18. ネコとウサギのダンス
空を、飛んでいる。
魔女が魔法の箒を使って空を自由に飛ぶように、わたしは意思を持つ旅行鞄に乗って、どこまでも続く蒼穹を――言葉通りの無限の空を飛んでいた。
いつもの白いワンピースに、ウサギの缶バッジがついた麦わら帽子。お尻の下には横倒しになった大きな旅行鞄。
ポチの上に腰掛けて足をぶらつかせながら、わたしは目の前に広がる光景を口を半開きにしたまま眺めていた。
「――――」
イツキの――星神樹の天辺で見た空とは、また異なる景色。
なにも遮ることのない青。
ただ見上げるだけであるのと、その中を自分の意思で突き進んでいくのでは、それこそ天と地ほどのちがいがあった。
旅を、していたのだ。
本当の意味で『空を飛ぶ』という行為は、果てのない世界を旅するということなのだとわたしは知る。
ひたすら真っ直ぐに、先へ、ずっと向こうへ。
視線の先に見えるのは、ただただ、どこまでも青き世界。後ろに流れて過ぎ去っていくのもまた、青。
まるで永遠を目にしているような、不思議な感覚。
永遠不変の世界に迷い込んでしまったかのよう。
果てのなき天へと、手を伸ばす。
この青の向こうには、なにがあるのだろう。
かつて月の女神様は、空の向こうにはただ無限が続いているだけであると言った。
たしかに星神樹のずっと上空からこの世界を見下ろしたとき、大陸と海の彼方にはなにもない空――絶空が続いているのをわたしは目にした。
けれど、本当にそうなのだろうか。
この青を越えた先には、なにも存在してはいないのだろうか。
わたしがそんなことを考えていると、大きな羽ばたきの音がして背後に誰かが降り立つ気配がした。
「どうだ、ネコ。誰かに抱えられて飛ぶのと、それがたとえ道具を用いてでも自分の意思で飛ぶのとではまったくの別物であろう?」
ウサギだった。
ポチに相乗りした彼女はわたしのうしろに立ったまま、話しかけてくる。
「空を飛ぶのは、吾れらにとって恐ろしいことではない。天も地も、等しく吾れらの世界なのだからな」
「……うん。今なら、わかるよ」
「うむうむっ。ひとつ成長したな、ネコよ。吾れはうれしいぞ」
腕組みをしてくふふと笑うウサギをチラリと見上げてから、また視線を前へ戻す。
「ねえ、ウサギ」
「うむ? なんだ?」
「この空の向こうには、無限があるというけれど……それはなにもないってことなの?」
わたしの問いかけに、わずかの沈黙を挟んでからウサギは口を開いた。
「それは正しくもあり、間違いでもある」
「……と、いうと?」
「たしかにこの《天上世界アタラクシア》には限りがない。天にも地にも、果てなど存在せん。どこまで行ったところで空が広がるだけよ。なにせこの地は神々の墓場であり、安息の地であり――三千世界にとっての『悪』を封じ込める檻なのだからな」
そう語るウサギの声には、ほんの少しだけ、自嘲するような響きがあった。
わたしは首を傾げる。
ここが檻の役目を担っているということは初日にサクラから説明されていたが、たぶん『墓場であり安息の地』であるという話は聞いていなかった。
あとで訊ねようと頭の片隅に留めておいて、今はウサギの話の続きに耳を傾ける。
「その檻こそが、まさにこの世界を包む無限の空――《無限結界》よ。外では無限に近しい吾れら神的存在を有限に落とし込み、剥ぎ取った力によって構成される封鎖領域。ゆえに、ここに住まう吾れらは決してあの空を越えることはできん」
――それはつまり、彼女たちは力を奪われ、この世界に閉じ込められているということだ。
サクラから説明を受けたときにも思ったけれど、言葉だけをとってみればひどいことだと思う。おまけにその理由が世界のバランスを保つため、などというよくわからないものなのだ。
わたしだったら絶対に不満を持つ。すんなりと受け入れて納得することなんてできないだろう。
なのに、ウサギからはそんな様子は少しも感じられなかった。
ウサギだけに限らず、これまでこのアタラクシアで出会ったひとはみな、そんな思いを持っているようには見えなかった。
「だが、ネコ。お前はちがう。アタラクシアの王であるお前は、あらゆるものに縛られることなくこの空を越えてゆくことができる」
わたしのすぐそば、旅行鞄の角に立ったウサギは空の彼方を見やり、告げる。
「三千世界のどこにでも、いつにでも、飛んでゆける。どこまでも遠く、高く、飛び続けることができる」
ウサギの瞳が、足元のわたしに向く。
本物の兎のように真っ赤な眼。
視線が、重なる。
「……それで、ウサギはいいの?」
「うぬ?」
「この世界に閉じ込められたままで、嫌じゃないの?」
わたしの言葉を聞くと、ウサギは予想外の言葉を聞いたというように目を丸くしたあとで、小さく苦笑した。
「嫌なことがあるものか。世界など、とうに見飽きておる。もはや外の世界で見るべきものなど吾れのごときモノには存在せんよ。……そも、外におったときに真に自由であったかと言えば、そういうわけでもないのだからな。今のほうがよほど自由であろうよ」
しゃがみ込んで、帽子ごしにわたしの頭を撫でながら、彼女は言う。
「今はこの地こそが、吾れの居るべき場所よ。お前がそうであるようにな」
「……うん」
「だからお前は、なにも気にせずこの空を越えてゆけ。三千世界の全てをその目に映してくるがよい」
「……べつに、外に行けるからって、わざわざ旅してまわるつもりはないけど」
わたしがそう言うと、ウサギは「くふん」と笑った。
立ち上がって、にやにやと見下ろしてくる。
「そのようなことを言っていられるのも今のうちよ。なにせお前はこのアタラクシアの王。三千世界を駆けずり回って、その役割を果たすときがいずれ訪れるのだからな」
「……もしかして神々の回収、ってやつ?」
以前にサクラが言っていたことだ。
王としての役割。
すなわち、いまだによくわからない災厄――《タタリ》とかいうものを鎮めることと、外の世界から神的存在を回収してくること。
「本当に、わたしにそんなことできるのかな……。ウサギとかサクラとか、ほかのみんなとは全然ちがって、ちっぽけな人間でしかないのに」
「安心せよ、ネコ。吾れが太鼓判を押してやる。お前ならまったく、なにひとつ、問題がないぞ」
なんの根拠もない言葉を口にしたウサギは、なぜか得意げな顔になって自分の胸をどんと叩いた。
その軽い態度に、ちょっとだけムッとする。
無責任なことは言わないでほしい。
視線からその思いを読み取ったのか、ウサギはくふふっとまた笑う。
「まあ、今から心配したところでどうにもならんだろう。なにせ数年先のことなのだからな」
「……そうなんだけど」
「案じても仕方のないことは、いちいち案じるな。今は先のことなど考えず、ただ日々を楽しんで生きよ。それがお前の抱える不安へのなによりの薬になるだろうさ」
そう言うなり、ウサギは座ったままのわたしの両脇に手を差し込んできた。
こちらが抵抗する間もなく軽々と持ち上げると、自分の視線の高さに合わせる。
「……ちょっと、なに?」
「そうぶすっくれた顔をするでない。せっかく空を飛ぶ楽しさを知ったのだから、吾れがもっといろいろ教えてやろうと思ってな」
くふん、と悪戯めいた笑みを浮かべるウサギの顔を見て――嫌な、予感がした。
なにをするつもりなのか。
問いただそうとわたしが口を開き、
「行くぞ――!!」
なにかを言葉にするよりも前に、ウサギはポチから飛び降りた。
「ッ――――――――!?」
「くふふふッ――――!!」
重力に引かれて、わたしたちは真っ逆さまに落下していく。
風がごうごうと唸りを上げていた。
被っていた麦わら帽子は一瞬で吹き飛ばされて、どこかへ飛んでいき。
ワンピースの裾が激しく暴れて、肌に当たる。
「どうだ! 静かな空の遊覧飛行というのもよいが、ありのままの風を受けての垂直ダイブも、これはこれで癖になる快感があるだろう!?」
耳元で唸る風音にも劣らない大きな声で、目の前のウサギが叫ぶ。
その顔に浮かぶのは、してやったというような意地悪げな表情――ではない。
神様だというのに、まるで本当に年相応の女の子のような、無邪気な笑み。
楽しくて仕方ないという、太陽のような破顔。
わたしを抱えたまま、彼女はくるくると体勢を入れかえる。
上になったり下になったり。
右に回って、左に回って。
青い空を背にして、遥か彼方の緑の大地を背にして、彼女は笑い続ける。
彼女のこの突然の行動に、わたしの中に怒りはなかった。
そして、恐怖もなかった。
なぜならば、今のわたしは知っているからだ。
信じているからだ。
わたしが落下しても、絶対にあの子が受け止めてくれるということを。
ほら。
「……! ……、……!!」
落ち続けるわたしたちの周囲を、ポチが飛んでいた。
その鞄の口に風に流された麦わら帽子を咥えている。
でも、この子だけじゃない。
今のわたしは――。
「天へ昇りゆくのも! 地へ墜ちゆくのも! 心地がよい! 楽しい! 吾れはそう思うのだ、ネコよ!」
視線を戻せば、ウサギがほっぺたを桜色に変えて、わたしに叫んでいた。
その目が、わたしに問うている。
お前はどうなのかと。
お前はこの状況をどう思っているのか、と。
先ほどまでの未来に対する不安、弱気、怖気を吹き飛ばすような彼女の眩しい笑顔を見る。
くるくると回る景色を、世界を見る。
向かい合ったまま、空を落ちてゆくわたしたちを想像する。
それは、きっと舞いだった。
墜落ではない。失墜ではない。
青い空を背景にして、何にも縛られず自由に舞い踊るわたしと彼女の戯れ。
――わたしと彼女の舞い。
そんな、メルヘンチックな言葉が唐突に頭に思い浮かんで。
「――――――」
自然と、頬が緩んだ。
唇の端がつり上がった。
声が、口から漏れていく。
「――――」
ウサギの目が、大きく見開かれた。
驚愕。
呆然。
そして、じわじわとまた笑みに戻っていく。
「笑ったな――――!」
ウサギが叫ぶ。
「ようやくその顔を見せおったな、ネコ! そうよ、お前は笑っている顔がもっとも美しい!」
それはきっと、わたしがこの地にやって来てから初めて浮かべるもので。
それを見て、わたしなんかよりもウサギのほうこそ何倍もうれしげに、楽しげに。
くしゃりと破顔する。
「怒りも、憎しみも、悲しみも――全て笑い飛ばせ! 笑え! 楽しめ!」
その言葉に大きく頷いて。
わたしは、彼女に抱きついた。
その耳元に口を近づけて、叫ぶ。
「最後まで! 絶対に、離さないでね!! ウサギのこと、信じてるからッ――――――!!」
ポチが必ずわたしを受け止めてくれると信頼したように。
彼女を信じて、この身の全てを任せる。
このまま落ちたとしても、きっとわたしには傷一つつかないと。
彼女がわたしを守ってくれると。
そう、信じた。
心を、預けた。
「―――ッ」
そうすれば、その思いへ応えるように強い力で抱きしめ返されて。
「決して離すものかよ! お前は吾が太陽ぞ! 最後まで、離せるわけあるまい!」
そんな言葉が返ってきたのだった。
世界に、光が満ちたような気分だった。
或いは、閉じていた扉が大きく開いて、風が勢いよく通り抜けていったような。
わたしたちは互いを抱きしめながら、空を舞い落ちていく。
視界の端に、置いて行かれていたミャーくんが必死になって追いかけてくる姿が見えた気がした。
ずっと遠くの空で、黒と白のドラゴンが互いを追って旋回しているのが見えた。
通り過ぎた天空で、巨大なクジラが泳いでいた。
《――――――》
いつかのように重く低い鳴き声が響きわたり、世界に雨が降る。
きらきらと太陽の光を反射する宝石の中を、わたしたちは舞い踊りながら、堕天する。
きっとあとで冷静になったとき、恥ずかしさに身悶えするのだろうなという思いは頭の片隅にあった。
けれど、今のわたしには、どうでもいいことだった。
ただ、わたしは、わたしたちは笑い合う。
今このときを、楽しむだけだった。
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わたしは近白音子。
ここは神々の住まう天上世界、アタラクシア。
原初にして最果ての世界にして、神々の墓場、安息の地、三千世界の悪の封じられし檻と呼ばれる場所。
わたしは、この世界のたったひとりの王である。
ここで第一部は終わりです。
これまでお読み下さり、ありがとうございました。
第二部は少し書き溜めの時間を頂いてからの開始となります。
今後とも、どうぞよろしくお願い致します。




