プロローグ 近白音子は超能力者である
わたしは超能力者である。
これは例えでも比喩でも虚言でもない。真実、わたしは常人では持ち得ない超常の力を持っている。
ではそれが如何なる力かと言えば、わかりやすく端的に表すなら『時空間跳躍能力』――時間と空間、その距離をゼロにして行き来する能力である。
……まあ、正確には行くだけで戻ってくることができない一方通行の能力なのだけれど。
おまけに発動のタイミングをコントロールすることもできない欠陥つきである。
この力のせいで、幼いころから(今も十歳になったばかりで世間的には幼い部類に入るのだろうけど、自分では結構大人のつもりである。本もたくさん読んでいろいろな知識を蓄えているのだ)わたしは大変に苦労してきた。
時空間跳躍は、わたしの意思に関係なく、なんの脈絡もなく、ある日突然発動する。
朝小学校に登校している途中、ふと気づくと真夜中になって靴を履いたまま自分のベッドで横になっていたり、逆に夜就寝して目を覚ますと夕焼け色に染まる隣町の公園のベンチに横になっていたり、学校で授業を受けていたら鍵の掛かった体育倉庫の中に閉じ込められる羽目になったりと、散々な目に遭ってきた。
その都度、わたしは周囲の大人たちから散々に怒られることになった。
わたしがいくら超能力のことを説明しても、決して信じることはない。なにせ自分でコントロールできないのだから、証明してみせろと言われてもできないのだ。
だからわたしに対する周囲の評価は、最低である。
妄想癖、虚言癖持ちの問題児扱いだ。
大人の目を盗んで勝手に学校や施設を抜け出し、その辺をほっつき歩く不良生徒というわけである。
今のところ時空間跳躍するのは未来に向けて数時間、長くても一日程度で、距離も隣町程度で収まっているのが不幸中の幸いか。
もしもこれが何年も先であったり、或いは外国になんて跳んでしまったらと思うと恐ろしくなる。
その想像はあまりにも怖いので、普段は考えないようにしているけれど。
いっそ過去にでも跳んでくれれば、わたしが同時にふたり存在するということで能力の証明になって、どこかの偉い人に詳しく調べてもらえるかもしれないのに。
……いや、ダメか。
その場合、単なるそっくりさんでふざけていると思われるか、双子扱いされて保護者不明のまま同じ施設にぶち込まれる羽目になるだけだろう。
まったくもって、この世は理不尽である。
ずっと前から、わかっていたことだけれど。
この世界に、わたしの味方なんて、ひとりもいないのだから。
「近白……お前、これで今月二度目だぞ」
「…………」
「授業中に教室から抜け出してはいけないと、何度も言っているだろう? どうしてわかってくれないんだ?」
「…………」
「そんなんじゃお前、ろくな大人にならないぞ。大人になるっていうのはな、この社会の一員になるということなんだ。そして周囲にその一員として認められるには、定められたルールをきちんと守り、皆と歩幅を合わせて生きていく必要がある」
「…………」
「それができないやつはな、この社会から弾き出されてしまうんだ。先生は、今までにそういう生徒を何人も見てきた。先生は近白にそんなふうになってほしくないから、こうして話しているんだぞ」
放課後の職員室。
回転椅子に座る担任教師と、その前に俯いて立つわたし。
生徒はわたしひとりだけで、他には数人の先生だけがいるだけ。
その場所でわたしは、先ほどから延々と説教を聞かされていた。
慣れたやり取りだけれど、やっぱりどうしたって、うんざりしてしまう。
大人はすぐにルールだとか常識だとかそういう言葉を持ち出して、それに従わないわたしを糾弾する。
わたしの『悪行』を非難する。
昔は必死になって言い返していた。自分の本意ではないと。自分でも制御が効かない能力のせいなのだと、なんとか理解してもらおうと訴えた。
けれど、それを信じた人間は誰ひとりとしていなかったのだ。
わたしが自分のやったことを誤魔化すために、虚言を口にしているのだと大人は判断した。
非常識。非科学的。あり得ない。
その言葉と溜め息、またかという表情を、わたしはこれまで散々頂戴してきた。
呆れてしまう。
常識を口にするのなら、そもそも三十人近い生徒が出席する授業中、これまでの素行から強制的に最前列の席を宛てがわれているわたしが、誰にも見つからず教室を抜け出すことこそあり得ない出来事だと、どうしてわからないのだろう。
いっそ、目の前で霞のように消えてしまえればいいのだろうけど、残念ながらわたしの能力は誰かに意識されていると発動しないようで、消失する決定的瞬間を見せつけることはできないのだ。
その性質から授業中に発動することは滅多にないのだが、今日は偶然が重なり、運悪く誰の意識からも外れてしまう瞬間があったのだろう。気づけば施錠されているはずの校舎の屋上で横になっていた。
――或いはそれは、わたしが常に胸の中に抱いている、この最低な世界から逃げ出したいという願望に反応したのかもしれなかった。
逃げ出せるわけがないと、わかっているのに。
どこまで行ったって、この世界が変わることはない。
人として生きようとするのなら、結局は人と関わって生きていくしかないのだから。
けれど、この力のせいで人と同じルールを守ることができないわたしは、先生の言うことが正しいのなら、どれだけ努力してもその輪の中に入っていくことはできないのだろう。
永遠に、ひとりで居続けることしかできない。
それが、わたし――近白音子だった。
**********
「宮本先生、また近白ですか?」
「明野先生。ええ。あの子にも困ったものですよ。いやね、決して悪い子というわけではないのですがね」
「ああ、わかりますよ。無口な質ですが、普段の素行は悪くないどころかむしろ優等生に分類される子ですからね。基本的に我々の言うことには素直に従いますし、成績も相当に良い。……これであの突発的な放浪癖さえなければねえ」
「付け加えるなら、あの妄想癖もですね。最近は口にすることもなくなりましたが」
「――近白の、というと超能力がどうこうとかいうアレですな? あれは本当にそう思って口にしているわけではなく、単なる言い逃れの屁理屈だったのでは?」
「ああ、教頭先生、お疲れ様です。さて、実際のところどうだったのでしょうね。普段の態度をよく見ていると、彼女はわりと計算高いというか現実的な思考をする子ですよ。現実と空想の区別はしっかりとつけているはずです。あのような荒唐無稽な話を大人にしても信じるわけがないということも予想できたと思うのですが」
「とは言うものの、その類のことを口にしていたのは低学年のころでしたからな。そこまで考えに至らなかったのではないですか?」
「かも、しれませんねぇ」
「まあ、なんにしろ。あの子が将来まともな大人になるために、我々教育者はより一層尽力せねばなりませんな」
「精進いたします」
「よろしく頼みますよ宮本先生」
**********
ようやく担任のお説教から解放されたわたしは、住宅街の中の通学路を、ひとり、ランドセルを背負って歩いていく。
「…………」
このまま、真っ直ぐ帰宅するつもりはなかった。
ずっと昔からお世話になっている養護施設の中でもわたしはひとりだけ浮いていたから、あそこに帰ってもちっとも愉快な気持ちになれないのだ。
それならばまだ、寂れた公園でひとり時間をつぶしていたほうがマシだった。
いつもであれば市の図書館を訪れるのだが、あいにくと今日は休館日。ほかに行くところなんて思いつかなかったのだ。
途中で道をそれて、施設から離れた位置にある公園に向かう。
「もしも、お父さんとお母さんが生きていたら……わたしのことも、信じてくれたのかな」
自然と漏れた呟きは自分でも嫌になるほど弱々しい声で、苛立ちに拳を握りしめる。
弱気になるな、と自分に言い聞かせた。
わたしが悪いわけではないのだから。
わたしが落ち込んだり傷ついたりする必要なんて、ひとつもないのだ。
悪いのは自分を理解しようとしない周囲の人間であって、愚かであるのも常識に縛られてわたしの力を認めようとしない大人たちなのだ。
――ただ、どうしても、父と母が生きていたのならば、という思いを消すことだけはできなかった。
わたしの実の父と母は、すでに死んでいる。
わたしが生まれる前に、或いは生まれた瞬間に命を落としたのだ。
そしておそらく、それはわたしが生まれてはじめて時空間跳躍した瞬間でもあったのだと思う。
そのときの記憶はないが(あるわけないのだが)、おそらく間違いないとわたしは見ている。
わたしが初めてこの力を使ったのは、母の胎内にいたときのことだ。
たぶん、生命の危機を察知して無意識に発動したのだと思う。
なぜなら、高速道路で大規模な交通事故に巻き込まれ、運転していた乗用車を大型トラックによってぺしゃんこにされ、父も出産を間近に控えていた母もミンチにされたというのに、唯一わたしだけが無事だったからだ。
しかも生まれたての(というより無理やり生まれてきたのだろう)わたしは、事故の現場から少し離れた道路の路肩で、血と羊水にまみれたまま、ひとり泣き声を上げていたらしい。
どう考えても、押しつぶされた車に乗っていた母親の胎内にいたはずの赤子が、そんな場所に放り出されるわけがない。
実際、救助隊に発見されたわたしは当初無関係の捨て子扱いされていたのだが(それも大分無理はある)、母の検死でお腹にいたはずの赤子の痕跡がなく、担当医のひとりがもしやと思ってDNA鑑定するに至って、ようやく血縁関係が発覚したらしい。
胎内にいたはずのわたしがなぜあのような場所にいたのかは、公式には今でも謎とされている。
もっとも有力な説は、善意の第三者が事故現場からわたしだけを救出したがなんらかの理由で目立ちたくなかったため路肩に放置して去っていった、というものらしい。
まあ、無理がある。事故現場に居合わせて、救助隊が到着するまで遠巻きにしていた者の誰ひとりとしてそんな場面を目撃していないのだから。
常識的に考えて、あり得ない出来事だ。
ゆえにわたしは、常識的ではないことが起きたのだろうと考えている。
すなわちそれこそが、物心ついたころよりわたしを悩ませ続けてきた超常能力、時空間跳躍である。
もっとも、それを信じているのなんて、わたしひとりしかいないのだけれど。
もしもこのとき、わたしが自分だけではなく両親ごと跳んでいたのなら――というのは、幼いころよりずっと考えてきた。
生まれたての赤ん坊にそんな期待をするほうが馬鹿らしいとはわかっているのだけれど、どうしてもそんな『もしも』を考えてしまう。
そうすれば、わたしはこの世界にたしかな居場所を得ることができたのかもしれないと、思うからだ。
あり得ないイフなのだけれど。
「……みんな、だいっきらいだ」
呟きは、風に流れて、どこかへ消えていった。
公園はいつものように閑散としていた。
子供の姿どころか、人っ子ひとり見当たらない。
この人気のなさが、わたしにとってはありがたかった。
誰もいない空間のほうが心安らぐようになったのは、いつからだろう。
昔は、人恋しいといつも感じていたような気がする。
けれど気づけば、他者から遠ざけられる以上に、自分のほうが他人を拒絶するようになっていた。
期待して、裏切られて。
それを繰り返していくうちに、他人に自分を理解してもらおうという甘い期待を抱けなくなったころからかもしれない。
世界が色褪せて、つまらないものになってしまったときからかもしれない。
「…………」
ゆらりゆらり。
ひとりブランコに揺られながら、ぼんやりと地面を見つめる。
アリが一匹、砂の上を歩いていた。
ちょこまかちょこまかと進んでいく様を観察する。
わたしならたった一歩で済む距離を、そのアリは遅々とした速度で進む。
その差を考えたとき、人間であるわたしと彼らのスケールのちがいが明確に意識された。
生きている次元が、ちがう。
わたしは、このアリよりも高みに生きていた。
地を這うアリからすれば、こうして彼らの必死に生きる様を見下ろしているわたしは、神様のようなものなのかもしれない。
「ッ」
不意に嗜虐的な衝動が湧き上がってきて、わたしはブランコから飛び降りた。
アリの進行方向に立ちふさがり、見下ろす。
アリがわたしの足元まで来たところで右足を持ち上げた。
そのまま、踏み潰そうとして――。
「…………」
やめた。
俯く。
自己嫌悪で、最悪の気分になる。
うまく生きていくことができなくて、なにもかもがうまくいかなくて、だからといって神様を気取って自分より小さな虫を殺そうとするなんて、最低の行為だと思った。
遠ざかっていくアリを視線だけで追いながら、わたしが情けない気分に浸っていると、ふと自分の足元に自分以外の影が伸びてきているのに気づいた。
顔を上げる。
が、相手を確認するよりも前に茜色の夕日が目に入り、顔を背けた。手を翳す。
眩んだ目をぱちぱちさせ、軽く頭を振ってから、改めて影の主に目を向ける。
「 」
うつくしいものを、見た。
視界に入ったのは、色鮮やかな金色。
まさに黄金色と表現するのが相応しい。それ自体が輝きを放っているようにも錯覚してしまう、足元まで長く伸ばされた髪――そして瞳。
黄金の瞳。
次に意識されるのは、そのひと――彼女が身を包む衣服。
彼女の顔立ちは明らかに外国人のそれなのに、身につけているのはどれも純和風のものだった。
白地に桜の花が描かれた上品そうな着物に、下駄。
手には、目に焼き付きそうなほど鮮烈な真紅の和傘。
彼女はそれを、肩に軽く乗せて、頭上で花開かせていた。
黄金と、白、桜、真紅。そして夕日の茜色。
それらの色彩が奇跡的なバランスで組み合わさった彼女の立ち姿は、凄絶な美しさを放っていた。
わたしは生まれてはじめて、己を忘れるほど美しいものを、目にした。
言葉を忘れて、息をするのも忘れて、呆然と見入る。
他と隔絶した美しさ。
それ単体で完成した、恐ろしささえ覚えてしまうほどの美。
とてもわたしと同じ人であるとは、思えなかった。
そんな美しさをあたり構わず撒き散らす女性が、夕日を背にして、わたしから数歩ぐらいの距離に立っていた。
年齢は、二十歳ぐらいだろうか。
そのややつり上がった宝石のように輝く黄金瞳で、じっとわたしを見下ろしている。
その顔にはこれといった表情は浮かんでいなかったが、見ようによっては気怠げにも見えた。
「……こんなところにいたのね」
透き通った声だった。
わたしがその声でイメージしたのは、硝子。もしくは、打楽器であるトライアングルの音色。
硬質で繊細な、高く澄んだ音色だった。
「さがしたのよ、ネコ」
彼女は、わたしにそう声を掛けてくる。
声色には、どこか呆れたような感情が感じられた。
わたしは、咄嗟に返事をすることができなかった。
ただその場に立ち尽くして、見上げていることしかできないわたしを見て、彼女は小さく眉を顰める。
苛立っているというよりは、困惑しているといった仕草。
わたしから視線を外してしばらくなにかを考えていた彼女は、やがて軽く息を吐くと、再びわたしに目を向けた。
「……ほら。帰るわよ」
傘を握っているのとは別の手をこちらに差し出して、彼女は言う。
その眼差しは、真っ直ぐわたしに向けられていて、決して外れることはなかった。
わたしはその手と、彼女の吸い込まれそうなほどに綺麗な瞳を、交互に見やる。
「……わたしを、迎えに、きたの?」
「先ほどからそう言っていたのだけれど、あなたにはわからなかったのかしら?」
呆れがまじった声に、むっとする。
「そのぐらい、わかってる」
「だったら、いつまでもそうやっていないで。ほら、来なさい」
差し出された手の平を見る。
白くたおやかで、傷一つない綺麗な手だった。
「…………」
一歩、二歩、彼女に近づいた。
手が届く距離まで寄って、おずおずと自分の手を、彼女のそれに伸ばす。
けれど指先が触れる寸前で、躊躇した。
迷いがあったのだ。
どうしてもそれを振り切ることができなかった。
「本当に……わたしを、迎えにきたの?」
「ええ」
見上げて問うわたしに、彼女は当たり前のように頷く。
「わたしを、わたしが帰る場所へ連れていくために?」
「もちろん。あなたの帰る場所は、この三千世界の中でたったひとつだけなのだから」
彼女のきらめく瞳は、迷いなく、逸れることなく、わたしを捉えていた。
それほどに真っ直ぐな眼差しを、わたしはこれまで向けられたことはなかった。
もしかしたら、今後一生、ないのかもしれない。
だから、わたしはその手を取ったのだ。
それがわたしの運命を致命的に変えてしまうだろうと、知っていながら。
わたしは、彼女の手を握ったのだ。
「……はあ」
彼女は、大きく息を吐いた。
なにかに、安堵したようだった。
その表情もわずかに緩んでいる。
繋がった手を、握り返された。
「それじゃあ、帰るわよ。足元には気をつけなさい」
そう告げると、手を繋いだまま彼女は歩きだした。
わたしは黙ったまま、あとをついていく。
公園から出て、住宅街の中を進む。
からんころん。からんころん。
わたしたちの間に、会話はなかった。ただ、アスファルトに彼女の下駄が当たる音だけが響く。
なんとなく顔を上げる気にならなくて、わたしはその音の元である彼女の足元だけを、じっと見つめていた。
彼女は素足に下駄を履いていた。
こういうとき、足袋とかを使わなくても良いのだろうか。作法的に問題があるんじゃないだろうか。それとも外国の人だから関係ないのかな。
そんなとりとめのないことを考えていたわたしは、多分、現実から逃避しようとしていたのだろう。
自分の愚かな選択を心のどこかでは悔いていて、現在の行いの結果起こるかもしれない未来に、怯えていたのだ。
子供なら誰でも、物心ついたころより言い聞かされてきたことを、現在進行系でわたしは破っているのだから。
わたしは、この女のひとのことなんて、まったく知らなかった。
きっと施設の関係職員でもないだろう。
知らない人についていってはいけないという、これまで散々聞かされてきた言葉に逆らって、わたしはこうしていた。
けれど、それでも彼女の手を取りたいと思ったのだ。
わたしを迎えるに来てくれる人なんて、今までたったのひとりも存在していなかった。
だからどういう目的があったのだとしても、わたしを連れていきたい場所があるのなら、ついていこうと思ったのだ。
今になって、なんて馬鹿で愚かな選択をしたのだろうと後悔して、いったい自分はどうなってしまうのだろうと不安になっていたけれど、それでも握った手を離す気には、どうしてもなれなかった。
そんなふうにわたしが不安と後悔に苛まれていると、ふいに、強い風が吹いた。
「……?」
はて、とわたしは心の中でだけ首を傾げる。
強い緑の、匂いがしたのだ。
木々の、森の、草花の香り。
住宅街の真ん中で、これほどに強烈な自然の匂いがすることに、違和感を覚えた。
同時に、気づく。
いつの間にか、下駄の音が鳴り止んでいた。足元の地面が、アスファルトから土に変わっていたのだ。
そして肌に感じる空気感、温度。
まだ春先だというのに、まるで夏のような暑さ、湿度。
先ほどまでは、むしろ涼しいぐらいだったはずなのに。
強くなる一方の違和感に、わたしはそのときになってようやく顔を上げようとして――。
「むぎゅ」
前を歩いていたはずの女性のお尻に、顔をぶつけた。
いつの間にか、彼女は足を止めていたらしい。
着物に染み付いたものか、それとも彼女の体臭なのか、押し付けられた鼻先からは花の――おそらく桜であろう華やかな香りがした。
「……もう」
上のほうで溜め息を吐く音が聞こえて、わたしは恥ずかしくなる。
「いつまでもお尻に顔を埋めていないで、前を向きなさい」
呆れ声でそう言われて、かっと頬が熱くなる。
べつに好きでやっているわけじゃない。
口の中だけでもごもご言い返して、わたしは一歩後ろに下がった。
――そして、それを見た。
「…………え?」
目の前に、家があった。
平屋建ての古びた家屋。
田舎の、田んぼや畑に囲まれた土地にでも建っていそうな、どこか懐かしさを感じる純和風の木造建築。
しかしなによりもわたしを驚かせたのは、建物ではなく周囲の景色だった。
森に、囲まれていた。
先ほどまで歩いていたはずの住宅街ではない。
まるで森を切り開いたような空間にその家は建っており、わたしたちは立っていた。
後ろを振り返る。
そこに広がっているのも、花々が咲き誇るよく手入れされていると思しき庭と、周りを囲む木立。
見慣れた住宅街の姿など影も形もなかった。
このような場所を、わたしは知らない。
混乱するも、しかしすぐに思い至る。
また時空間跳躍したのだろうと。
「あなたの力で跳んだわけではないわよ」
しかしまるで心を読んだようなタイミングで、女性が言った。
その言葉に、わたしはハッと顔を上げる。
彼女の視線とぶつかる。
「……わたしの力のこと、知ってるの?」
「当たり前でしょう。ようく知っているわ」
信じられない思いで訊ねたわたしの言葉に、彼女は当然といった顔で答える。
それがあまりにも自然な態度だったから。
わたしの心の中に、言葉にできない感情が湧き起こった。
衝撃、だった。
「けれどここには、わたくしの権限で渡ってきたのよ。あちらとこちらを繋いでね」
「……それって、どういう」
「端的に言えば、ここは先ほどまであなたがいた世界とは別の世界なのよ」
彼女が口にしている言葉の意味を、わたしはうまく理解できなかった。
耳から入って頭に届いているのに、ちっとも意味のある形にならない。
ぽかんとするわたしを見て考えこむように視線を伏せた彼女は、やがて、私を手を引っ張り、また歩きだした。
今度は、背後へ。
「え、あの」
「この先に行けば、わたくしの言っている意味をきっと理解できるはず」
こちらには視線を向けずそう答えた彼女は、庭を突っ切り木々の中に入る。
木漏れ日が差し込む森の中には、辛うじて人が行き来できる程度の細い道が先のほうまで続いていた。
緑の匂いを、一層強く感じる。
これほどに濃い自然の匂いというものを、今までわたしは嗅いだことがなかった。
けれど、嫌な気持ちにはならなかった。むしろ身体が、心が馴染むような気さえする。
風に揺れる木の葉。草花。
微かに聞こえる虫の声。子供の笑い声にも聞こえる風の囁き。
生命力に満ちあふれている。
そう感じた。
わたしがそんなことを考えているうちに、森の出口が見えてきた。
道はやや上に傾斜しているようで、木々の合間にぽっかりと空いた出口の向こうには青い空がのぞいていた。
道を登る。
近づく。
外の光が段々と強さを増していき――。
そして。
「ッ――――」
ついに森を抜けた。
くらくらするような強い光が全身に降り注ぎ、眩しさに咄嗟に瞼を閉じた。
明暗の差に意識が揺さぶられ、一瞬平衡感覚を失う。
バランスを崩して傾きかけた身体を、誰かに支えられた。背中に、腕らしきものがまわされている。
「……危ないわね」
「……?」
女性の声は、わたしの前方、やや離れた位置から聞こえた。
わたしと手を繋いだまま先導するように先を歩いていたのだから、その位置関係は当然だろう。
けれど、ならば。
わたしの背中を支えているのは、誰の腕なのだろう。
彼女の腕が届く距離ではない。
瞼を開いたわたしの視界に入ったのは――髪の毛だった。
「………………は?」
彼女の黄金の髪の毛。
人の腕ぐらいの束になったそれが、ゴムのようにこちらまで伸びて、わたしの背中を支えていた。
「……え」
まるで人の手でそうするように背中を押されて傾きを直されると、髪の毛はしゅるしゅるとわたしの身体から離れていく。
去り際、まるで「無事で良かった!」とでも言うかのように肩をポンポンとしてから、収縮して彼女のもとまで戻る。
「なにを鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして――って、ああ、そうね。そういえば今のあなたにとっては、これも初めてになるのね」
わたしの前に立った彼女はよくわからないことを言って、ひとり納得する。
「まあ、それに関してもおいおい説明するわ。それよりも今はこれを見なさい」
混乱するこちらに構わず、彼女はわたしの目の前から一歩、横にずれた。
それまで彼女の身体によって塞がれていた視界が、開ける。
「これが、今あなたのいる世界よ」
わたしは、見た。
その光景を見た。
この世界を、己の眼に映した。
そこには、異世界の景色が広がっていた。
わたしが立っているのは、山の上――或いは大地より遥かな高みにまで隆起した断崖の上だった。
そこからは、この世界の姿がよく見えた。
眼下に広がるのは雄大な自然。
鬱蒼と茂る緑の森。遥か彼方まで続く澄んだ水の流れ、大河。風になびき揺れる大草原。色彩にあふれる鮮やかな花々が一面に咲き誇る美しい丘。彼方には切り立った山々も見えた。
ここまでは雄大で美しくはあっても、地球でだって見ることができる風景だった。
しかし目の前に広がる世界を見たとき、まず初めに視界に飛び込んでくる存在が、それを完全に否定していた。
大樹である。
視界の右端に、それはそびえ立っていた。
崖下まで数百メートル以上ありそうな、わたしが立っているこの場所の高さを遥かに越えて、なお空を仰がなければ天辺が見えないほどの大樹が、彼方には存在していたのだ。
大樹まで数キロ以上の距離があるにもかかわらずである。
あのような大木、地球に生えているわけがない。
そして、地球の常識で考えればあり得ないモノは、ほかにも幾つも存在していた。
たとえば、雲ひとつない青空を巨大な生物が飛んでいる。
大きな翼、長い首、短い前足、鋭く太い角。
ドラゴンである。
それも一体ではない。
闇を凝縮させたような漆黒と、シミひとつなさそうな純白の二体が、空を飛び回りながら……その、なんというか、ビームのようなものを互いの口から放っていた。
ビームの合間には威嚇なのか苦痛のせいなのか、身が竦むような恐ろしい叫び声が両者から上がる。
それ以外にも、明らかに生物と思われる人の形をしたなにかが空を飛んでいるのを、いくつも見てとることができた。
――と。
ふいにあたりの日が陰って、反射的にわたしが天を仰げば、
「…………は、ぁ?」
空を、巨大なクジラが泳いでいた。
ちょっとした島ぐらいはありそうな巨体が、あたかもそこが海であると主張するかのように、青空を悠々と泳ぎ横切っていく。
一瞬、その宝石のような輝きを放つ青い瞳と、視線が合った気がした。
《――――――ォ》
鳴き声、なのだろうか。
クジラがお腹の底にまで響く重低音の声を空へ響かせた。
そしてそれがどういった作用をもたらしたのか、突然雨が降りだす。
雲ひとつない青空のままだというのに、シャワーのような雨が一帯に降り注ぐ。
「あらあら。水神の彼も、あなたの訪れを歓迎しているようね」
彼女がわたしの手を引いて、自分の傘の下に入れる。
パタパタパタと、雨が傘に弾かれる音が響く。
わたしは言葉を発することもできず、彼女の身体に寄り添って、傘の下からその光景を眺めていた。
眼下に広がる雄大な自然。
彼方に見える山々、右端にそびえる大樹。
空を跳ぶドラゴン。
空を泳ぐクジラ。
そして、青空より降る雨粒。
幾千、幾億ものそれが太陽の光に、きらきらと煌めく。
散りばめられた宝石のような輝きの向こうに、この世のものと思えない光景が広がっている。
綺麗だった。
美しい、と思った。
魅入られたように、その景色から目をはなすことができない。
――もっとこの世界を見ていたいと、思う。
繋がった手を、ぎゅっと握ると、応えるように握り返される。
「ここは、あなたのいた地球が存在する世界とは、まったく異なる別世界」
彼女が言う。
「《天上世界アタラクシア》――神々が住まう、原初にして最果ての地」
語る。
「この地こそが、あなたのいるべき本当の世界」
「本当、の?」
顔を上げたわたしに、彼女は頷く。
真っ直ぐな目でわたしを見下ろして、告げる。
「あなたは王様。わたくしたち神々の、唯一にして絶対の王」
その言葉の意味を理解できないでいるわたしに、彼女は重ねる。
「今この時より、この地があなたの故郷。あなたは今日から、この世界で暮らしていくのよ」
それはあまりにも突然で、一方的な宣告であったけれど。
わたしが首を横に振ることはなかった。
ただ黙って、頷く。
このひとは、わたしを迎えにきてくれたから。
わたしの手を握ってくれたから。
この手の温もりを離したくないと、思ったから。
そしてなにより、わたしの魂が。
この地こそが、わたしのいるべき場所なのだと伝えてきていたから。
わたしは、《天上世界アタラクシア》の王となることを了承した。
この日、わたしは彼女ら――アタラクシアに住まう神様の、王様となったのだ。