プロローグ 02
息苦しさを感じて、目を覚ます。
瞼を開いた視界に映るのは、暗闇。
夜、というわけではない。耳には小鳥の囀る声が聞こえており、今が朝であることを示していた。
「…………」
どうやら、わたしの顔になにかがひっついているせいで視界が塞がれているようだった。
顔に当たるのは、弾力のあるぽよぽよとして柔らかい感触。
手を伸ばしてそれの背中を摑んで持ち上げる。
「ふへへへ……もう食べられないけど、絶対てめぇらにはやんねぇからなぁ……あっしが独り占めだぁ……げへへ……」
ミャーくんだった。
よほどいい夢を見ているのだろう、よだれを垂らした彼はグヘグヘと下衆い笑みを浮かべていた。
溜め息をひとつ。
その丸っこい身体を枕元に転がして身体を起こそうとしたわたしは、しかしお腹のあたりに別の重みを感じて、首だけを持ち上げてそちらを見やった。
「くふふ……なんだ、ずいぶんと甘えてくるではないか……ん? 構ってほしいのか? ん? ……ういやつよなぁ」
目に入ったのは、黒角を生やした白銀の髪。耳に聞こえるのは、妙に甘ったるい声で吐かれた寝言。
ウサギである。だらしなく相好を崩した彼女が、わたしの下腹部を枕にして気持ちよさげに眠っていた。
はて、どうして彼女が――と考えたわたしは、そういえば昨夜は十五になるわたしの前祝いだとかで、遅くまでサクラやイツキとお酒を飲んでいたなと思い出す。
わたしも無理やり飲まされて(アタラクシアには飲酒を規制する法律なんて存在しない)途中から記憶がないのだが、この様子を見るにおそらくそのまま泊まることにしたのだろう。
イツキの姿は見当たらないので、そちらは帰ったのだろうが。
「ウサギ、重いんだけど。あと角が微妙にゴリゴリして痛い」
「……んんぅ? いかんぞ、そんなところを触ってはぁ……そういうのは、まだお前には早いというかだなぁ……」
両方の角を握って揺すって声を掛けるが、起きる気配はない。
代わりに、なぜか頬をうっすらと赤くしていた。
その反応に背筋がゾワッとするものを感じて、反射的に握っていた角をひねってしまう。
「ぬぉ―――!?」
ゴキ、という音とともにウサギの首が盛大に曲がり、彼女の全身がビクリと痙攣した。
しばらく手足をピンと突っ張った状態で細かく震えていた彼女だったが、やがてくたりと力を失って静かになる。
「……うっかり。生きてる、ウサギ?」
お腹の上からどかして布団に転がした彼女の頬を軽く叩いてみるが、反応は返ってこなかった。
死んだかのように静かである。
……まあ、大丈夫だろう。
この程度で神的存在がどうにかなるはずがない。
放置しておけばそのうち復活するだろうと判断して、今度こそ身体を起き上がらせた。
擦り寄ってきたポチを撫でながら、ぼうっと天井を見上げる。
「いよいよ、か……」
今日、とうとうわたしは十五歳になった。
それはつまり、アタラクシアの王としての役目を果たすときがやってきたということだ。
別段、誰かにこうしろああしろと指示されているわけではない。
けれどわたしの身体そのもの――自分のもっとも深いところにある魂とでもいうべきものは、そのときこの身になにが起こるのか、なにを為すべきなのかを自然と感じ取っていた。
これから、わたしは五年ぶりに時空間跳躍する。
ここではない何処かへ、いまではない何時かへ跳ばされる。
それは以前のちょっとした時空間移動ではない。もっと大きく、遠くへ流されることになるだろう。
そのことが、誰に言われずともわかっていた。
『然るべき時に然るべき場所へ誘われる際は、予兆を感じ取ることもできるはずよ』
かつてサクラが口にしていた言葉の意味が、今ならばよくわかる。
この世界に満ちる力がわたしの内に注がれ、混じり合い、馴染んでいくうちにある特異な感覚が生まれ、どんどん鋭さを増していったからだ。
それはわたしが再びこの世界を離れるとき――これよりこの身に起きる時空間跳躍への予感。
そして己が為すべきことへの目的意識、確信に近い思いである。
わたしはこれから、この世界より遠くはなれた何時かの何処かを訪れ、そしてそこで為すべきことを為さなければならない。
すなわちそれは、『このアタラクシアに住まう神々を、外の世界の過去・現在・未来から「回収」してくる』こと。
これもサクラが以前に言っていたことだ。
今のわたしには、それが自然と理解できていた。わたしの中に生まれた特異な感覚が、無言の内に伝えてきていたからだ。
なぜ自分なのか、という疑問は今でもわたしの中にある。
生まれつき備わっていた時空間跳躍がその役目に必要であったのなら、こうなることはわたしが生まれくるよりも前に、予め決められていたことなのだろうか。
それとも、単にわたしがその力を持っていたからその役割を担うことになっただけなのだろうか。
その答えは、いまだに見つかっていない。
そもそも、自分でも制御できない時空間跳躍という事象がこの天上世界の運営に用いられているというのなら、それはいったい誰がそうさせているのだろう。
わたしの能力をこの世界の都合にあわせて制御する、なんらかの意思が存在するとでもいうのだろうか。
今のわたしには、わからない。
以前サクラに訊ねたことがあるが、煙に巻かれただけで教えてはくれなかった。
謎めいた微笑みを浮かべて、やはりいつものように言うだけだった。
――いずれわかる、と。
だから今のわたしは、ただ目の前にある為すべきことをひとつずつ片付けていくしかないのだ。
すでにアタラクシアの王としてあるこの身は、その立場と器に注がれた力の対価として役割を果たさなければならないのだから。
その最初の一歩として、わたしは今日、五年ぶりにこの世界を離れようとしていた。
お風呂で身を清めて、サクラの作った朝ごはんを食べて、歯を磨いて、髪の毛を梳かして、いつもの服に着替える。
白いワンピース。兎の缶バッジがついた麦わら帽子。
姿見の前に立っておかしなところがないかを確認する。
「……うん」
そこに映っているのは、いつものわたし。
黒髪、黒瞳、白い肌。
サクラの癖がうつったのか、怠そうというか少し眠たげな目つきの十五になったわたしが、鏡の向こうから見返してきていた。
身長はおそらく、百六十前後。まだまだ成長中。
ここに来たばかりのときは見上げていたウサギと同じぐらいの背丈になり、この調子で伸び続ければ一、二年後にはサクラにも届きそうだった。
……ただ、どことは言わないけれど身体の一部分だけはあまり成長しなかった。
ウサギとどっこいどっこいで、サクラとは天地ほどの差がある。
まあ、別にあっても邪魔なだけだし、いいんだけど。
本当だよ?
「…………」
小さな溜め息をひとつ吐いてから、居間に向かう。
そのわたしのあとを、ポチがゴトゴトと音を立てながらついてきた。
すでに必要なものは全てこの子の中に詰め込んである。
水や食糧、着替え、その他もろもろ生活に必要なもの全般。
なにせいくらでも収納できる上に、まったく劣化させることなく永久保存が可能なものだから、この日のためにこつこつ準備し続けた結果、今ではたとえ宇宙の真ん中に放り出されても軽く十年は暮らせるだけの量が溜め込まれていた。
これに加えて、無敵の盾にもなれば飛行手段にもなるのだから、相変わらずポチは優秀なことこの上ない。
現在ではわたしも自力で飛ぶことができるようになっているのだけれど、なんとなくいまだに空を飛ぶときはポチを頼っている。
道具に乗って飛ぶほうが魔法使いっぽいというかファンタジーっぽいし、ポチも頼られたほうがうれしそうだからだ。
それが構ってもらえないペットの気持ちからくるものなのか、道具としての存在意義に反するからなのかはわからないけれど。
「準備、できたみたいね」
居間の前の縁側にはいつもの着物姿のサクラと、タンクトップにショートパンツ姿のウサギが並んで座っていた。
サクラから掛けられた言葉に、わたしは頷きを返す。
「そろそろ、時間か?」
続くウサギの声に、やはり無言で首を縦に振って、彼女たちの横に座った。
サクラ、ウサギ、わたしという順。
沓脱石の上に準備しておいた黒いサンダルに足を差し入れる。足首までベルトが巻き付く形になっている、純アタラクシア製の靴だ。ドラゴンが乗っても火を吹かれても傷一つつかない。
「そういえばミャーくんは? ずいぶんと静かだけど」
ふと思いだしてふたりに訊ねると、ウサギが庭の一部を指差した。
その先にあったのは、庭端に植えられた柿の木。その枝のひとつに、なにやら丸い物体が吊り下げられていた。
「……! !! ……、……!」
口元から下をぐるぐる巻きにされて、蓑虫状態になったミャーくんだった。
今日はサクラの髪というわけではなく、ぼろい布切れだったけれど。
「あやつ、お前についていくと言ってきかなかったからな、身動きできないようにしておいたぞ」
「……かわいそうだけど、今回は一緒に連れていけないからね」
時空間跳躍してこの世界の外に出ることができるのは、サクラとヰ翁を除けばわたしひとりだけだ。
外から連れてくることはできる。けれど一度足を踏み入れれば、二度と外に出ることは叶わない。それが天上世界アタラクシアの掟であり、仕組みだった。
ミャーくんは外からやってきたわけではなく、精霊神によってこの世界で生み出された眷属だけれど、その過程がどうであれ内にいる者が出て行くことはできないのだ。
ただ、ポチだけはそれを可能としていた。
それが、意思があるとは言ってもあくまで道具であるからなのか、或いは以前ヰ翁が口にしていた『魂がない』からなのかは不明だが。
「――――」
――と。
今朝から断続的に続いている、特異な感覚が一際強さを増すのを感じて、わたしは顔を上げた。
青空を仰ぐ。
焦点をぼかして、感覚を研ぎ澄ます。
それをなんと表現したらよいのだろう。
ここではない何処かへ、いまではない何時かへ――この世界と外を隔てる境界線の向こう、空間だけでなく時間さえも越えたその先。
そこに向かって引っ張られる、吸い込まれる感覚とでも言えばいいだろうか。
……いや、どちらかと言うと『押し出される』という表現のほうが近いのかもしれない。
作為的に招かれているというわけではなく、あたかもそれが世界の自然な営みであるかのように、当たり前のこととしてわたしはそこへ跳ばされようとしている。
跳ぶ。これもまた少し、ニュアンスが異なるように思える。
跳ぶというより、『流される』という感覚。
この世界、外の世界、三千世界。現在、過去、未来。そういった時間や空間の根底にあるもの。それら全てを内包した大いなるうねり、流れ。
さながら運命とでも呼ぶべきものによって、わたしは押し流されようとしていた。
「…………」
ふらり、と立ち上がる。
誘われるように、庭の中央に歩いていく。
自分の身体が自分のものでないような、不思議な感覚。
「行くのね?」
背後から掛けられた声に、ハッと我に返る。足が止まった。それでもまだどこか浮ついた気持ちのまま振り返れば、縁側に座ったサクラとウサギがわたしを見つめていた。
その眼差しに含まれているのは、心配や不安――ではなかった。
信頼と、期待。
サクラはわたしなら大丈夫というように優しく微笑んでおり、ウサギの顔にはなにかを心待ちにする期待に満ちた笑みが浮かんでいた。
そんなふたりを見てわたしの中に浮かび上がったのは決して安堵ではなく、その逆の不安、怯え、恐怖だった。
それは今この瞬間に突然生じたわけではない。
ずっと前からわたしの中に住み着いていて、けれど誰にも見せないよう心の奥深くにしまいこんでいた感情だった。
わたしがこの世界を離れるのは、それほど長い間ではないとサクラは言う。
早ければ一日、少し手間がかかれば十日、長くとも一ヶ月あれば任を果たし戻ってこれるだろうと以前に説明を受けた。
しかしそれでも、一時的とは言え今やわたしの絶対的な拠り所となったこの地を離れることに、わたしの心はほとんどアレルギー的な拒否反応を起こしていた。
時空間跳躍した先で果たす役割についての不安は、あまりない。
あるがままにあれば、為すべきことを為せば、自然ともっとも良い形に落ち着くだろうという根拠不明の確信じみた思いがわたしの中には存在していたからだ。
わたしが恐怖に近い不安を覚えている原因は、もっと別のことだった。
それは、この世界を離れたらわたしはもう二度とここに戻ってくることができないのではないか、という疑心。
もちろん役割を果たせばまた戻ってこれるとわかってはいる。理屈だけではなく、例の特異な感覚もそう伝えてきていた。
けれど、わたしの心が。
身体が大きくなり、ともに成長して強くなったと思っていたこの心が、ここに至って悲鳴を上げていたのだ。
もはや信じるしかないとわかっていても、この心が納得してくれない。
大丈夫だという謎の確信があっても、それを凌駕する凝り固まった自我が否定する。
かつていた場所で刻みつけられた傷。その痛み、苦しみ、恐怖。それらがわたしの心を縛り付けていた。
「わたし、は」
視界に、ノイズが走る。
景色が、歪む。
音が、途切れる。遠くなる。
この身を遠くへ押し流そうとする『うねり』が、もうすぐそこまでやってきていた。
人の身では――いや、たとえ神的存在であろうと抗うことが難しいだろう、時の奔流。
それでもまだここに留まることができているのは、彼女たちがわたしを観測しているからだ。
跳躍するには、他者による観測から逃れなければならない。
「待っ、て……まだ、わたしは」
手が、自然と伸びた。
縁側に座ったままのふたりに向かって、助けを求めるように腕を差し伸ばして。
「大丈夫だ、ネコよ! 昔に言ったであろう! お前ならまったく、なにひとつ、問題がない! 太鼓判だ! 吾れは、お前を待っておるぞ!」
「大丈夫。もしあなたが迷ってしまったのなら、いつにでもどこにでも、わたくしが迎えにいくから。だからお行きなさい、ネコ。あなたがわたくしたちを大切に思うのなら、ここで逃げてはいけないの」
きっと、このときわたしはとても情けない顔をしていたのだと思う。
なのにふたりは笑うことも嘲ることも、わたしへ失望の眼差しを向けることもなく。
ただ深い信頼が込められた言葉を、口にしたのだ。
「――――ッ」
その思いに、応えないわけにはいかなかった。
わたしに向けてくれた信頼を、裏切るわけにはいかなかった。
だから、彼女たちに伸ばした手を、強く握りしめた。
その手の平の中に精一杯の勇気を込めて、閉じる。
大丈夫。
わたしは為すべきことを為して、必ずもう一度この場所へ戻ってくる。
この、わたしがいるべき大切な場所へ。
そうして、わたしが視線をふたりに戻したちょうどその瞬間に、彼女らの瞬きのタイミングが重なった。
ふたりの瞼が落ちていく。
その視界から、わたしの姿が消えていく。
観測が、途切れる。
「――行ってきます!」
もう、留まることはできなかった。
そばに待機していたポチの取っ手を摑んで、それとほぼ同時。
サクラとウサギの瞼が完全におろされて。
観測する者を失ったわたしという存在は、天上世界アタラクシアより、消失したのだった。