愛ね、暗いね、納豆虫喰い・・・・・第六回 『最終話』
「まあ、意外に早くお電話くださったのね。」
ヘレナが言った。
「で、どうなさいますか?」
ぼくは、このところ大切なことを話そうとすると、舌がどぎまぎしてしまうようになっている。
以前は、こういうことはなかった。むしろ、”立て板に水を流すようだ~”と言われていたものだ。
自分としては、薬のせいと言うよりも、心理的な問題によるものだろうと思うけれども、この先回復するかどうか、あいかわらず自信がない。まあ、年のせいなのかもしれないが。
「あの、つまり、いろいろ考えたのですが、いっぺん家に帰して欲しい。」
「まあまあ、そんなもったいない。このまま『白い家』にお入りなさい。わたくしが、しょっちゅう訪ねてさしあげますわ。平安時代の逆ね。それが、あなたの幸せというものです。ね、そうしましょうよ。」
「いや、あの、でも、つまり、まだ、片付いていないこともあるし。」
「なに、それ?」
「いや、あの、たとえば君のことを書くこととか、音楽をいっぱい聴くこととか・・・。」
「まあ、そんなことでしたら、こちらでもできますわ。それも永遠に。ね、あなた、とってもいいセンス持ってるのに、今の『この世』では、決して報われないわよ。ここなら、すべてがポジティヴだから、否定する要素なんかなにもないもの。悪いこと言わないから、いらっしゃい。それとも、わたくしが、おいや?」
「いやいや、そういう問題ではないのですよ。」
「じゃあ、どういう問題? いいわ、埒が明かないから、これからそこに行きます。」
「ここ?」
「そう、あなたの部屋よ。」
「いやいや、それはまずいですよ。いくらなんでも、王女様か女王様かを部屋に連れ込んだなんていわれては困る。」
「まさか、そこは現世とはまったく別世界なのですよ。第一、現世ではこんなこと、あなたには地球の最後まで起こりっこないでしょう? まあ、いいわ。ならロビーで。」
「ロビーなんかあったっけ?」
ぼくの記憶によれば、フロントのほかには、スペースがなかったように思うのだが。
「ここではね、あると思えばすべてあるの。じゃあ十分後にね。」
電話は一方的に切れてしまった。
「あああ・・・・・」
反論されると、このところのぼくは弱い。相手が強いと、なおさらだめなのであった。
電話では、断りきれなかったのだ。
それには、ぼくの心の中の迷いがあったのも事実だと思うけれども。
フロントに下りてみると、なぜだか大きなロビーが、いつの間にかできあがっていた。
たくさんのテーブルがあり、きれいな椅子が並んでいた。
あっちのほうで、話し込んでいる男女もいた。
「あの、こんなフロアーありましたか?」
ぼくは、おおボケで、フロント氏に尋ねた。
「はい、もともとございますが?」
そう言われれば、これ以上反論してみても、無駄なことであろう。
ぼくは、少しだけ首を横に振りながら、一段低いロビーに入った。
それから真ん中あたりの席に座った。
まあ、相手は女王様だ。
待たされて当然だと思っていた。
「お待たせしましたあ。」
びっくりした。
もう目の前に、ヘレナが立っているのだ。
「どこから来たの?」
思わず、そう尋ねてしまった。
「変なご挨拶ですわね。」
彼女は怪訝な顔で言った。
「あ、いあや、だってあまりに唐突だから。」
「人生は唐突なのです。気がついたら生まれていて、気がつかないうちに、死んでしまうのよ。」
ヘレナはぼくの前に座った。
「やはり、お部屋に行きませんこと?」
「よく言うのは、君のほうでしょう。」
ヘレナはペロッと舌を出した。
「あなたのためよ。まあいいわ。で、お考えは変わりまして?」
ぼくは、すぐに答えなかった。
答えられなかった。
「ふうん。何かひっかかってます? 喉に、ですけど?」
「あの・・・」
ぼくは苦し紛れに尋ねた。
「はい?」
ヘレナは、なんだか少し、楽しむように言った。
「モーツアルトさんに、あの時何を言ったの?ぼくを外に出してから。」
「ああ、それね。・・・・・・内緒。」
「はあ、あの、もしかして未来を教えたとか、なにかを迫ったとか・・・」
「まあ、迫ったりは、ほとんど、しておりませんわ。多少は、まあ誘惑くらいは、しました、かな?」
「あやしい・・・。」
「まあまあ、疑われるのは、嫌ですわね。よろしくてよ。お話します。別に未来をお教えしたりは、しておりません。ただ、ご注意申し上げただけです。」
「注意?」
「はい。まず食生活に気をつけること。暴飲暴食や、偏ったお食事はだめです。生活のリズムを守って、お遊びが過ぎないように、お話しましたの。お酒はほどほどに。まあ、これはわたくし自身への戒めでもありますが。」
「それだけ?」
「はい。まあ、あと少しは。」
「何?」
「そうしないと、早死にしますよ、と、ね。だって私やあなたが、未来に存在したことを、・・少し日本語の時制が違いましたか。ま、そんなことは、彼は知りませんもの。問題ないわ。でしょう?」
「はあん。なんだか、ひっかかるなあ。君ほどの人が、それだけ言うために、わざわざぼくを追い出すかしら?」
「おやおや、鋭い! と、言いたいところですが。でも、それだけよ。本題はね。」
「本題以外は?」
「まあ、そうね。あなた、彼の死因を確かめたいんでしょう?」
「まあ、確かに。」
「でも、それは、本人に聞いても、無駄でしょう? あなたどうして、死んだのっ?て。だってまだ幽霊にもなっていないんだもの。」
「なにか知ってるかも。」
「そうね。あのね、でもね、わたくしそこまで詮索する趣味もお暇もございませんの。ただ、わたくしの推測でよろしければ?」
「いいですよ。」
「そ。あのね、モーツアルトさんの場合は、最終的には病死、ですね。」
「はあ。そう?」
「そう。いろいろ、皆様お考えですけれど、事実はそんなものよ。不思議な事が起こったら、どうしても神様や、宇宙人や、悪魔の仕業にしたいでしょうけれども。事実は、たいがい単純で、普通なものなの。」
「君にそういわれると、少し違和感があるな。」
「あらそう? いい。これは、推測。モーツアルトさんの、殺害犯としては、彼の周りのほとんどの人が疑われてきました。まず一番有名なのが、サリエリさん。でもこの方は、後年、自分じゃないとはっきり、きっぱり言っているけど、わたしはそれが本当だと思う。かれは、モーツアルトさんより当時はるかに有名で、高い地位があった。お金もあった。自分のほうが上だと認識できた。晩年には、そうじゃなかったかもしれないけれどね。モーツアルトさんの最後のころのお手紙でも、べつにサリエリさんに大して、とりわけて、不審も感じていないようだったわ。(1791年10月14・15日の手紙)だからサリエリさんには殺害の明確な動機がない。つぎにフリーメイソンリー。もし、『魔笛』で、組織の秘密をばらしたとしても、最初に標的になるべきは、台本作家のシカネーダーさんしか、ねーだろう? でしょ。でも、シカネーダーさんが狙われたとかは、なさそう。元気で長生きしてる。ましてシカネーダーさんには個人的な動機がない。大事な作曲家を失って、損するだけ。次に、ヴァン・スヴィーテンさん。彼にはまずモーツアルトさんを殺す動機がない。父親が作った水銀薬を、誤って処方したか、モーツアルトさんが間違って飲むかしたと早合点、あるいは確信したのか? これは、ないとは言えないけど、あまりなさそうかな、くらい。まあ、保留ね。そうして、ジュスマイヤーさん。彼は、モーツアルトに『魔笛』の手伝いで雇われた。もともとサリエリさんのお弟子さんだからね。でも、その前から、コンスタンツェさんとは面識があり、この二人は不倫関係があった、かもしれない、らしい?モーツアルトさんも、どうやらジュスマイヤーさんには不信感をたくさん持っていたようだし。奥様へのお手紙を見れば、わざと名指しを避けながらも、『スナイ(Snai)め!』とか呼んだりしているけどね。これはまあ、ジュスマイヤーさんでしょうね。 だから、本人には動機がまったくないとはいえないけれど、殺人をするほどの度胸はなさそう。レクイエムの完成を、補欠ではあったとしても、ともかくも引き受けたことは事実だし。でもなぜかそのための資料を持っていたようね。実は誰かの指示を受けて、モーツアルトさんに毒をもった。という説もあります。確かに疑わしい点も、ないことはない。奥様と共謀したとか。でも、ほかにも、奥様との不倫が疑われている方がいる。確か市役所の職員さんとかだったかな。でも、いずれもはっきりした証拠は出ていない。実際果たして、殺人という可能性がどのくらいあるのかしら?ある統計によれば、1820年に英国人の平均寿命は40歳だった。日本の江戸時代も、男40歳、女42歳という研究もある。一方で、1870年の人口10万人あたりの他殺率は、ドイツでもイギリスでも1.5人を挟んで、ドイツが少し上、くらいで、割と低い。イタリアは6人を越えているけれど。そこで、まあその百年も前のことだけれど、この二国はその後も今に至るまで比較的数字の上下が少ないのね。百年前もそう違わなかったと推測していいんじゃないかな。現代はさらに下がっているけれど。まあ、あくまで推測に過ぎないけれども、モーツアルトさんが、誰かに殺されたと考えるよりは、病死だったと思うほうが確からしいでしょう?」
「はあ、でも統計はそうでも、モーツアルトさんがそうだったとは言い切れないよね。」
「それはそうだけど、でも確証がない以上は、統計に沿って推測するほうがいいでしょう?超常現象をすぐUFOや未確認生物とかのせいにするより、人為的なものか、自然現象を考えたほうが確からしいものね。」
「君にそう言われると、少し不気味だけれどね。」
「あら、失礼ね。ただしね、その方々が、お互いに疑心暗鬼になっていたことはありうるわよね。たとえばコンスタンツェさんは、ジュスマイヤーさんが、何かしたんじゃないか、ジュスマイヤーさんは、奥さまがやったんじゃないか、ヴァン=スヴィーテンさんは、サリエリさんか、奥さんが何かしたんじゃないか、或いは自分がしくじったか、と思ったかもしれないわ。シカネーダーさんは、組織の関与を疑ったかもしれない。サリエリさんも、誰か同業者の中の競争相手を疑ったかもしれないし、自分が情報収集も兼ねて送り込んだ弟子が、どじをしたと、思ったかもしれないわ。さらに世間はいつの間にか、サリエリさんを疑い始めていた。なんて具合にね。まあ、証拠なんかないけれどね…ところで、あなたね・・・」
「はい?」
「あなた、自殺用のお薬持ってたわね。チョコレートにくるんだ大きな粒が三個。」
「あ、え?あ! ええ! どうして?」
「ばかね。『白い家』を出るときに気がついたから、もらっちゃった。でもね・・・」
「あの、返してください。」
「あんなもの、どこで手に入れたの?」
ぼくは、言い淀んだ。
「あの、あれは、以前、自称火星人のペアに、『不思議が池』に放り込まれた後、幸子さんがくれたんだ。『死にたかったら使っていいわよお~』とか言って。『一個飲んだら半年くらいで、二個なら一ヶ月くらいで、三個飲んだらすぐ死ねるのよねえ。』とも。」
「はああ、確かに、あれはわたくしが『池の女神様』たちに、必要なときだけ使いなさい。と言って渡していましたの。」
「え?そうなの?今どこにあるの?」
「あれね、あの後『白い家』の、あの部屋の棚の中に入れておいていたの。ところがね、一個なくなっちゃったのね。」
「え、どうして? あの家は、僕だけのためのものって言ったよね。」
「まあね。でも空いてるときは、使ってもいいでしょう。だからね、ね。」
「ね、って、何ですか?」
「だから、あなたがお尋ねになった、あの十分の間に、モーツアルトさんに来てもらったのよ。少しお疲れのようだったし。実際にはいっしょに一晩泊まって、10分後に、戻ったの。おわかり?」
「ぜんぜん。」
「でも、まあそうなのよ。その後、時々疲れたらお休みにいらしてくださったの。ところが、まあ、あの家では、時間の経過と言うものが、現世と違うの。彼は、ある日、あのお薬が、いえ、チョコレートが、棚にあるのを見つけた。で、一個つまみ食いしたんじゃあないかなあ、と。で、そのときの彼は、1791年に帰ったの。」
「ええ!?それで、その後どうしたの?」
「だって、食べちゃったものは仕方ないでしょう? ついでにもうひとつ言えば、彼とお約束いたしましたの。自分の死後は、私の『永遠の都』に来てくださる、と。その際、ご遺体はいただいちゃいますよお、って、ね。」
ぼくは、絶句した。
「まあ、だからね、あなたにとっても、病死だったほうが、いいことないかしら? 今回は、現世に返してさしあげますわ。でも、よく考えてね。チャンスは、あと一回だけよ。『永遠の都』に入ってくださいな。お待ちしておりますわ。でも、きちっと意思表示してほしいなあ。ほら、お薬返して差し上げますわ。電話番号は同じよ。それまで、せいぜい頑張って、わたしのこと、書きなさいね。じゃあ、またお会いしましょう。」
ヘレナは、消えたりはせずに、ちゃんと玄関から出て行った。
それで、ぼくはまた、こうしてパソコンに向かっているのだ。
夕べもあまり、寝られなかった。今後、どうするかは、まだ考え中である。