利かせたのであろうよ」
「聞く? 気を利かす?」
「ふむん? ……ああ、そこからか」
首を捻って不思議そうにしていたウサギだったが、やがて納得したように頷く。
「星神樹も神的存在のひとつ。こやつは明確な意思を有しておるのだ。それゆえ、吾れらを天頂に運ぶために内部へ招き入れたのだろう」
「……じゃあ、この空洞を進んでいけばそのうち、頂上に辿り着くってこと?」
「うむ。詳しくは、ゆけばわかろう」
翼を収納したウサギは、そう言うなり自然とわたしの手を握って歩きはじめた。
いかにも大人の女のひとといった感じのサクラとちがって、ウサギはちょっとぐらいしか年上に見えない外見だったから、手を繋いで(ついでに寄り添って)歩くのは、なんだか友達とそうしているようで少し恥ずかしさがあった。
けれど意思を持った生き物の中に入る――ということに不安や緊張を覚えて、落ち着かない気持ちになっていたから、この場は素直に従うことにした。
「…………」
空洞内に、ぺったんぺったんと、気の抜けた足音が響いていた。
わたしのものではない。
ウサギのほうからだった。
足元を見てみると、彼女は安っぽいビーチサンダルを履いていた。
よくそれでこのデコボコした地面を歩いて転ばないな、と妙なところで感心してしまう。
何度か道を曲がり、歩き続けることしばし。
転倒しないよう、ずっと足元を注視していたわたしは、唐突にウサギが足を止めたので顔を上げた。
「……行き止まり?」
見れば、わたしたちの行く手には壁が立ちはだかっていた。
左右を確認するも、そこにも壁があるだけで続く道は見当たらない。
「ねえ、これってどういう――」
隣のウサギを見上げてわたしが問いかけたとき、前方からパキパキと乾いた音が聞こえた。
慌てて視線を戻す。
行く手を阻んでいた壁に、裂け目が生じていた。ちょうど、この空洞が現れたときのように。
人がひとり通れるぐらいの隙間が空いたところで、変化は止まる。
裂け目から、光が漏れた。陽の光ではないようだったが、あちら側の空間はこちらより何倍も明るいらしい。
「入るぞ」
「だ、大丈夫なの?」
反射的にそう訊いていたわたしを、ウサギは呆れたように見下ろした。
「こやつがお前に害をなすことなど、三千世界の全てが滅びても有り得んよ。そんなこと言ってあとで泣かれても知らんからな、吾れは」
そう言い残して、ウサギはさっさと中に入ってしまう。必然、手を繋いだままのわたしも、あとに続くことになる。
――裂け目をくぐった先に広がっていたのは、円形の空間だった。
広さはたぶん、六畳とか八畳とかそのぐらい(施設の四人詰め子供部屋がそのぐらいだった)。
入ってきた裂け目以外に、どこかにつながる出入り口は見当たらない。
ここの壁も蛍が張り付いているかのように点々と光っていたが、その数、密度が通路とは段違いだった。
あちらが都心の夜空だとするなら、こちらは人工の灯りが一切存在しない大自然の満点の星空。
頭上を仰いでみればそこには天井がなく、ぽっかりと開けた空間がどこまでも続いている。
上に行けば行くほど壁の発する星の輝きがより集まり、重なって、最奥では一番星のような強い一点の輝きに収束していた。
「うむ。ここまで来れば、あとは黙って立っておるだけで天頂まで勝手に運んでくれるぞ」
声に、視線をかたわらのウサギに戻す。
「……どうやって?」
「あれだ、人間の機械でいうところのエレベーターとかいうやつと同じだ」
そう言ったウサギは、ぺちぺちと足の裏で地面を叩く。
「床がせり上がって、昇っていくのだ」
その言葉と時を同じくして。
ゴ、と足の裏が揺れた。
細かな振動が下から伝わってくる。
次いで、周囲の壁が下方へズレていく――いや、ウサギの言葉から考えると、逆なのだろう。わたしたちの立つ地面が、昇っているのだ。
「この上に真っ直ぐ伸びた空間は、星神樹における水の通り道――道管のひとつらしいぞ」
「道管……」
理科の授業で習ったような気がする。
「水を汲み上げる勢いを利用して上へ移動しているというわけだ」
「…………」
たしかにこれだけ巨大な木だったら、道管がこのぐらいの大きさであってもおかしくはないのかもしれない。
けれどそのスケールが大きすぎて、こうして目の当たりにしても実感が湧かなかった。
外側から幹を間近に見たときと同じだ。
人間の尺度しか持っていないわたしからすると、この世界で遭遇するもののほとんどは、その範囲から大いに逸脱してしまっている。
人の物差しでは、はかりきれない。
こういった認識のズレも、この世界で暮らしていくうちに自然と修正されていくのだろうか。
……いくのだろう。
おそらく、それがこの世界に馴染むということだ。
早くそうなって、このアタラクシアのたしかな住人になりたいと思う。
一方で、自分が別のなにかに変わってしまうことに怯える気持ちも存在していた。
周囲が変わることはいい。わたしの望むように変わってくれることに文句なんてない。
けれどそれに合わせて自分まで変わってしまうことに、幾ばくかの不安があった。
それは、正しいのだろうか。
「ほっほう。ネコ、そろそろ出るぞ」
わたしの物思いは、ウサギの声に遮られた。
意識を現実に戻せば、妙に身体が重かった。上から押し付けられるような感覚。身体に、負荷が掛かっている。
視線を周囲に向ければ、壁の光点が恐ろしいほどの速さで下へ消えていくのが見えた。
そして足元から伝わってくる、段々と激しくなる振動。
今この床板は、凄まじい勢いで上昇していた。
身体に掛かる負荷が、たったこれだけなのかと思うほどの速度。
それでも普段の倍ぐらいには重く感じる頭を持ち上げて、天を仰ぐ。
光、光、光。
上昇する速度のあまりの大きさに、壁が発する点光が残像を描いて、天から地へ無数の軌跡を残していく。
その光の筋はやがて激しい川の流れのような奔流となり、輝きは刻一刻と強さを増していく。
やがては視界の全てが真っ白になるほどに至り――。
「抜けるぞ!」
「――――――――!!」
輝きが頂点に達したとき、わたしたちの身体はまるでロケットのように道管の中から射出された。
足場にしていた木板ごと、空中に投げ出される。
麦わら帽子が飛んでいかないよう必死に手で押さえていたわたしが最初に感じたのは、眩さ。
道管の中の光とは異なる、あたたかな太陽の輝き。
次いで眼前に広がったのは青。
雲ひとつなく、どこまでも澄み渡った青空。
深く、濃い、青藍。
「…………」
この瞬間ばかりは、現在自分が置かれた状況も、それに対する恐怖も忘れて、わたしは目の前の光景に見とれた。
あまりにも美しい蒼空。
遮るものがなにひとつない広大な天。
心が、わたしという肉体から解き放たれて、どこまでも広がっていく様を幻視した。
そこには、ここには、ただ自由があった。無限があった。
わたしは、世界と一体となっていた。
けれど、わたしがそんな感覚に身を委ねていられたのは、ほんのひと時だった。
天空へ飛び上がっていた身体が、再び重力に引き戻される時間がやってくる。
我に返った。
落ちる、と思った。
「!?」
しかしそうはならなかった。
眼下――雲海のように広がる星神樹の緑、梢から弾丸のような速さで伸びてくるものがあったのだ。
葉が一枚もなっていない、枝である。それも一本だけでなく何十本も。
それらはわたしたちが足場にしていた木板に絡みつくと、不可思議な強度によって、下から押し上げた状態のまま空中に固定してしまう。
さらに木板の上を蔦のように這い伸びていき、その表面を完全に覆い隠すまでになったところで、ようやく伸長を止める。
しかし変化は、それだけでは終わらなかった。
今度は絡みついた枝から小さな芽が出てきたかと思うと、あっという間に成長して青々とした若葉を茂らせ、枯れ枝の集まりのようだった足場一面を見るも鮮やかな緑の絨毯へと変える。
加えてところどどころでは色彩豊かな花々まで咲きはじめた。
それら一連の出来事が、ほんの数分の間に起こった。
星神樹の頭上に突如として生まれた、花々と若葉で彩られた小さな空中庭園。
わたしはそれらが作れていくのを、その場に立ちつくして眺めていることしかできなかった。
「くふん。あやつめ、ずいぶんとまたはしゃいでおるようだな。この手間の掛けようもそうだが、道管から外部にあのような勢いで打ち出す真似など、普段であれば決してせんだろうに」
「――しかたないでしょう。かか様の稚く可愛らしい姿を目の当たりにして、平常でいろというのが無理な話なのです」
ウサギの言葉に応える声は、わたしたちの背後から聞こえてきた。
振り向けば、いつの間にかそこには見知らぬ誰かが立っていた。
茶褐色の瞳に、緑色の長髪をやわらかく波打たせた、中性的な顔つきの、ひと。
その全身には半透明の羽衣のようなものが幾重にも巻きついており、重力に逆らうように宙をふわふわと漂っている。
その羽衣に隠されて、彼、もしくは彼女の身体のラインはいまいちはっきりしない。
中性的な顔つき、体つき――そのせいで外側からは性別を判断することはできなかった。
もっとも、神様に性別は存在しないのかもしれないけれど。
「初めまして、かか様。こうしてお会いすることができて、とてもうれしく思っています」
そう言って、相手はにこりと微笑む。
わたしに向けられた眼差しはとてもやわらかで、あたたかな感情にあふれていた。
「ぼくはイツキ。この星神樹の意思そのもの。この日が訪れるのを、幾千幾億もの古よりお待ちしておりました」
そう告げる彼、ないし彼女――イツキの声には、隠しきれないよろこびがあった。
頬を桜色に染めた彼は(ぼくと言っているので、ひとまず彼ということにする)、首をやや傾かせて、はにかんだように笑う。
その言葉と笑みを向けられて。
わたしの心に、安堵が満ちる。
彼もまた、わたしを求めていたからだ。
――わたしは、たしかに、望まれている。
このとき、わたしはまたひとつ、自分がこの世界にいてもいいという実感、理由を得たのだった。