02. 彼女のいるべき場所
一からきちんと説明してほしいというわたしの要望を受けて、サクラはまず大前提として、この《天上世界アタラクシア》とそこに住まう神々についての説明を始めた。
天上世界は三千世界(この世に無数に存在する宇宙、泡沫世界の総称)における原初の世界にして、最果ての地。始まりの世界であり、最後に残る世界であるという。
意味がわからなかったので、このあたりの説明は聞き流した。
サクラがジト目でわたしを見ていたような気がするが、多分、気のせいだと思う。
次にアタラクシアの意義を説明した。
例外は多いものの、基本的にアタラクシアは強大に成りすぎて外の世界にいられなくなった神的存在(神だけでなく神のようなもの全般を指す)の受け皿であるらしい。
その宇宙の中に収まりきる程度であれば問題ないが周辺世界にまで影響を及ぼすようになると、各世界間のバランスが崩れ、下手をすると連鎖的に複数の世界が消滅する危険もある。
そのためそういった存在を回収して封じ込める役割を果たしているのが《天上世界アタラクシア》なのだそうだ。
つまり、アタラクシアは中のモノを外に出さない檻の役目も担っているのだ。
中に入った神的存在の力を一定まで強制的に削り取り、外界との行き来を遮断する壁――結界を構築するための力に変えてしまう。
その神的存在が強大であればあるほど結界の強度は増し、対して封じられたモノは力を落としていくというわけだ。
そのため、基本的に一度中に入った存在は二度と外に出ることができない。
自由に行き来が可能なのは王であるわたしと(そもそもわたしは人間だけど)、代王であるサクラ、それからヰ翁とかいうお爺さんだけとのこと。
「代王……?」
聞きなれない言葉にわたしが聞き返すと、サクラは「代理の王。あなたが不在のときにその権限を預かる者のことよ」と答えた。
「それ、だったらサクラがそのまま王様になったほうがいいんじゃ?」
「――馬鹿なことを言わないで」
わたしが何気なく口にした言葉は、即座に彼女に否定された。
とても、強い口調だった。
その黄金の瞳から温度が一瞬で消え失せて、背筋がひやりとする。
「この世界で王を名乗っていいのは、たったひとり。あなただけなのよ、ネコ」
「え……あ、う」
威圧感。
ピリピリする空気があたりを支配して、息が詰まる。身体が硬直する。
「あなた以外の者が王を僭称するなど、万死に値する」
氷のように冷たい声だった。
冷たい怒りに満ちた声。
その怒りがわたしに向けられているわけでないことは、なんとなくわかっていた。
けれど、その人にあらざる凄絶な気配に、わたしは完全に竦んでしまう。
「――と。ごめんなさい。少し、冷静さを欠いてしまったわね」
遅れてわたしの怯える様子に気づいたサクラは、すぐにその恐ろしい気配を引っ込めた。
彼女の顔に失敗したという表情が浮かぶ。
「本当に、ごめんなさい。……今のあなたには、辛かったでしょう」
「べ、べつに」
自分が怖じけていたということを素直に認めるのも癪で、わたしは意地を張った。
「こんなの、なんでもない。へっちゃら」
「……そう」
「だから、気にしなくて、いいから。無駄な気遣いするなって言ったのは、サクラでしょ」
顔を背けて、唇を尖らせる。
けれどすぐに、自分の発言がそれこそ相手のことを気遣っているのでは、と気付いて恥ずかしくなる。
そして今更に、彼女が怒りを露わにしたのはきっとわたしのためだったということにも思い至り、どんな顔をしていいかわからなくなってしまった。
小さく、笑う声が聞こえた。
「そうね。たしかに、無用の気遣いをする必要はなかったわね。わたくしとあなたは、もう家族のようなものなのだから」
「…………」
その言葉に、今まで感じたことがない強い感情がこみ上げてきた。
頬が、胸が、熱くなる。
「……そんな勝手に、認定されても。昨日会ったばっかりなのに」
「あなたにとってはそうでも、わたくしに……わたくしたちにとっては、そうではないもの」
「……?」
謎めいた言葉に、思わずわたしは前に向き直っていた。
彼女の、うっすらとした微笑みが視界に入る。
「今の言葉は、どういう……?」
「あなたの力。あなたが時空間跳躍と呼ぶ能力にも関わってくることよ」
そう言った彼女は、再び説明を開始した。
わたしの魂は三千世界を見渡しても他に類を見ない極めて珍しい性質を有しているらしい。
まず第一に、もともと持っている力の総量こそ大したものではないものの、魂の外殻、器の大きさが尋常ではないということ。それはただの人間からすれば無限にも近しい神的存在の保有する力を、何体分もたやすく丸呑みにしてしまえるほどなのだそうだ(それがどの程度凄いことなのか、わたしにはよくわからないけれども)。
次に、わたしが名付けた時空間跳躍と呼ばれる異能。
これはわたしの本来の力のほんの一片でしかないらしい。
わたしが完璧にこの力を扱えるようになれば、あらゆる世界のあらゆる時間を自在に移動することができるようになるそうだ。
もっとも、魂の器がどれだけ大きかろうが、そこにどれだけの力が満ちようが、人であるわたしの精神ではそこまで自由にはならないようだが。
それが人間の限界らしい。
この力の本質は、時間と空間を自由に移動するというより、『あらゆる時間のあらゆる場所に遍在する』ことであるとサクラは言う。
三千世界が生まれたその瞬間より、三千世界の全てが終わるその瞬間まで、わたしはこの広大な世界に遍く存在する。
その本質を理解するには、人の精神は小さすぎる――と言われて、わたしはなるほどと頷いた。
今この時点でも、さっぱりわからない。
「えっと……それじゃあ、ともかく、わたしは成長してもこの力を完全にコントロールすることはできないってこと?」
「そうなるわね」
馬鹿を見るような目でわたしを見ていた(しかたないと思う。わたしはまだ十歳なのだ)サクラにそう問うと、あっさりと答えが返ってきた。
そのことに、ショックを受ける。
いつか、もっと大人になれば。
きっとこの力をうまく使えるようになるはずだと、わたしは無根拠に心のどこかで思っていた。
それが、わたしにとってのほんのわずかな希望だったのだ。
そのときわたしがどんな表情をしていたのか、自分ではわからない。
ただわたしを見るサクラはやれやれと呆れたように首を振って、
「力の操作に関してながら、この先心配することはないわ」
そう、言った。
「……え?」
「この世界、アタラクシアはあなたとの親和性が高いから、ここで暮らしていくうちに力と魂が馴染んで、ある程度自由がきくようになるでしょう。ここにいる間は勝手に発動することはないし、然るべき時に然るべき場所へ誘われる際は、予兆を感じ取ることもできるはずよ」
「…………」
ぽかん、と口を半開きにして、わたしは彼女の顔を見つめてしまう。
これまでわたしを散々悩ませてきて、現在もわたしの悩みの種だったものが、彼女の一言(例のごとく後半の意味はよくわからなかったけれど)であっさりと解決してしまったのだから、しょうがないと思う。
さぞ間抜けであっただろうわたしの顔を数秒見つめたあと、、サクラは「ぷっ」と小さく吹き出した。
お上品に口へ手を当てて、笑い声を漏らす。
顔に血がのぼった。
「わ、笑うことないでしょ!」
「い、いえ、だって、あんまりにも見事な間抜け面だったものだから……」
そう言って肩を震わせるサクラに、わたしは精一杯の抗議として頬を限界まで膨らませてみたが、逆効果だったらしい。
彼女は顔を背けて、お腹を抱えだした。
「ちょ、その子リスみたいな顔、やめてちょうだいな。あなたがそんな顔すると、いつかとのギャップで、腹筋が、引きつってしまうわ」
「ッ……! ッ! ッ!」
いくらなんでも笑い過ぎである。
バンバンとちゃぶ台を叩いて無言の抗議をするが、それでもしばらく彼女は笑い続けた。
恥ずかしくて、悔しくて。
けれどなによりも卑怯だと思ったのは。
そうやって屈託なく笑う彼女の顔がとても綺麗で、本気で怒る気になれなかったことだ。
美人はずるい。
わたしは人生の真理のひとつを、このとき学んだ。
「さて、この世界やあなたの力のことを理解してもらったところで、次にあなたの王としての役割の説明に入りましょうか」
「…………」
「もう、そんなに拗ねないでちょうだい。先ほどのことは謝ったでしょう?」
「……アイス」
「ん?」
「アイス食べたい」
とりあえず困らせたくてそんなことを言ってみたところ、次の瞬間、サクラの髪が例のごとくシャッと伸びた。
炊事場にある冷蔵庫まで伸びて冷凍庫の最上段の扉を開けると、中をゴソゴソと漁ったあと、なにかを摑んでしゅるしゅると戻ってくる。
「…………」
にゅっと突き出されたのはソーダ味の棒付きアイスキャンディーだった。中にカキ氷が入っているタイプ。
「……ありがとう」
受け取って少し迷ってから礼を言うと、気にするなというように毛先を左右にフリフリして、髪束はサクラのもとに戻っていった。
視線を主であるサクラに移す。
彼女はニヤニヤと癪に触る笑みを浮かべてわたしを見ていた。
「……ねえ、それってサクラが操ってるの? それとも意思があるの?」
「さて、あなたはどちらだと思うのかしら?」
質問に質問で返されて、彼女には答える気がないのだと気づく。
上目遣いでちょっとの間睨んでみるが、「あらあら怖い目つき。わたくし震えてしまいますわ」と茶化されて、ぷいと顔を背けた。
アイスの包装を破って、かぶりつく。
「少し、ふざけすぎたかしらね。まあ、そのままでいいからお聞きなさい。あなたの王としての役割には、この話の最初に伝えた通りふたつあるわ。すなわち、神々の回収とアタラクシアの災厄、《タタリ》を鎮めること」
「…………」
「よくわからないけれど、そんな大それたことが自分にできるのか、といった顔ね」
アイスをガリガリしながら、頷いておく。
「もちろん、今のあなたでは不可能よ。現時点でのあなたはその辺にいる十把一絡げの人間と変わらない。異能があっても、そんなものは神的存在からすれば誤差の範疇でしかないもの。このアタラクシアにいる弱体化した神的存在ならまだしも、本来の姿の彼らには近づくことすらできないでしょう」
それは自分でも思っていたことだったから、とくに腹は立たなかった。
素直に頷く。
「その問題を解消するために、あなたにはこの世界で暮らしてもらうのよ」
「……?」
「先ほども言ったように『この世界に力と魂を馴染ませる』ためよ。そうすることで、この世界からあなたという無限に等しい器に力が注がれるの。数年もすれば、三千世界のどの神的存在も敵わない強力無比な力をあなたは手にしているでしょうね」
急に話のスケールが大きくなった。
ちっぽけな人間でしかないわたしが、ただここで暮らすだけで神様を圧倒するパワーを得られるとか、ちょっと信じられない。
そもそも、人間が神様より強くなるなんてこと有り得るのだろうか。
「あなたは、例外なのよ。だからこそ、あなたはアタラクシアの王たりうるの」
そう言われてしまっては、あらゆる反論を封じられてしまう。
けれど、そこが一番わからないのだ。
どうして、自分なのだろう。
唯一とか、絶対とか、例外とか。
サクラはわたしを特別扱いするけれど、本当にわたしにそれだけの価値があるのだろうか。
わたしなんて、みんなに嘘つき呼ばわりされて、誰にも信じてもらえなくて、親しい人間なんてひとりもいなくて、施設でも学校でも厄介者扱いされていたちっぽけな子供でしかないのに。
――もしかしたら、別の誰かとまちがえているのではないか。
ふと、そんなことを思いついた瞬間、全身から血の気が引いた。
恐怖。
もしもこの待遇が、この居場所がすべてまちがいだったのなら。
目の前の彼女に失望されて、無価値なものを見る目を向けられて、今更、あの場所に戻されてしまったら。
ゾッとする。
自分には本当の居場所があったのだと信じたあとにそれを奪われるなんて、とてもではないけれど耐えられない。
そんなの、死んだほうがマシだった。
「……心配なくても大丈夫よ。王に相応しい力も、在り方も、ここで暮らしていくうちに自然と身につくわ」
わたしの顔色からなにを読み取ったのか、サクラが困ったように笑う。
「実際に王として活動するのは、今すぐの話ではないの。五年後、あなたが十五になってからよ。それまではこの世界で好きに暮らしていいの」
「…………」
「それに王様とは言っても、アタラクシアの神々はそれぞれが好き勝手に暮らしていて、国や政府、法律なんかも存在していないから、人間世界の王のように統治して政をする必要もないの。先に挙げたふたつだけが、王としての仕事の全てよ。彼ら彼女らもあなたに友好的だし、害を為すこともない。難しく考える必要はないのよ」
そうじゃない、とは言えなかった。
わたしの不安はそうではなく。
けれどわたしでまちがいないのかと確認して、本当にまちがいだったらと思うと、とても恐ろしくて、訊ねることなんてできるはずもなかった。
「それとも向こうのことを心配しているのかしら? それも問題ないわよ。世界の認識を弄って、地球でのあなたは富豪の老夫婦に引き取られて海外に移住したという扱いになっているから。周囲の人間を無駄に心配させるということもないわ」
サクラの的外れな言葉に、わたしはただ黙って、わかったふりをして頷いた。
あの世界に、わたしを心配するような人間なんて、もとからいない。
わたしが行方を眩ませてもまた放浪癖が出たのかと思われるだけだろうし、それが長期間になっても、心配するのはわたしの身ではなく監督責任とかを問われることになる自分の立場だけだろう。
「……それとも、あちらの世界に、帰りたいの?」
少しの間があってから、恐るおそるといった様子で問われて、それには激しく首を横に振ってみせた。
それだけは、ありえなかった。
あの場所に未練があるのなら、そもそも、不審者そのものだったサクラの手を取ることもなかったのだから
わたしがいるべき場所は、あそこではない。
この世界こそが、わたしの本当の居場所なのだ。
少なくとも、目の前の彼女はそう言ってくれた。
わたしの強い反応に、サクラはホッと息を吐いた。
――彼女は、たしかにわたしを必要としてくれている。
だから、大丈夫。
そう、自分へ言い聞かせる。
「そう。なら、よかったわ。もしも未練があるのなら、全てを断ち切る必要があったから。少し認識を弄る程度で済んでなによりね」
だから、わたしは気づかなかった。
彼女の口にしたその言葉がどのような意味を持っていたのか。
このとき彼女がどのような目でわたしを見ていたのか。
完全に意識の外にあったのだ。
「あなたがいるべき場所は、この世界だけで――それ以外は、必要ないのだから」
その燃えるように冷たい、矛盾を孕んだ声だけが、耳に残っている。