03. ウサギ
一通りの説明が終わって。
サクラは用事があると言い残して席を外した。
とはいってもどこかに出かけたわけではなく、屋敷の別棟に移ってなにかをしているようだった。
好きにしていていいと言われたけれど、この地に来たばかりのわたしに他に行くあてはない。
しかたなく開放された縁側に移動して、そこから庭の景色をぼうっと眺める。
先ほど頭をよぎった、もしも人違いだったらということは頭の中から追い出して、考えないようにしていた。
大丈夫。
そんなことは、ありえない。
ここが、わたしのいるべき場所なのだ。
自分に言い聞かせて、意識を目の前に向ける。
そこに広がっているのは、一般の邸宅なら丸ごと収まってしまうだろう大きさの、よく整備された庭園。
外縁を森に囲まれたその庭からは、どことなくわたしの暮らしていた地――日本的な要素が感じられた。
地面に埋められた飛び石で作られた通り道。
庭のそこかしこに配置された、自然そのままの形を残した庭石。
盆栽をそのまま大きくしたような、綺麗に形を整えられた庭木。
小さな橋が掛かった、ひょうたん型の池――鯉だろうか、今も一匹魚が跳ねて水しぶきに陽が反射していた。
天を、仰ぐ。
青空だった。雲ひとつない晴天。
日本の夏に近い陽気だったが、空気はこちらのほうがカラッとしている。そのせいか、さほど暑苦しいとは感じなかった。
「神様の世界……。天上世界っていうぐらいなのに、そこにも天があるって、なんだか矛盾してる気がする」
きっと、高度的な意味での天地ということではないのだろうけど。
視線を庭に戻す。
後ろの床に手をついて、身体をやや仰け反らせながら、足をブラブラさせる。
「……あと五年。十五になるまで好きに暮らせって言われても」
それまでなにをして過ごせばいいのだろう。
地球には戻れないのだろうし、ということは学校に行く必要もないということだ。
これからは毎日が夏休みというわけである。
もとから学校なんて好きではなかったけれど、ないならないで、一日の大半が暇になってしまい、ちょっと困る。
ここにはテレビとかゲームがあったりするのだろうか。
冷蔵庫やコンロ、炊飯器もあったからあってもおかしくはないのだけれど、今のところは確認できていなかった。
というか電化製品が動いているということは、このお屋敷、電気が通っているのだろうか。
居間を振り返ってコンセントの類をさがしてみるも、少なくともここから見える範囲には確認できなかった。
謎である。
「それに、サクラはいいとして、他の神様とどう接したらいいんだろう……」
クラスメイトとさえもまともな交友関係を築けなかったわたしである。
友達と呼べる相手なんて、生まれこのかたひとりもできたことがないのだ。
同じ人間相手でさえそうなのだから、神様が相手ではなおさら難しいように思う。
『これから』に対する不安、心配、恐れ。
そういったものが今更ながらに忍び寄ってきて、気分が徐々に沈みはじめたときのことである。
ふと、庭の真ん中に影のようなものが出来ていることに気づいた。
「……?」
不思議に思って上を向いてみれば、屋敷の上空に、なにか大きな風呂敷のようなものが浮いているのを見つける。
――いや、ちがう。
あれは、『翼』だった
人体の何倍もの大きさの黒い翼。それを有した『なにか』が屋敷上空を飛んでいたのだ。
わたしがまず連想したのは、昨日目にした空を飛ぶ生き物――ドラゴン。
「じゃ、ない?」
目を凝らしてよく見てみれば、視線の先の『なにか』はドラゴンとは明らかに造形が異なっていた。
翼は大きいものの、その持ち主、胴体は思いのほか小さい。
というより、あれは……人のように、見える。
「……あれ?」
それまでぐるぐると同じところを旋回していた翼人(仮称)の動きが、唐突に変わった。
まるで、こちらの視線に気づいたかのように。わたしの意識が、自分へ集中するのを待っていたかのように。
横に広がっていた翼が閉じる。
次いで頭が真下になり、揚力を失った身体は、そのまま真っ直ぐ――。
「……え、ちょっと」
こちらに向かって、垂直落下してきた。
弾丸のように一直線に突っ込んでくるソレはまったく減速する様子を見せず、瞬く間に近づいてきて、
「――ッ!?」
あわや地面に激突する!――という寸前で、その大きな翼を全開にした。
「わ、わぷっ」
ごうっと、あたりに凄まじい強風が吹き荒れる。
目を開けていることもできず、わたしは瞼をぎゅっと強く閉じた。少しでも突風の勢いを弱めるため、頭を下げて両腕を顔の前で交差させる。
髪の毛が後ろへなびき、襦袢の裾、襟元、袖口がバタバタと音を立てて翻る。
それが、十秒ほど続いただろうか。
ようやく風がおさまり、あたりに静けさが戻ってくる。
「っ……」
恐る恐る、瞼を開く。
顔を庇っていた両腕を下げ、伏せていた顔を上げる。
すると、そこには。
「ふふん。ネコよ、吾れが来てやったぞ」
人、のようなモノがいた。
中学生か高校生ぐらいの、女の子に見えるモノ。
顎先までの長さの白銀の髪。白く透き通るような肌。ルビーのように鮮やかな、真紅の瞳。
身にまとうのは、真っ白なタンクトップに、デニム生地の黒いショートパンツ。サンダル。
ここだけを見れば、ちょっと露出の激しい西洋の女の子といった感じだった。
けれど、彼女が持つほかの要素がそれを根底から否定していた。
――頭の両脇から生えて、後頭部に向かって伸びる捻くれた黒角。
――背中から両横に向かって広がる、映画スクリーンの半分ほどの大きさがある黒翼。
彼女は、人ならざるものだった。
庭に降り立ったのは、異形の姿をした『なにか』だったのだ。
「くふふ」
小ぶりな胸の前で腕組みをした彼女は、庭の真ん中に仁王立ちして、わたしを見つめていた。
その顔に浮かんでいるのは、なぜか、したりといった笑み。
お手本のような得意顔だった。
「…………」
あまりに突然のことに、わたしは呆然としてしまっていた。
おそらく彼女もこの世界の神的存在のひとりなのだろう。見た目のとおり、人ではないのだろう。そのぐらいは、言われずともわかる。
しかし、では、人間でありながら王であるというわたしは、彼女らにどのような態度で接するべきなのか。
それが、まったくわからなかった。
結果、わたしは無言のままその場で固まり続けることになり――わたしの視線の先では、角つきの彼女が延々としたり顔を続ける羽目となる。
「…………」
「くふふ」
「…………」
「くふふふ」
「…………」
「くふふふふふ――ってなにか反応せんか! 吾れが莫迦みたいであろうが!」
どうやらこちらのリアクション待ちだったらしい。
しびれを切らしたのは彼女のほうが先だった。
甲高い叫び声を上げた彼女は、幼い子供のように地団駄を踏みはじめる。
「……ごめん、なさい?」
「お前に素直に謝られると、それはそれでなんだか腹が立つ!」
「あの、というか、誰……ですか?」
一応相手は神様ということもあり、敬語を使って訊いてみると、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「うぬう、なんだ敬語など使いおって。気色悪い。それに吾れが誰かなど――ああ、いいや、そうであったな」
せっかくのわたしの気遣いをあまりにもひどい一言で台無しにした彼女は、しかしすぐになにかを思い出した様子で、ひとり納得したように頷いた。
「ふん!」
そして突然気合の声を上げた。
すると彼女の背後に広がっていた黒翼が閉じられ、ゴキゴキというやたらと猟奇的な音を立てながら縮んでいく。
目を丸くして見ている間に、翼はやがて跡形もなく消え去ってしまった。
「うむ。肩が軽い軽い」
首をコキコキと鳴らし、肩をぐるぐる回して調子をたしかめた彼女は「さて」と言って、縁側に座るわたしへ近づいてくる。
内心、わたしは彼女との距離が縮まることに恐ろしさを感じていた。
先ほどからの阿呆みたいな言動で勘違いしそうになるが、この世界の住人である以上、彼女もまた神様に等しい存在なのだ。なによりその身にまとう人ではありえない気配、或いは存在感とでもいうべきものがそう告げていた。
自然と後ろに逃げそうになる身体を、けれど意思の力を総動員して留まらせる。
『まあ、殊更偉ぶる必要もないけれど、少なくとも対等以上の態度はとって然るべきね』
サクラのその言葉が思い出されたからだ。
わたしが彼女に、この世界の神々に求められている役割を果たそうとするのなら、きっと、ここで逃げてはいけなかった。
そのぐらいは、わたしにだってわかる。
臣下にへこへこする王様なんて、いないのだから。
「……ふむん」
目前に立った彼女は、腰に手を当てて胸を張ると、その真っ赤な瞳でわたしを見下ろしてきた。
こちらも虚勢を張って、ぐっと見返す。
彼女はそんなわたしを、右に左に身体を傾けながら、足の先から頭の先までいろいろな角度からじろじろと観察してくる。
「くふっ」
そして、なぜか笑った。
「……なに?」
「いやなに、びっくりするほどちっこいと思ってな! なんだ、ずいぶんと可愛らしいなりではないかネコよ!」
高笑いを上げて、彼女は馴れ馴れしく頭をぺちぺちと叩いてくる。
正直、イラッとした。
反射的にその手を跳ね除けようとして、
「ぐ、ぐぬぬぬ……!」
「くふふ! 今のお前では、吾れの膂力に抗えぬだろうよ!」
両腕でどかそうと思っても、わたしの頭に乗せられた手はビクともしない。恐るべき馬鹿力だった。
「うむ、なるほどなるほど。そうであったな。お前にとっては今この瞬間が吾れとの初めましてになるわけだな」
「……なにを」
「いや、気にするな。いずれわかるとも」
意味深に笑って、彼女はようやくわたしの頭から手を離す。
「では改めて、自己紹介とやらをしようではないか」
また腰に手を当てて胸を張った彼女は、わたしを見下ろして告げる。
「吾れはウサギ。外では世界とか宇宙とかいろいろなものを滅ぼしまくって邪神とか呼ばれておったが、ここではただのウサギだ! ぴっちぴちのJCとかいうやつをやっておる!」
その顔には浮かぶのは、またもやあのしたり顔。
わたしは、その姿を見て思う。
彼女はたしかに神様なのかもしれないけれど。
たぶん、アホにちがいない。
これが、彼女――ウサギとわたしの出会いだった。
「ウサギ……」
「くふん。そうとも、ウサギだぞ。いい名前だろう?」
わたしの目の前に立ったままの彼女は、奇妙な含み笑いを漏らして胸を張る。
その際、強調されたタンクトップの左胸のところに、なにやら可愛らしいワッペンが縫い付けられていることに気づく。
全体的に白くて、丸っこくて、お目々が赤くて、ふたつの長い耳がぴんと垂直に立ったキャラクター。
デフォルメされたウサギである。
……意外と、可愛い。
そのワッペンと、彼女の容姿を見比べてみる。
白に近い銀髪、真紅の瞳、(頑張れば)見ようによっては長耳のように見えなくもない黒角。
「……なるほど」
言われてみれば、ウサギっぽい要素は感じられた。
「いまこのワッペンを見て可愛いと思ったな? くふっ、これは吾れのお手製だぞ! こっちにもあるのだ!」
わたしの視線に気づいたウサギは、見せびらかすように胸を突き出したあと、くるりと回転してお尻を向けてくる。
黒のショートパンツのポケットのところにも、同じワッペンが縫い付けられていた。
というか、お手製なのか。
神様と裁縫という単語が、いまいち結びつかない。
「それで、えっと……ウサギはなにをしにここへ来たの?」
「ほ? そんなもの、お前に会いに来たに決まっておるだろうが。お前の訪れを今か今かと耳を長くして待っていたのだからな。先ほどは気が急くあまりうっかり失念しておったが」
さらり、とウサギはそんなことを口にする。
ストレートな言葉だった。
歓迎、されているのだろう。彼女からはわたしに対する負の感情が微塵も感じられなかった。
サクラもそうだったけれど、どうして彼女たちは初対面であるはずのわたしを、こうまでたやすく受け入れられるのだろう。
「どれ、吾れも茶を馳走になるか」
わたしが反応に困っている間に彼女はサンダルを脱ぎ捨てて屋敷に上がると、ぺちぺちと音を立てながら奥に行ってしまう。
炊事場の冷蔵庫を勝手に開けて中からガラスポットを取り出すと、近くの棚にあったコップに中身を注いでこちらに戻ってくる。
「よっこらせ」
年寄りくさい言葉を口にして、彼女はわたしの隣に腰を下ろした。そしてコップに口をつけると、ごくごくと喉を鳴らして飲んでいく。
「ぷはっ」
あっという間に飲み干してしまうと、彼女は空になったコップを床の上に適当に転がす。
「……勝手に飲んでもよかったの? ここってサクラの家なんでしょ?」
「んー? まあ、またぶつぶつ小言を吐かれるかもしれんが、いつものことよ。気にするな。吾れは気にしない」
自分勝手というか傍若無人というか。
神様というのは、みんなこんな感じなのだろうか。らしいと言えばらしい感じではあるけれど。
「気にしない、じゃないわよ。毎度毎度うちの冷蔵庫に勝手に手をつけて……。少しは遠慮しなさいな」
右手から声が掛かって、ドキリとする。
慌てて顔を向ければ、どうして気づかなかったのかというほどすぐ近くに、呆れ顔のサクラが立っていた。その手には服らしきものを携えている。
まったく気配を感じなかったので、わたしは内心かなり驚いていた。
「ケチケチせずともいいだろうよ。どうせネコがいる時しか飲み食いせんくせに」
「……それとこれとは別問題でしょう」
溜め息まじりにそう答えたサクラは、「……まったく」とぼやきながらわたしのそばに腰を下ろす。
「はい、これ」
横座りになった彼女は、そう言って手にもっていた服らしきものをこちらに差し出してくる。
綺麗に折りたたまれた、白いワンピースだった。
至るところにフリルやレースがあしらわれて、お金持ちのお嬢様とかが着ていそうなドレスに近いもの。わたしなんかでは似合いそうにない可愛らしい服である。
「いつまでも寝間着のままというのもだらしがないから、これに着替えなさい。神的存在の攻撃を受けても滅多なことでは破けたりしないし、汚れも自動的に弾く。濡れても、五分もすれば完全に乾いてしまう優れものよ。中に同じ素材で作った下着も入っているわ」
「おっ、でよったな。サクラ謹製ワンピース」
以前に見たことがあるのか、ウサギが声を上げた。
わたしは差し出されたものを受け取りながら、サクラを見上げる。
「これを、わたしに……?」
「ええ。あなたのために用意していたものよ」
「……こんなの、きっとわたしなんかには似合わないよ」
心の底からそう思ってわたしが言うと、サクラだけでなくウサギも「なにを言っているんだこいつは」といった表情を浮かべる。
なんだか、呆れられているようだった。
「あのな、ネコよ。お前が着ずに、誰がそれを着るというのだ。ネコと言ったら白ワンピ、白ワンピと言ったらネコというぐらいに自明のことではないか」
「……それって、どこの世界の話なの」
「この世界だが?」
小首を傾げながら当然のように即答されてしまって、わたしは口を噤む。あまりに当たり前といった様子だったから、咄嗟に言い返す言葉が思い浮かばなかったのだ。
わたしたちのそんなやり取りを見ていたサクラが、ふう、と疲れたように息を吐く。
「あなたがなんと言おうと、今この屋敷にあるよそ行きの服は、全てそれと同じデザインなの。うだうだ言っていないで、早く着替えていらっしゃいな」
「え? でも、昨日着ていた服は」
「――全て、処分してしまったわ」
今日何度目かになる、背筋がひやりとする声だった。
「今のあなたに、あれらは必要ないもの。あなたに必要なものは、全て、わたくしが与える。だからここへ来る前に持っていたものなんて、もう要らないの」
わたしから顔を背けて、目を細めて。
ひどく冷淡に見える表情、温度を感じさせない声色でサクラは続けた。
わたしはなにも言えなかった。
勝手に、という気持ちはあったけれど、それを口にしてしまったらなにか酷いことが起きそうな予感があったのだ。
だからわたしは貝のように口を閉じて、黙るしかなかった。
「居間の隣室には姿見もあるから、早くそちらで着替えてきなさい。ああ、襦袢はあとでわたくしが洗濯しておくから、そのままにしておいていいわ」
「……うん」
ここに至っては拒否することもできず、わたしは彼女の言葉に従うしかなかった。
彼女の様子に人ならざるものの気配を感じ取って恐ろしかったというのもあるけれど、それ以上に、彼女に嫌われてしまうことを恐れたからだ。
それだけは、絶対に嫌だった。
捨てられるのも、この居場所を奪われるのも、絶対に、嫌だったのだ。