04. 手と手を重ねて
渡された真新しい下着とワンピースはどちらも同じ生地でできているようで、シルクのように滑らかな肌触りをしていた。
癖になる感触。
つるつるサラサラでありながら、一方で肌に吸い付きフィットするような感覚もあり抜群の着心地だった。
ずっとこの生地に包まれていたいと思ってしまうほどの中毒性がある。
「ほうほう。うむうむ。やはりお前と言えばその格好だな」
「サイズはぴったりのようね。といっても、すぐに合わなくなってしまうのでしょうけど」
着替え終えて、至上の着心地に半ば心を囚われながら縁側に戻ると、そんなわたしを見てサクラとウサギの顔が満足げなものになる。
目を細めて、ふたりはうんうんとしきりに頷く。
それを見て我に返ったわたしは、急に恥ずかしくなり、俯いた。
姿見で確認したかぎりでは、たしかに自分で予想していたほど不格好というわけではなかったけれど、それでもわたしのような無愛想な人間に、こういった可愛い服は似合わないという思いは消えていなかった。
居心地の悪さを感じてしまう。
「ネコ、ちょっとこちらに来て座りなさい」
サクラに手招きされて、わたしは顔を俯かせたまま、元いた場所――サクラとウサギの間に腰を下ろす。
彼女はそんなわたしの髪の毛に指を差し入れると、手櫛でゆっくりと梳きはじめた。
「後ろ髪がはねているわよ。女の子なのだから、身だしなみには気をつけなさい」
「……うん」
「やっぱり、あなたの黒髪と黒瞳には白がよく映えるわね」
「…………」
「この世の如何なる闇よりもなお深く、昏い色彩。そうね、これがあなたの色だわ」
おそらく、褒めてくれているのだろう。
でも、わたしは自分のこの髪と目の色があまり好きではなかった。
黒髪黒目が標準の日本にあっても、わたしの黒は妙に人目を引いた。
光に透かされても決して変わることがない、重く陰鬱な墨色。
無口で愛想なんて欠片もない上にいつも世を拗ねた目をしていたわたしは、同年代の子供からはよく不気味だとか幽霊みたいだとか言われていた。
自分でも、そう思う。
「わたくしはね、好きよ。あなたのこの色」
――彼女に心を読まれたと、そう感じるのはこれで何度目だろうか。
心臓をぎゅっと掴まれたような気持ち。
「きっとこれは始まりの色で、終わりの色でもあるのでしょう。まさに、このアタラクシアの王に相応しい色だわ」
その褒め方は、やっぱり今ひとつわからなかったけれど。
それでも彼女の言葉を聞いて、気持ちが軽くなるのを感じた。
あの公園で、彼女に「迎えにきた」と告げられたときのように、自分の存在を認められた気がした。
それでいいのだと、言ってもらえたように感じた。
「……あり、がと」
俯いて、呟くように口にした言葉は、どうやらサクラの耳まで届いたようだった。
彼女は口元に手を当てて、小さな笑い声を漏らす。
恥ずかしくなったわたしは、彼女から顔を逸らし、そっぽを向いた。
「よしよし。あとは、これをだな……」
と、その視線の先、サクラとは逆側で、ウサギがなにやら難しい顔をしているのが目に入った。ショートパンツのお尻のポケットに手を入れて、ゴソゴソと中を探っているようだった。
「んんぅ、これではなく、それでもなく……むむむ、たしかこのあたりに…………あった!」
やがて目的の物を見つけたのか、パッと顔を輝かせたウサギがポケットから取り出したのは、大きなつばの麦わら帽子だった。
目を剥いてしまう。
どう考えてもポケットに入るサイズではない。今、どうやって取り出したのだろう。急に物体が大きくなったように見えた。
あのポケットは四次元ポケットにでもなっているのだろうか。
「ネコよ、これをお前にくれてやる」
わたしが不思議に思っていると、ウサギはその手に持った麦わら帽子をこちらの頭にすぽっと被せてきた。
「大事にせよ。なにせ吾れの手作りなのだからな」
「……いい、の?」
「くふふ、サクラめがお前のために白ワンピを用意しておったように、これは吾れからお前へのプレゼントであるからな! 遠慮なく受け取るがよい」
「……ありがとう」
帽子のつばを下にひっぱり、表情を隠してお礼の言葉を言うと、ウサギはまた「くふん」と笑いを漏らした。ずいぶんと機嫌が良さそうな声だった。
しかしすぐに「あ」となにかを思い出したような声を上げる。
「そういえば、これを忘れておったな」
ちら、と目を向けると彼女はまたポケットの中に手を突っ込んでいた。
しばらくゴソゴソと探したあとに取り出したのは、手の平ぐらいの大きさの丸い缶バッジ。表面には、ウサギの服に縫い付けられているワッペンと同じ、兎のキャラクターの絵が描かれていた。
……可愛い。
「特別にこれもくれてやろうぞ」
言うなり、彼女はこちらの頭の上に手をのばし、帽子のつばに取り付けた。
「ふむふむ、これでよし。ネコよ、ちょいと軒下に立って吾れらに全身をよく見せてみよ」
サクラに視線を向けると、彼女はにこやかに笑って頷いた。
彼女も見たいらしい。
でも靴は――と思って縁側から庭先をのぞくと、いつの間にか沓脱石の上に黒いサンダルが準備されていた。
元々わたしが履いていたものではない。この世界ではこれを使えということなのだろう。
仕方なくそれを履いて庭先に出たわたしは、ふたりの前に立ってみせた。
「うむ。やはりネコと言えばこの格好であるな。『ポチ』が欠けているが」
「まさにネコって感じよね。サイズは大分ちっちゃいけれど」
「これはこれで可愛い」
「ネコ、ちょっとその場でくるっと回ってごらんなさい。……そうじゃないわよ。もっとこう、スカートの裾がふわっと膨らむような感じで……そう、そんな感じ。……いいわ」
「ネコ、今度は右足に体重を掛けてだな、肘を曲げて腰に手を当てて、……うむ、それでちょっと相手を挑発するというか見下すような感じでな……くふん。なかなか、よいのではないか?」
ひとりファッションショーは、それから十分ぐらい続けさせられた。
いろいろな意味でしんどい時間だった。
穴があったら入りたいと思ったのは、これが生まれて初めてかもしれない。
「では、ゆくとするか!」
見世物にされたことによる精神的疲労を癒すために、縁側でゴロゴロしながら本日二つ目のアイスを食していたところ(サクラとウサギも一緒になって食べていた)、突然ウサギがそんなことを言い出した。
彼女の手には、もうアイスの棒は握られていない。棒ごとポリポリと食べてしまったからだ。
食べるときの姿は、ちょっとだけ兎っぽかった。
「……帰るの?」
むくりと身体を起こしてわたしがそう訊くと、なぜか彼女は不思議そうに首を傾げた。
なにか変なことを言っただろうかと、こちらも首を傾げる。
「なにを言っておるのだネコ。お前もともにゆくに決まっているだろう」
「……?」
「ぬん? ……おお、また先走ってしまったな」
わたしと顔を突き合わせていたウサギは、そう言うとぺちんと自分の額を叩いた。
「いやな、折角だから右も左もわからぬだろうお前に、この世界をざっと案内してやろうかと思ってな」
「……それは、助かるけど」
唐突な申し出だったが、たしかにこの世界のことをほとんど知らないわたしにとってはありがたい話である。
それに、ウサギとはまだ多くを話したわけではないけれど、人付き合いに難があると自覚しているわたしでも、今のところは変に構えることなく、それなりに自然体で会話することができていた。
なんとなく仲良くできそうな予感もあったので、なおさらそう思う。
わたしがサクラの顔を窺うと、彼女は頷いて「好きになさい」と言った。
「あなたが十五になるまでは、とくにあなたの行動に口を出すつもりはないわ。自由に過ごしなさい。……まあ、屋敷に引きこもられるよりは、他の者たちと交流を深めてもらったほうがわたくしも安心できるけれど」
「それは、まあ、おいおい……がんばる」
なんとかなりそうな感覚は、少なからずあった。
神様となんてどう交流していいかわからなかったけれど、ウサギと実際に話をしてみて、そこまで難しくないのではという考えがわいていたからだ。
たしかに姿形や身にまとう雰囲気、気配は人間と異なっていたけれど、物の考え方というか精神は、そこまでわたしたちとかけ離れているようには思えなかった。
実際、わたしは心の中では無意識に『ひとり』『ふたり』と数えて、彼女たちを人間と同じように扱っていた。
……まあ、人型の彼女らをいちいち『一体』『一柱』とか区別するのが面倒だったからという部分もあるのだけれど。
ともあれ、ウサギやサクラには神様という大仰な存在にしては人間臭い部分が多々見受けられて、たぶん、これからもその印象は変わらないのだろうという気がする。
これも、予感だ。
どうも、この世界に来てから妙に頭がすっきりしているというか、勘が鋭くなったという感覚がある。心に余裕ができたおかげかもしれない。
或いは、これもわたしの力と魂がこの世界に馴染んできている証なのか。
一日や二日程度で変わるものでもなさそうだから、ただの思いこみかもしれないけれど。
「ええ、それでいいわ。結局は、なるようになるのでしょうから」
わたしのはっきりしない答えを聞いても、サクラの態度に変化はなかった。
心配していないのか、それとも実際のところは他の住人と交流を持とうが持つまいがどうでもいいと考えているのか。
わたしには、わからなかった。
「よし! サクラの許可も出たことであるし、早速出立するか!」
サクラの答えを聞くなり、ウサギが勢いよく、それこそ兎のようにぴょんと立ち上がった。
兎のワッペンが縫い付けられたお尻をパンパンと軽く手で叩くと、くるりとこちらを振り返る。
その顔に浮かんでいるのは――満面の、笑み。
「ほれ、ゆくぞ!」
座ったままのわたしに向けて、彼女は手を差し伸ばす。
その顔を見上げて、わたしは。
一瞬、見とれた。
うれしいという感情がはちきれんばかりにあふれた、笑み。
明るく、眩しく、ひかり輝くそれは、まるで太陽そのもの。
きっと一生掛かってもわたしには浮かべることができないであろう表情。
「――――」
自然と、彼女に向かって、自分の手を伸ばしていた。
無意識の行動だった。
吸い込まれるように彼女とわたしの手の平が重なって、繋がる。
きゅっと握りしめられた。
「くふん」
繋がった手をぐいっと強い力で引っ張られて、わたしは地面の上に降り立つ。
ウサギはそのままわたしの手を引くと、庭の真ん中までズンズンと進んでいった。
「今のお前には『ポチ』がいないからな。特別に今日は吾れが運んでやろう!」
「えっ?」
庭の中央で立ち止まった彼女は、突然わたしの身体をくるりと回すと、背後から覆いかぶさるように抱きついてきた。
左右から伸びてきた腕がお腹のあたりに回され、身長差からわたしは彼女の胸の中にすっぽりと抱えられる形となる。
「あ、あの、えっと」
突然のことに、ドギマギしてしまう。
こういうふうに誰かに抱きしめられたことなんてほとんどなかったから、なおさら緊張する。
自分以外の匂い。温度。
よく日に当てたお布団みたいな、懐かしさを感じる香り。熱いぐらいの体温。
やっぱりお日様みたいだ、とわたしは思う。
「むん!」
わたしが身動きすることもできずに硬直していると、頭上でウサギがそんな掛け声を放った。
背後で、ゴキゴキという聞き覚えがある猟奇的な音が生じる。そしてバサリとなにか大きいものが横に広がる気配。
首を曲げて見れば、ウサギの背中には来訪したときのように黒翼が広げられていた。
――まさか。
それを見て、わたしはこれから自分の身になにが起きるのかを、遅まきながら察した。
「ちょ、ま――」
「飛ぶぞ――!!」
わたしの制止の声は、間に合わなかった。
黒翼が大きく羽ばたいた次の瞬間。
わたしたちの身体は、凄まじい勢いで、地上から空へと飛び出していた。
あっという間に遠ざかる地面。
屋敷の縁側に腰掛けたままのサクラが、呑気にこちらへ手を振っているのが視界の端に見えた気がした。