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神坐す国 永久の夢

春の心は

作者: 御桜真

 都の大門をこえ、連なる門を抜け、大路を抜ければ、都の真中に大きな玉城(たまき)本宮(みや)がある。幾棟もの建物が連なる本宮の庭のひとつで、今日は祀りが行われていた。

 場の空気は粛々として清く、中央に重々しい大木のみが鎮座する。風謡(ふよう)はその、葉もない桜の大木のそばに立っている。この場所には他の草木は何もない。賑わいを見せ始めた他の庭園とは違う。

 ――神々が、人と共に大地を歩いていた頃。

 人は至高の存在を崇めて生きていた。十四の原始の存在は、それぞれ対をなす。七つは慈愛の精霊で、八百万の神々を束ねる和御霊(にきみたま)の神、残りは精霊と対を成す魔物、荒御霊(あらみたま)の鬼神。あらゆるものの善なる面と、邪なる面を体現する存在だった。

 精霊や魔物は都の本宮に座するが、決して政は行わない。彼らは不必要に人に干渉しない。ただ見守り、慈しみ、道をはずせば正すだけの存在だった。

 彼らを頭にいただいて、祀り、政を行うのが、七つの宮。国中に散らばる数々の神社(かむやしろ)を束ねる役目を持つのが宮の巫女であり、宮の一族の者だ。

 そして今、本宮での祀りは、風の宮の者の手で行われていた。

 桜の大木が座す庭の真正面には、大きな御館(みたち)があった。そこには精霊と魔物たちが座している。庭の隅に控えるのは、白い装束をまとった巫女たち。

 風謡は桜のそばから、前へ進み出る。

 巫女たちと同じように、ましろな衣装に身を包んでいるが、彼女の姿はそもそも黒い瞳と黒い髪の巫女たちとは違う。風に透ける銀の髪を肩に垂らして、背に白い翼を負っていた。赤にも桜の色にも見える色の瞳を、ひたと真正面に据えて歩き、御館の前で足を止める。高貴な者へ優美に膝をつき、身を屈めて言った。

「清廉なる和御霊の御方様、精悍なる荒御霊の御方様、集われしすべての皆々様方に、あたらしき春の慶びを」

 少女の姿をした女神が言挙(ことあ)げる。穏やかで儚い春の風そのもののような声だ。

 真向かう御館から、風の精霊と、相対する風の魔物より答辞があり、風謡はより深く頭を下げる。それから立ち上がると、舞うように振り返った。桜の真木を見上げる。

 澄んだ空の下、飾るものを持たない枝は、切なくなるほどに寂しい。賑々しく装ったときを知っているからこそ、いっそうだった。風謡は桜の元へ歩み寄り、太い幹に手を添えて、和やかな瞳に笑みをうかべる。安心して、と言うように。

 皆が静かに、風謡の一挙一動を見守っている。その中、殊更強く自分を射抜く眼差しを感じて、風謡は密やかに息をついた。

 ――若菜の季節は、春の祀りが近いことを思い出させて、落ち着かなくなるな。

 そう言った声が、脳裏によみがえる。

 胸内に沸いたざわめきとともに思い出すのは、ひとつきほど前のことだった。



 春を間近に控えた、麗らかな朝だった。肌寒くはあるが、こういった暖かな朝は、やがて来る喜びの季節を感じさせて心が躍る。

 特に今日は、宮の巫女たちがそろって若菜摘みに出かける日だ。天候に恵まれたことを、誰もが喜んでいた。

 若菜摘みは、冬の間に摂れなかった滋養を補うためであると同時、邪気を祓い無病息災を願う行事だった。国中で娘たちや男たちも同じように若菜摘みを行うが、宮の巫女が出かけることは神事のひとつだった。

 さらにこの行事が執り行われると言うことは、春がそこまで来ているということ。誰もが心弾ませているのは当然だった。

 雪に閉ざされた季節が終わり、こうして野歩きに出かけられるほどの、開放的な季節が来る。

 風謡は神としての姿を隠し、黒目黒髪の人のふりをして、宮の者にまぎれ、こうして季節を祝う祀りに参加するのが好きだった。

「毎年、若菜摘みに出かけると、もうすぐ桜の祀りだなあって思うわ」

 山道を歩くのに少しばかり息を弾ませて、香図音(かずね)が言った。

 道々風謡と共に来たのは風の宮に属する巫女ばかりだが、香図音はまだ正式には巫女ではない。未だ巫女になるための初潮を迎えていないからだったが、こうして宮の行事に参加するのは、ゆくゆくは宮の跡を継ぐ血筋にあるからだった。本人は、巫女になるのなど絶対にいやだと言い張っているのだが。

 香図音は他の神々にはとても礼儀正しいが、風の神の末席にいる風謡とは気が合い、ふたりはまるで友人のように接していた。

「毎年、同じ言葉を聞かされている気がするわ」

 風謡は、和やかな瞳を細めて笑みをこぼす。そうだったかしら、と香図音が応えるのも毎年のことで、ふたりは声をひそめてくすくすと笑う。

 身をかがめて足元の菜を探し、手に抱えた籠に入れていく。昨夜は雪も降らず、今朝も暖かな日差しの守りがあったおかげで、籠は思った以上に早く一杯になりそうだった。香図音なら、雪の下の芽を探すのも楽しいけど、と宝探しをする子どものように言うかもしれないが。

 懸命な香図音の様子を見て笑みをこぼしながら、風謡も若菜を探して歩を進めようとしたが。背の高い野草をかきわけてくる足音に気がついて、動きを止めた。新芽をつけはじめた、まだ寂しい木々の合間に、巫女たちの白い衣装が見える。

 山に踏み入っていた風謡たちとは違い、野の方で若菜摘みをしていたはずの巫女たちだった。

「ああ、こちらにいらした」

 年かさの者を先頭に、足早にこちらへ向かってきていたのは三人の巫女だ。巫女たちは皆、白い衣服を纏うが、七つある宮のうちどの宮に属するのかは、彼女たちの身に着ける襷や飾り帯と、勾玉飾りで分かる。瑠璃の勾玉を提げ、白い衣装の襟に紺の染物、同じ色合いの飾りの帯をつけ、裳裾が長い衣服を着る彼女たちは、水の宮に属する巫女だ。

 手を止めて彼女たちを迎えた風謡に、巫女たちは地に膝をつけて頭をさげた。

「あわただしくて申し訳ありません」

 年かさの巫女が、少し困ったような声で言うのを、風謡は慌てて止めた。

「その前に立って。こんなところで膝をつく必要なんてないわ。わたしも今日は宮のひとりとして同行しているのだもの、気を遣わないで」

 口早に言われて、巫女たちは頭を下げてから立ち上がる。

「お心遣いありがとうございます。僭越ながら、風謡様がいらしていると聞いて、お力をお借りしたいと思いまして」

「わたしで力になれることなら、なんでも言って」

綿津海(わだつみ)のお姿がないのです。つい先ごろまでいらしたのに、少し目を離した隙にいなくなってしまわれて」

「まあ、綿津海もいらしていたなんて、知らなかったわ」

 驚きの声をあげたのは、風謡ではなく香図音だった。そんな香図音に苦笑して見せながら、巫女は言う。

「あの方は、気配を隠してしまわれるのがお上手だから」

 その苦笑交じりの笑みは、香図音に対するものかもしれないし、奔放な綿津海に対するものかもしれない。呆れはなく、親しみが多くこめられていたが。

「綿津海のことです、何か変事などあろうはずもない。気まぐれにどこぞかへそぞろ歩きに行かれたのだと思うのですが、若い巫女たちが落ち着かなくて。できれば、風謡様にも綿津海をお探しするのにお手をお貸しいただけないかと……。ご同行の神々皆様にお声をかけたかったのですけれど、それもはばかられてしまって」

 他の神々には頼めなくとも、風謡ならば、というのは失礼かもしれなかった。しかしながら風謡にも、彼女たちの言う意味が分かる。

 八百萬の神々は人々と共に有って、特に宮の巫女たちは神のそば近くにいる。けれども、例えそうであっても、人にとってやはり神々は、気軽な存在ではない。人は神を畏れ敬う。

 神々は人と同じ姿をしているものもいれば、普段は獣の姿であったり、人とは違う部分のある神もあった。けれども一様に人と違うのは、その髪と瞳の色だ。神々は鮮やかな色彩を身に纏うが、人は黒い髪に黒い瞳を持つ。今日どれだけの神々が同行しているのかはわからなかったが、風謡の様に、わざわざ本来の姿を隠して人の姿をまとい、人として同行している神は少ないだろう。只人でしかない香図音と親しく言葉を交わすこと、そしてその気安さがあるからこそ、宮の巫女もようやく彼女に物を頼むことができるのだ。

「仕様のない方ね」

 風謡は困ったように笑った。

 風謡がこうして人々に親しまれる神であると同時、綿津海もまた高位の神でありながら人に愛される神だった。それは風謡とはまったく違った意味ではあったが。

 年かさの巫女の後ろに隠れるようにして立つ二人の若い巫女たちは、落ち着かない仕草で両手を握ったりはずしたりしながら、風謡に懇願の眼差しを向けている。気もそぞろな彼女たちは、自分たちの態度に気がついていないだろう。年かさの巫女はさすがに落ち着いた様子だが、若い巫女たちに急かされてと言いつつも、本当は彼女も惑っているのかもしれない。彼女たちの仕える水に属する神の姿が見えず不安になるのは無理のないことだが、その意図はもう少し違うところにあるのだろう。

「いいわ、お探ししてきます。わたしなんかで、姿をくらませている綿津海を見つけられるか分からないけれど。皆が心配していると、少しお説教してさしあげないと」

 風謡が言うと、香図音がおかしそうに笑った。物怖じしない奔放な少女は、空いている方の手を差し出した。

「若菜の籠は私が持っておくわ。こうなることを予知して姿をくらましたのなら、あの方も策士ね」

 風謡は、香図音の言葉には、笑みで応えただけだった。




 綿津海は、たいそう賑々しい気配の持ち主だ。何者よりも強い力を持ち、強い気質を備え、鮮やかに笑う神は、神であれ人であれ霊力を持つ者ならば、その居場所を捉えるのは難しいことではない。

 しかしながら、気配を消すのも見事なものだった。誰よりも強い神は、誰の力をも跳ね飛ばすことなど、造作もない。彼が本当に行方をくらまそうと思っているのであれば、誰であっても捕まえることは難しい。

 風謡はなんとか気配をたぐり寄せようと、気を練りながら歩いていた。ふいに、視界が開けたことに気がつく。山が空にせり出すような形で途切れている。その下は、陽光(ひかり)をまばゆく返す海だった。意識を凝らすのに懸命になりすぎて、山の傾斜にも、波の音にも、潮の香りにも気がつかなかった。

 吹きあげる風が、風謡の髪や衣服の裾を煽って、翔り去っていった。少し冷たい海風と遊ぶように、両手を広げて大きく息を吸う。海に気がついてみると、風は潮の香りがした。

 ずいぶん遠くまで歩いてきてしまったようだった。綿津海を探していて海に出るのも、なんだかおかしくて、少し笑ってしまった。

 そうして風謡は、広大な水の溜まりを見下ろす。金の陽光(ひかり)のもと、水しぶきが散っていた。透明な青と、銀に輝く波がきらきらと舞う様子は、とても美しく、彼女は笑みを深める。その波間に、黒いものが水中を泳いでいるのが見えた。海底をただよう、黒い藻のようだったが。あまりにも不自然な。

 ――まるで、黒い髪のような。

 思い至った途端、風謡は何を考えるよりも前に飛び降りていた。

 風を体に巻いて、水面近くで一度宙にとどまる。風圧に揺られて海面が輪を描いた。海底に、やはり影が見える。黒い髪は、人間のものだ。人間は長い間水中にとどまることなどできないはずなのに、あがってくる気配などない。それでなくても人にとって、水はまだ刺すように冷たいはずだ。心臓を、驚きに凍らせるほどに。

 風謡は迷わず術を解いて、海中に身を投げ込んだ。人ならぬ身の彼女にとって、海は息苦しさを感じる場所でもなく、寒さは力を奪うものではない。手で水をかき、足で蹴りながら進むと、人影がよく見えた。

 男、のようだった。溺れるような体躯にも見えないが、そういったものは体つきではないだろう。ようやくたどり着いて、両手で相手の腕を捕まえると、その腕がびくりと震えたような気がした。驚いたようだったし、ただ波に押されただけかもしれない。相手や自分の長い髪が邪魔をして、相手の顔もよく分からなかったし、表情など分かるわけもなかった。

 そのまま腕を抱くようにして、今度は頭上を踊る光の幕に向かって水を蹴る。相手が水を掻いて暴れる様子がないことに少し困惑しながら、風謡は、細腕では足りないものを身の内の霊力から振り絞って進んでいく。

 まず先にたどり着いた風謡が海面に顔を出した。風のふく場所の開放感に息をつきながら、腕に捕らえていた相手を水の上にひっぱり上げる。

 長い髪の男だった。髪は濡れて、相手の顔や体にはりついている。

 暴れる様子も、咳き込む様子もない。間に合わなかったのだろうか。落胆が身を襲うけれど、いやまだ、あきらめてはいけないと、崖の上を見上げる。すぐ陸地に連れて行って、処置をしなければ。その風謡の耳に、くすくすと笑う声が忍び込んだ。

「あなたか」

 囁くような声は、低く穏やかで、心地よい響きをしていた。風謡は驚いて相手を見る。

 男が、片方の手で髪をかきあげた。相手に顔を見せようとしているのが分かる動きで、仕草は大仰で、少しいたずらっぽく彼女を見上げる。

「こんなところで、謡いの姫君に会えるとは思わなかった」

 楽しげに笑う。水に濡れた野性的な美貌は、揺るぎない自信に裏打ちされて、鮮やかだった。

 それは、海神(わだつみ)だった。




 驚きに、風謡は束の間息を詰まらせた。抱きかかえるようにして、彼の腕を捕らえていたのを思い出し、慌てて手を離す。

「ごめんなさい。わたし、てっきり……」

「おぼれてると思った?」

 相手が悪びれもせずに言うので、風謡は困ったように笑った。

「驚かせないでください、綿津海」

「何度も言ってるじゃないか。綿津海ではなく、流と」

 彼も笑ったままで楽しげに言った。

 いつも彼は、(ながれ)、と人のように呼ばれるのを好む。精霊たちに次いでの最高位をもつ神であるというのに。

 人は、黒い髪に黒い瞳を持つ。風謡自身も同じように人の姿をしているが、目の前の男も本来の資質を隠して、闇色を纏っていた。国中の少女たちが憧れを持ってその名を呼ぶ男は、本来は日に踊る波の色をした銀の髪と、深い水の溜まりのような青緑の瞳を持つ。人と間違えたからと言って風謡に非はないが、そもそも綿津海を探してこちらに来たのだし、ここまで近くにいて気配に気づかなかったのも失礼かも知れず、どちらが悪いとも言えない。――海神が隠しているのだから、気づきようもなかったのだが。

 目にまぶしく、鮮やかな神。自分自身の魅力と、それにひかれずにいられない人の心をよくわかっている。

 風謡は困ったような笑みとため息ひとつ落として、流に問いかけた。

「こんなところで、何をしていらっしゃったの? 皆が心配していましたよ」

 流は愉快そうに応える。

「若菜摘みに、皆と一緒に行ってくれと水の宮の者に言われたので、こちらまで来ていたんだ。巫女たちと話すのも楽しいけど、少し飽いて抜け出してきてしまった。綿津海が海で遊んでいても別に悪くはないだろう?」

 ただ、水中深く身を沈ませて、海面に踊る光を見ていただけなのだと言った。綿津海ならば、確かにおかしなこととも言えないのかもしれない。風謡が、行過ぎる風とただ戯れるのを好むように。そうして水に漂っていたところを、突然風謡が現れたのでは、さぞかし驚いただろう。

 けれど、と風謡は思う。黙って身をくらませた言い訳にはならない。それなら、皆に居場所を告げておくなりすべきだった。――けれど。

「それは、お邪魔をしてしまいましたね」

 巫女たちには、説教をする、と言ったものの、当の綿津見を前にして、責める言葉が出てこなかった。彼はそんなものを寄せ付けない自由なひとであったし、奔放な彼をとらえておくことなど出来はしない。わざわざ諌めるのは、あまりにも愚かなことだと思えてくる。

「何を。謡いの姫君に会えて嬉しくないはずがない」

 彼は楽しげに笑うと、おもむろに海中で手を伸ばし、風謡の手を掴んだ。驚いて風謡が身を離すよりも早く、ふたりは瞬きする間に水中を脱していた。

 周りの景色が瞬時に変わる。突然足に触れた土の大地に、風謡はよろけてしまった。

 流が風謡を抱きとめて支える。動揺していた風謡は、そのことでますます動転して、ほとんど突き飛ばすようにして身を離した。

 それと同時、身がふわりと軽くなった。濡れていた髪も着ている物も、瞬時に乾いたからだった。突然陸地に移動したのも身が乾いたのも、誰の仕業だと尋ねるまでもない。

 驚きと、責める意志を込めて流を見上げると、彼は悪びれた様子もなく言った。

「本当は、若菜摘みには君も来ていると聞いていたから、少し落ち着かなくて」

 だから、のんびり菜摘みなどしていられなくて、と囁くように。

「若菜の季節は、春の祀りが近いことを思い出させて、落ち着かなくなるな」

 風に髪を遊ばせながら、香図音と同じことを言う。けれども、込められた意味はまったく違う。純粋に春の訪れを、そして祀りを楽しみに待つ香図音とは、違う。

 風謡は、風に属する神の中でも末端に座す。

 毎年、雪が解け風が暖かくなり、新芽が芽吹く季節になると、小さな祀りが執り行われる。風謡はその祀りで、本宮にある一本の桜の大木の前で舞を奉納し、その桜に口付ける。すると、桜の大木は刹那の間に冬の眠りから目覚め、いっせいに花を咲かせる。それが、春の訪れだった。風謡がもつのは、たったそれだけの役目だ。花信の風を吹かせること。

 喜びの季節の訪れを告げる、春の暖かな風の訪れを知らせる、それ以外でもそれ以上でもありえない。

 それなのに彼女の名を誰もが知るのは、親しまれる気質だからというだけではない。桜が咲く事は、幸いの兆しだとも言うからだろう。風の神でありながら、桜の精でもあるように言われる風謡は、植物の神々とも縁が深い。彼女が特に縁の深いのは稲の神だ。そのため豊作を願う国中の人々は、この日の祀りには参加できなくとも、願いと感謝の気持ちで、同じように桜の周りで祭りを執り行う。

 綿津海は、あまりにも風謡とかけ離れている。神々の高い位置に座す彼は。

 けれど彼は、風謡のようのな、存在の小さな神にも、気軽な言葉をかける。

「あなたが春を謡う日が楽しみだ」

 ――鮮やかに笑う彼の、言葉を止めなければ。

 口を開きかけた風謡の先手を打って、素早く、けれども決して早急にではなく、悠然と彼は言葉を口にした。

「謡いの姫君は、摘まれた若菜はどちらへ納めるのだろうか?」

 宮の巫女と同行して摘んだものだ。禍祓いの行事の一環として、もっとも良いものを本宮に座す精霊や魔物たちに献上し、残りは、宮に属する人間たちで食することになっている。もちろん、都の人間にも配られる。全部にいきわたる余剰はないから、ほとんど形ばかりのものではあったが。

 地方では、神の代理であるその土地の首長へ(たてまつ)ることもあった。

 そんな分かりきったことをわざわざ尋ねているとも思えず、謎かけのような言葉に風謡が惑っていると、流は謳う様に続けた。

「俺の手にはいただけないのかな」

 笑みには、戯れとも誠ともとれないものがある。ただ、楽しげであるのには変わりない。

 巫女は神に仕える。神に嫁ぐ、とも言う。そして巫女は、摘んだ若菜を先ず神に供える。

 遠まわしな求愛、ともとれた。

 綿津海の言葉をうけたのが、別の者ならば。雄々しく力強く、美しい神に憧れをもつ者は多い。彼の姿を見たことのない乙女でも、たった一夜の戯れでも、と願う者は多い。

 けれども、風謡の頬は強張った。

「せっかくの仰せ残念なのですが、わたしは、綿津海の巫女ではないので」

 すぐさま顔に笑みを戻して、そっと告げる。失礼にはならないよう、丁寧な口調で、気がつかなかったふりをする。ただ、親しみはそこから消えうせていた。

 それが、分からないはずがない。聡い彼が。けれども流は、あまり落胆の色も見せず、ただつぶやく。

「残念だ」

 ほんとうに、と。風謡が彼の言葉の意図に気づいていることなどわかりきっていて、それを明らかに気付かないふりをしたのもわかっていて、まるで気付いていないように返す流の方が、風謡より上手だった。

 なんでもないことのように切り返す、綿津海の真意が風謡にはよくわからない。わからないふりをするしかない。

「あまりからかわらいでくださいな」

 きつく聞こえないよう苦心して言った彼女に、流はただ笑っただけだった。


  ※


 春の訪れを告げる風は、小さな祀りを祝い、人々の間を翔り去っていった。

 桜の大木は、風謡の前で見事な花を咲かせている。舞を奉納した彼女の頭上で、枝にあふれんばかりの花をつけ、小さな花弁を舞わせている。

 風謡は再び、精霊たちに言葉を投げかけると、再び言祝ぎが返ってくる。そうして、小さな祀りは終わりを迎えた。

 すぐさま、その場に集う神々や、宮の主だった人間たちに、風の宮の巫女の采配で酒や食べ物が運ばれてくる。春の祀りは、そのまま花見の宴へと姿を変える。そうして誰もが、新しい命の芽吹く季節の訪れを慶ぶ。これが、春を招く祀りの一日に行われることだった。

 風謡は皆の前を辞すると、すぐに御館の裏に姿を消していた。忙しく立ち働いている巫女たちを手伝おうと庭伝いに歩き出したが、すぐに足が止まってしまった。

 賑やかにさざめく神々からは離れて、庭先にたたずむ影があった。風のいたずらで運ばれてくる桜の花びらを、愛でるように眺めている。

 思いがけないひとに出会った。思ってから、すぐに打ち消した。彼は本当に、神出鬼没だ。どこに隠れていたって、会うような気がしていた。

「やあ、風謡」

 長い銀の髪を顔の横で結い、鮮やかな衣装を纏った綿津海は、ひとつき前に会ったときよりもずっと華やかだった。彼はもともと、身を飾るのを好まない。その必要もない。だが、こうして着飾っていると、また別の凜々しさがある。

 足を止めてしまった風謡は、声をかけられてから、迂闊な自分に気がついた。相手がこちらに気がつく前に、身を翻して逃げるべきだった。

 今更無視するようなことが、風謡に出来るわけがない。綿津海が歩み寄ってくるのをなんとなく待ち受けながら、困ったように笑うので精一杯だった。

 風謡の元にたどり着くと、流はまず、うやうやしく頭を下げた。

「若菜摘みの時には怒らせてしまったようだから、謝りたかった」

 そう言う彼の笑みには少しの揺るぎもなく、悪びれたところもなかったが。

「いえ……。そんな、わたしなどに頭を下げたりなさらないで」

 同じことを思い出していた風謡は、戸惑いながらもそう応えるしかなかった。心の内を読まれているような錯覚を覚える。

 彼女の動揺を分かっているくせに、流は惚れ惚れとする声で続けた。

「今年の桜も見事だった。良い一年になるだろう。恵みの季節を知らせる東風(こち)にも、幸多き季節であるといいね」

 ただ、春を言祝ぎ、祀りを褒め称えた。それは祀りの後で、風謡に出会った神々が、人々が、必ず口にすることだ。本当に見事な桜を、そして風謡の舞を褒め称えてくれるのと同時、長い間の慣わしでもあった。ただの決まり文句だ。

「ありがとう存じます」

 風謡はゆったりとした動作で、彼に頭を下げる。銀の髪が、少し風に踊った。

 顔を上げてから、風謡は驚いて身を固めた。思いもかけず風謡の頬の近く、かすめるように流の手が延びてきたからだった。思わせぶりな仕草で、流は風謡の髪に触れる。――否、指ひとつ触れない。

 目を見開く風謡の前で、手を戻した流の指先には、桜の花びらがあった。風謡の髪に絡み付いていたのかもしれない。彼が手を離すと、その小さな欠片は、ひらひらと身を翻しながら、儚く落ちていった。ふいに、流が言う。

「桜さえなければ、こんな風に、春になって心がざわつくこともないのかな」

 楽しげな声は、若菜にかこつけて風謡を怒らせた、それと同じような言葉を繰り返そうとしているのが、風謡にも分かった。謝りたいと言ったくせに。

 髪と衣服の裾を風に遊ばせながら、男は鮮やかに笑んだ。

「君がこの世にいなければ、俺はもっと心安らかでいられたのに」

 ――簡単に。

 悪びれもせず。惑う様子も、不安な様子も見せず。謝りたかったと真摯な態度を見せたと思えば、すぐにひとをからかうようなことを口にする。

「あなたと言う方は、ひとをなんだと思っておられるの?」

 とうとう風謡は、言っていた。声が大きくならないよう、荒げてしまわないよう、懸命に抑えて。けれどもそれが、彼女の怒りを何よりもよくあらわしていた。

「わたしは、他の方々とは違います。そんなことを囁かれたからと言って、簡単にあなたになびいたりしないわ」

 どうしたいのか分からなくて、気が高ぶりすぎて目じりに涙がにじんだ。零れ落ちるほどではなかったけれども、それでも、涙が出るほどに感情を振り回されたのだと思うと、余計に腹がたった。

 簡単に、そんなことを言って、笑わないで。

 言葉を投げつけたかった。

 けれどもそれすら、彼の思う壺のような気がして、なんとか押さえ込む。睨むような眼差しを彼に向けると、悠々として構えているのだろうと思った流は、突然感情をぶつけた風謡に少し驚いているようだった。

 意外だった。思いもよらない反応に、少しひるんでしまう。けれど、驚いている様子なのが、なんだか許せなかった。今更だわ、と思う。

 これ以上何かを言われる前に、風謡は口早に、彼の前を辞する言葉をつぶやいた。何をつぶやいたのか思い出せないほど、急いでいた。




 宮の人間を手伝いにいこうと思っていたのも忘れて、風謡はただ闇雲に歩いていた。いつもは決して足音荒く歩いたりしないのに、彼女はひたすら前に向かって進んでいた。

「風謡!」

 すれ違いざまに声をかけられたのにも気がつかず、行き過ぎようとした風謡を、声の主が追いかけてくる。後ろから不意に腕を捉えられて、驚いて立ち止まった。

「ああ、香図音」

「もう、風謡ってばどこに行っていたのよ。探したじゃない」

 唇をとがらせて両手を腰にあて、香図音が言うが。彼女はすぐに怪訝そうな表情になった。

「風謡、どうしたの?」

 どうした、と問われて、わけもなく図星を指されたような気分になって、風謡は口をつぐむ。神の一員だというのに、まるで癇癪を起こした幼子のように、どうしようもない感情をもてあましているのを自覚した。いいえ、と自分を言い聞かせながら。――そもそも、何もありはしなかったのだ、と。

 いつものように、香図音に微笑み返す。

「どうもしないわ」

「怒ってるの?」

 驚いたように言う香図音の声で、笑うのに失敗してしまったのだと分かった。何があろうといつもならば、穏やかに笑んで何もないと言えるのに。思ったようにはうまくいかなかった。

「怒っていないわ」

「ほら、怒ってるじゃない。顔が赤いもの、怒ってるでしょ」

 赤くなんかない、と叫びたかったが、言われて自分の頬が火照っているのに気がついてしまった。気がついてしまったら、否定の声を上げることができなくなった。

「だって、あんなこと……!」

 珍しく声を荒げた風謡に、香図音が目を見開く。そしてすぐ、声を上げて笑い出した。

「また流様に何か言われたんでしょう」

 口走ってしまったことに自分で動揺し、さらに図星を指されて、風謡は今度こそ何も言えなくなってしまった。そんな彼女を見ながら、香図音は明るく続ける。

「あなたが実は、とってもとっても頑固で気が強くて、融通が利かないんだって知っていながら、流様も気が長いわ」

 風謡のことを誰もが慈愛の女神だと言う。十四いる至高の存在のうち、七つは慈愛に満ちた精霊たち。そのうち風を司る精霊と、風謡は似通った存在だ。風の善なるうちそのものを統べる精霊と、ただ春の元を吹く風を司る風謡では、その立場に大きな差はあったが。身の内にある慈愛の心は変わりない。だから、誰もが風謡を愛するし、誰もが「娘が生まれば風謡のように」と願う。

 その実、あまり知られていないのが、風謡は強すぎる正義感ゆえか、とても気が強く頑固だということだ。

「香図音まで。一体誰の味方なの」

「いつも言ってるじゃない。流様の味方よ」

「あなた、流様が好きなのではなかったの」

「流様は大好きだけど、風謡も大好きだもの」

 いつか、流に恋している、というようなことを言っていた。風謡から見れば――誰の目から見てもそれは恋とは違い、他愛のない憧れのような、懐いているようなものだったけれども、香図音は恋だという。彼女は恋がしたいから巫女にはなりたくないと言う。

「分からないわ」

 風謡が尚も頑なに言うと、香図音は楽しげに笑った。もう分かったから、ご馳走をもらいにいこう、と言う彼女はただ幼くて、恋とは遠いところにいるように見えた。風謡はこれ以上言い合いをしたくなかったし、動揺したことも忘れたかったので、手を引かれるまま歩いていく。

 ――恋などありえない、と思う。

 だから同じではない、と言いたい。他の人とは違う、と。

 秘め事を語り合う少女たちが肩を寄せ合って、頬を染めて彼の名を囁きあうのとは違う。移ろう心が一時その上にとどまるような、微笑ましく、そして軽々しいものは、自分はもたない、と。人と同じであってはならない。わたしは、同じであってはならないのだと、心に刻む。

 けれど同時に、どう違うの、と自分に問いかける。

 彼の言葉に、笑みに動揺して、心乱しているところのどこが違う、と。

 でも、認めない。

 ――だって、悔しいのだもの。

 同じように思われるのも悔しい、軽々しく思われるのも悔しい、簡単に手に入る珠玉の飾りと同じように思われるのも悔しい。やっぱり、と思われるのだって、悔しい。

 だからいつまでも頑なに拒み続けている。共に永の命を持つからというのもあった。彼も自分も、人と同じように消えていく命ではないから。

 ――海容は、やはり彼の方にあるのだろう。

 悔しいから、それだって、認めたりしないけれども。




 春の心は。

 ただただ広大な海の、奔放な波の上には、まだ吹かない。

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