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静物画

作者: shichuan

 会社の同僚の自宅に食事に呼ばれたときのこと。

 A4の大学ノートを破った紙が、部屋の壁に無造作に糊付けされていた。そこに描かれていたのは、一個の林檎。子どもが小学校でもらってきた賞状やインターネットから抜いた人生訓、珈琲の入れ方を説明した雑誌の切り抜きなど、雑多に飾られていた中の一つで、さりげない居住まいに、最初は気がつかなかった。食後の一心地、ふと部屋を見回したとき、目に映った。リアルで滑らかな曲線をもつ一筆描きではなく、直線の交えたごつごつした輪郭が生々しく、鉛筆書きの濃淡が、そのまま心の陰影を表しているかのようで、目に留めたのは一瞬だったにもかかわらず、"影送り”のように、自分の心に焼き付けられてしまった。白黒の林檎が、片隅に居座る。何かの拍子に思い出すのではなく、青空に浮かぶ白い月のように、ずっと心に掛かったまま"在り”続けている。

 作者である同僚の、プライベートをどこまで開示していいのかわからないけれど、絵が彼女の個性と密接に結びついているので、少し紹介したい。三十半ばで、事情があり、ほぼシングルマザーとして、小学生の息子と暮らしている。中国南方の女性らしい、生活力にあふれた働き者で、その仕事ぶりは猪突猛進、事務処理能力の高さは、会社でも群を抜いている。裏を返せば、視野が狭く、ひとの話を聞かない。中国人の中でも空気が読めないと陰口をたたかれることもある。その性分故に、なにもせずに呆けていることが嫌いで、常に何か動いていないといけない。会社でも観葉植物の水やりから、お茶くみ、汚れを見つけて掃除など、当然、さぼってインターネットで洋服を漁ったりもしているけれど、泳ぐことでしか呼吸のできない回遊魚のように、圧倒的に動的存在である。

 その彼女が、である。深い陰影をもつ静謐な林檎。のちに彼女自身にきいてみたところ、高校での専門は芸術だったとのこと。彼女が描くのは、動物ではなく、「静物画」という。人間は描かない。動くモノは描かない。身体にまとう質朴健全な生活臭と、陰影ある林檎の底深さ、そのギャップに戸惑いを覚えた。動的な彼女の描く静物画。


 自宅の部屋に飾っている絵のひとつに、ピカソの「頭蓋骨のある静物」がある。数年前に父と倉敷の大原美術館へ出かけたときに、複製を購入した。名画を多く所蔵する大原美術館で、自分が一番ひきつけられた絵だった。テーブルに置かれた、花瓶に生けられた一輪の花と牛の頭蓋骨。光の差し込む明るい窓が左に、中央に花瓶、右に暗い雄牛の頭蓋骨が配されている。頭蓋骨は、片目のくぼみともう片方の黒い丸眼、前に反り返った歯、色調の暗さに反して愛嬌がある。何かの拍子に饒舌にしゃべり出しそうなアニメ的気配すらある。そこに生物的なものを感じ、静物画だと認識していなかった。頭蓋骨になった牛の、なにかストーリーを持つ絵画。

 この文章を書くにあたり、調べてみると、第一印象は、深い修正をしなければいけないことが分かった。この作品は、1942年、戦時下のパリで描かれている。須藤哲生『ピカソと闘牛』では、この時期のピカソ作品で注目すべき点として、「<静物画>における雄牛やミノタウロスの出現」を上げ、「この時期のピカソの静物画は、ほかの時代の彼の静物画とまったく性格を異にして、限りなく死の世界に近づいている」(第6章闘牛場の英雄 第二次大戦とピカソーー<静物画>の意味するもの)と指摘する。付け焼き刃の知識を重ねると、これは静物画の一ジャンルである"ヴァニタス”とも関係している。"ヴァニタス”とは、「旧約聖書の『伝道の書(コヘレトの言葉)』冒頭の悲痛な一節(一章二節)のラテン語『ヴァニタス・ヴァニタートゥム Vanitas vanitatum/コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい』に由来」し、「頭蓋骨は、人間の死すべき定めを念頭においてこの絵を『読む』ようにと見る者の注意を喚起するのである」(『静物画』エリカ・ラングシュア、高橋裕子訳)というものだ。この絵は、人間の頭蓋骨ではないが、ヴァニタスのもつ寓意(「むなしさ」「死」)から離れていない。前提条件として、この絵は紛れもなく「静物画」であり、そうではないという認識は、間違っていた。戦時下の死を身近に意識せざるをえないところにある状況で、描かれた静物画。「死」とは、元来「静」に近しいはずである。動かない。われわれは、小説、漫画、アニメ、映画などさまざまなフィクションの世界で、髑髏がしゃべり、動き回るシーンに出くわす。そして死と動が結びつけられると、そこに何かしらの意図があることを感じとる。自分が見たピカソの絵について、ピカソが「静」のなかに「動」を意識した、などと主張したいのではない。ひとつの芸術作品を前にして、そこに様々な形で「静」と「動」が内包されるという、概念上では矛盾しているかのような混沌が存在したとしても、不思議ではない。むしろそのような奇妙な動静こそが、面白さの根元になっているように思える。

 ピカソつながりで、三島由紀夫の語るゲルニカが、自分が思っていることと、リンクしているように思うので、少々長いが引用したい。先に申し開きをしておくと、ぼくはゲルニカを生で見たことはない。


「ここにはピカソの『ゲルニカ』がある。白と黒と灰色と鼠がかった緑ぐらいが、ゲルニカ画中で私の記憶している色である。色彩はこれほど淡泊であり、画面の印象はむしろ古典的である。静的である。何ら直接の血なまぐささは感じられない。画材はもちろん阿鼻叫喚そのものだが、とらえられた苦悶の瞬間は甚だ静粛である。 (中略)ここでは表情自体はあらわで、苦痛の歪みは極度に達している。その苦痛の総和が静けさを生み出しているのである。『ゲルニカ』は苦痛の詩というよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出している。一定量以上の苦痛が表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな阿鼻叫喚も、どんな訴えも、どんな涙も、どんな狂的な笑いも、その苦痛を表現するには足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは限りもしらないものに思われること、……こういう苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての苦痛の不可能な領域にひろがっている苦痛の静けさが『ゲルニカ』の静けさなのである。」(「アポロの杯」『三島由紀夫全集26』新潮社)


 静物画という絵画のジャンルは、美術史上では、宗教画などに比べ軽んじられたらしい。個人的な印象では、風景画の淡いさりげなさとは異なり、静物画には硬い主張があるように思う。テーブルに置かれた果物や皿、花瓶などは、存在を主張する。マンガの描写のひとつに、静かな状態を音で表して、「シーーン」などというのがあるが、静かであるというのは、無音であることとは違う。全く音がしない状態というのは、耳を圧迫する力がある。静物画もまた同じで、たたずむモノの存在感は圧倒的である。力がある。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」は、ベクトルが逆であるが、その太さは通じている。静物画はという言葉は、英語からきている。「still life」。直訳すれば「静止した生命」となる。描かれているのは生物である。芸術作品の、人の心と交流するもの、という意味でも、アクティブな動的存在であることは間違いない。むしろ静物画という言葉に引っ張られて、静と動で分けてしまったことに無理があったのかもしれない。ただ、陳さんの林檎にみた「静」も、ピカソの雄牛の頭蓋骨にみた「動」も、心惹かれる混沌がある。なぜ心を打たれたのか、完全に仕分け分析することができない、けれども芸術作品は、それを許容してくれ、そこに価値を見いだせさえする。矛盾を内包する世界、その混沌さこそ面白い。

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