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愛ね、暗いね、納豆虫喰い・・・第五回・・・回想

 すぐ目の前にトンネルの入口(出口)が出来たようで、ぼくはいつの間にかその中に吸い込まれてしまった。

 あとがどうなったのかは、全く知らない。

 ヘレナがきれいさっぱり片づけたのだろうけれど、あのあと、必ずや確認に来たはずの男爵も当局も、さぞかし困惑したに違いない。第一、男爵の手元にはヘレナからの贈り物が残っていたのだ。

 でも、あれには、一体何が入っていたのだろうか?

一方で、モーツァルトはかなりの収入を手にしたのだと思う。

ぼくの浅はかな知識では、『ドン・ジョバンニ』はフィガロほどにはうまくゆかなかった。皇帝からやっと宮廷音楽家の位はもらったが、俸給は少なかった。

 当時モーツアルトにはイギリス行きの噂が飛んでいた。

 当局はさすがに天才を手放したくはなかったらしい。

 しかも相手がイギリスとなれば、なおさらだろう。

 ならば、もっと手厚く待遇してあげればいいものを、と、ぼくたちは思うが、当時の音楽家の地位は、まだそこまでのものではなかったと言う事なのだろうか、どっちつかずの、窓際族状態にとどめ置かれてしまう。このあとモーツアルトは、必死にじたばたと頑張ったが、本人の意思とは裏腹に、どんどん奈落の底に引きずり込まれて行くことになる。

 まさに、ドン・ジョバンにのようにだ。


 結局、先輩で、友人で、競争相手で、計算がしっかりできる、大ハイドンが、先にイギリスに渡ってしまう。

 モーツアルトも、その後ハイドンと交代でイギリスに行く計画ではあったようだ。

 しかし、残念な事にハイドンが帰国したときには、モーツアルトは、もう亡くなってしまっていた。

 


一体ヘレナは、あの時、何をしたのだろうか?

 彼女は、歴史を書き換える積りだったのだろうか?

 ぼくがトンネルから出て、現世に帰ってみたら、モーツアルトは八〇歳位まで生きていて、ベートーヴェンと覇を競い合い、大曲をさらにたくさん生み出していた。

 おまけに、ぼくはニ百年以上前の王国の大臣に収まってしまっていた、なんてことが起こっていたりしないだろうか?それはそれで、なかなかに魅力はあるけれど。


「お帰りなさいませ。よくぞご無事で。」

 フロント氏はそう言った。よほど危険な場所だったような言い方だ。なら、先にそう言ってくれてもよかったのではないかな、とも思ったが。


 ぼくはホテルの自室に戻って、ずっとぼんやりと考えに沈んでいた。

 母が亡くなる前の十年位は、それこそ大変だった。

 まだ生きていた父に向かって、ずっと大人しく従順だった母は、ある日、世界に対する戦争宣言を行った。

「これからはもう、喧嘩して回る!」と。

 それ以来、言葉の通り、母はご近所、ぼくの妻、その実家、親戚、学校、警察、病院、裁判所、有料老人ホームなどを、次々に巻き込みながら世界戦争を開始した。

 当然のことながら、長男であるぼくは、その戦いに否が応でも巻き込まれてゆくことになる。

 今の時点では、大部分の関係者の方が御健在であり、相当な失礼に当たってしまううえ、ぼくとしても具体的に事実を列挙するには、あまりに憚ることが多すぎる。

 だから、なにがどうだったと書くことはまだできない。

 いずれにしても、ぼくは、夜な夜な、あるいは真夏の太陽が照りつける真昼にも、冷たい雨がぼそぼそと降りしきる日にも、仕事はしょっちゅう休みながら、各方面に謝罪や説明に走り回る事となってしまった。

 県外のおじからは「どんな薬を使っても、どこに監禁してもいいから、外に出すな、電話を使わせるな!お前にやれないなら、おまえの奥さんにやらせるぞ!」

 と、厳しく言い付けられた。勿論犯罪をしろと言う訳ではないけれど、すれすれの表現だったし、周囲の人々の気持ちは、言う、言わないはあるにしても、大体同じであったろう。

 当時、これも県外に住む母の姉も、少し早く同じ状況、というより、もっと過激な状況になっていた。

 従姉妹二人からは、「苦しいけどお互い頑張ろう。」とエールを送られていた。

 母の妹からは、「どれだけ苦しいか、回りはさっぱり理解してくれない。」とよく厳しく訴えられた。

 相当苦境に追い込まれていた事は、想像に難くない。

 かかりつけの先生と相談して(当時いつもぼくをバックアップして下さった。「あなたのお母さんの恐ろしさは、他の人にはわからないから・・・」と。)、有名な大学教授の先生にも助けを請うたが、上手くゆかなかった。

 母の体調がすぐれなかったり、怪我をしてくれたりすれば、ここぞ、とばかり入院してもらった。

 最初暫くに間は、父が終末期の苦しみの中にあって、母もそちらに気を取られていたので、まだ周囲に被害はあまり及ばなかった。二人揃って入院してもらったりしていたが、父が亡くなってからは、一切の重しがなくなってしまった。

 従姉妹が「ゆうねえちゃんが問題起こしたら、しんちゃんが職場で困るのよ、出世も出来なくなるよ。」

 と諭してくれていて、初めのうちは、少しは効いていたが、そのうち「そんなことは関係ない」と言いだした。

「仕事辞めなきゃならないよ。」とぼくから愚痴を言っても、

「そうすればいい。その位のお金は貯めてるんでしょう?」

 と来る。

 やがて、万策尽きて、怪我を理由にして、入院から有料老人ホームに入っていただいた。

 大体、月二十万円くらいはかかる。

 ぼくの交通費込みの手取り給与の三分のニほどになる。

 親の年金と貯蓄が頼りではあったが、ぼくの蓄えも(ぼく自身は、お酒もたばこも、賭けごともしない。子供もいない。職場のお付き合いも最低限度にまで切り詰めていたし、友人づきあいもほとんど『なし』にした。けれどもぼくには病気があった。音楽関係のCDや本だけは切り詰められなかった。周りの方から見れば、『散財』に等しかっただろう。言い訳すれば、それがぼくの唯一の、ストレス解消法だった。けれども職場におけるクラシック音楽の地位は、野球などのスポーツに比べてみて、《比べるまでもなく》、いつもどこでも、とても低かった。日本ではそれが普通だけれど。)どんどん減少して行った。

 けれども、老人ホームの中でも、母の周囲に対する攻撃は止まなかった。

 内部の方にも、ちょっとしたことで、様々な攻撃を行っていた。

 その際には、『六法全書』を持ちだして、施設長さんを責めたりもしたらしい。

 職員の方は、仕事とはいえ、大変だったことだろう。

 近年、介護職員の方を巡る問題が多く発生している。 

 ご本人側の非を責めることだけでは、決して解決できないことは、明らかである。

 人間全員が、ベートーヴェン先生クラスの強靭な精神力を持つのであればともかく、相手の立場や、心を大切にしようとする方ほど、苦しみ悩む事になりかねない。(けれどこれは、社会的には『負け組』と見なされてしまう風習もないとは言えない。就職採用試験でも、そこを心配して、あまりに『良い方過ぎる』として、採用されないケースもある。精神的に弱そう、批判されたら、うまく対応できない、壊れそう、という事だが。)その結果、どこかで心が壊れてしまったり、心得違いをしてしまって、その中には、恐らくごく稀にではあるが、間違った逆攻撃に転じてしまう人が出るのだろう。けれどもそうなったら、社会には、本人側には同情する余地があまり無い。社会は規範で成立している。事後のケアは勿論大切だけれども、ある意味、犯罪直前で、または、もう自殺寸前で苦しんでいる人を、最後の誤った決断と実行の前に、なんとかして救ってあげるシステムが、もっと必要なのだ。会社や、地域社会の中にも。

 そこを逆手にとって、さらに相手を攻撃するような、したたかな方もあったり、さらにその裏を読もうする人との小競り合いとかもあるようだが。このあたりは、プロのみなさんにお任せしないと、素人は混乱してしまうだろう。


 ぼくはキリスト教徒ではないけれど、ミサ通常文の『グローリア』(栄光の賛歌)にある、『地上では善意の人びとに平和を』という言葉は、なるほどそうだと思う。もっとも『善意』とは何か、が問題なのだが。人によって『善意』や『正義』が異なるとしたら、問題は複雑になる。

 ぼくは小学生時代から、宮沢賢治の書いた次の文章が、ずっと心に残って来ていた。

『~みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだろう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。~~そして勝負がつかないだらう。~~実験でちゃんとほんたうの考えとうその考えとを分けてしまえばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。~~』(『銀河鉄道の夜』初期形第三次稿)

 賢治は、親友だった保坂嘉内氏を何とかして説き伏せて、自分と同じ信仰に入るよう強制し、結局決裂したことがあったらしい。賢治は日蓮宗の熱心な信者で、『国柱会』という団体に所属していた。この出来事は1921年の事だったという。(『宮沢賢治の聞いたクラシック』萩谷由喜子氏 2013)さっきの文章と合わせて見ると、非常に合っているような、まだ矛盾しているような、両方の感じがする。『銀河鉄道の夜』はおそらく1924年に書きはじめられた。『銀河鉄道の夜』の成立過程はとても複雑で、さっきの文章の前後(『セロのような声』の部分)は、その後削除されてしまっている。

 けれども、ぼくにとっては、この文章こそが、小学生以来の『核心』であった。

 偉そうなことは一切言えないという前提で、これがぼくの職場での基本スタンスでもあった。

 ここを、結局賢治が削ってしまった事は、これまで、かなり消極的にひっかかってきていた。そう、モーツアルトの偽作『管楽器の為の協奏交響曲K³.297b』は、かつてコンピューター解析の結果として、他人の手が加わったとコンコンピューターが判断した部分を削除改定した録音が出された事があった。演奏者は、フルートのニコレさんはじめ名人ばかりである。その際、提示部で現れる、ぼくの大好きなフレーズがカットされてしまっていた。まあ少し内容の質が違うが、そんな喪失感を受けていたのだ。

 専門家の方は、賢治には、こうした『解説』(受難曲で言えば、エヴァンゲリストの役目)はもはや必要が無くなった、と考えたのだろうともおっしゃっているようだ。(宮沢賢治全集7(ちくま文庫)の解説)

 なるほど、書いていなくても賢治の意図は明らかなのかもしれない。

 しかし、一介の出来の悪い、へそ曲がりな(と言われ続けた)小中学のぼくには、これはかけがえのない大切な文章になったのだ。夕方の自室で、小学校の図書館で借りたこの童話の本を、泣きながら読んでいたことが懐かしい。

 高校生の時に、ぼくはこの部分について、論文風に仕立てて書いたことがあった。

 当時、国語の代用教員として短期間だけ来ていた、美しい女性教師の方が言ってくれたことがある。(とある、日本を代表する企業への就職が、その時点で決まっていたようだ。)

「こんな、すごい文章が書けるのに。どうしてもっと勉強してもっといい大学に行こうとしないの?」

 と、授業の時に言われた。中学生時代の教師とは、まったく違う対応だったのだ。

 ぼくはいつものように、真正面から取りあわなかったけれど、実はそれなりにうれしかったのだ。ありがたい事だったと、今は本当に感謝している。

 まあ、言ってみれば、小学三年生の時に書いた『汽車を見た』という詩(その時の学校の先生の解釈は、実はまちがっていたのだが・・・)と、この時だけが、ぼくの書いた文章が褒められた瞬間だった。

 職場では、上司から『あなたの文章はふざけていて、書いてある内容はまあ素晴らしいが、子供じみてる。もう五十歳も過ぎて、いいかげん大人になりなさい。」

 と、叱られていた。(まあ、勿論そういうのは正式な文書ではなくて、ぼくと部下のみなさんの勉強用に書いた、ミクロ経済学などの、簡単なおもしろ解説だったけれども・・・。仕事用の文章は形が決まっているから逸脱のしようがないもの。)


 ところで、母は、『お母ちゃんは正義の味方。お母ちゃんがいつも正しい。」

 と、喧嘩して回りながら言っていた。

 その都度、ひたすら謝って回る立場からいえば、困った言いぐさである。

 しかし、本人が本気で正しいと信じているのだから、これはいくら言ってみても、解決は非常に困難なことになるのである。

 一つ一つは、決して全てが間違っているわけではないが、定規の当て方がめちゃくちゃなのである。

 そうして、結局、ぼく自身が、その暫く後、母と同じ方向で壊れて行った。

 どうやら自分が母と同じ事をやっているらしい、つまり同じ症状(毎晩寝られないと愚痴る。間違ってるのは回りと判断する。あるいは自分は、社会に必要のないどうしようもない悪者、と即断するかのどちらかで(ここは母と違う)、いつも自殺を希求し(今もだが)、社会との直接な接触を嫌い(ここも母と少し違う。母は、病院の待合室で、「こんなことがあっていいのですか?」と言いながらアンケートを取ろうとしたことがあった。ぼくが、「人を批判するのにはきちんとした証拠が必要だよ。推測や思い込みだけで他人を批判しちゃだめ。」、と言ったものだから、録音や写真を撮ろうとして、いろいろやっていたらしい。)、人と話なんか、あまり、したくもなくなってしまった。自分はいつもいじめられ、攻撃されていると考えざるを得なくなった。(これは母と同じだが、母は逆攻撃に出て、ぼくは引き籠った。一旦は復職したものの、前述のように、もうあまり仕事も上手くゆかず、真面目な職員の方達からの、思わぬ攻撃対象にもされてしまい、結局は悪循環のなかで仕事は止めて、今も再び引き籠っているのだが・・・。でも、ぼくは周囲の方とのトラブルは、絶対に好まない。このあたりは、母とは大違いなのだ。それにもうすぐ六十歳なので、あまり傍目にはひどく変でもないらしい・・、と勝手に思う。やっぱり変かな?)


 さて、モーツアルトについての大きな謎のひとつは、その死因と言われるが、何故『死因がおかしい』と言われ出したのだろうか?

 いくつかの本を読むと、葬儀のときには、参列者も少なく、社会的にはなんだか無視されてしまったような雰囲気しか伝わってこないのは、あまりに悲しい。

 1791年12月5日、午前零時55分にモーツアルトは息を引き取った。

 前日4日には、『レイクエム』の『ラクリモサ』の部分まで知人達と歌ったと言うが、その後容体が急変した。お医者様も呼ばれた。(観劇中ですぐには来なかったと書いている本もあったが。夜間のことで、これは仕方がないだろう。)

 その時医者は、冷たい湿布をした。これがモーツアルトの命を少し、縮じめた? という記事もそこに書いてあったが、その医学的な根拠は、ぼくには判らない。

 ただ昔とは言え、18世紀も後半である。

 おまけに天下の都市、ウィーンでのことだ。

 さらに貴族でも大金持ちでもなかったが、皇帝陛下の知遇まである、それなりの有名人だ。

 もうちょっと何とかならなかったのか? と、たしかに思ってしまう。

 この辺りにも、陰謀説が入り込む余地は十分にある。

 その本では、遺体のきちんとした検死も行われなかったと書いていたが、別の資料では、実際は主治医と他の医師とが検死を行った、と記録している。

 デス・マスクも作られたが、後世には残っていないようだ。

 葬儀の費用は、ヴァン・スヴィーテンが出した(彼の父親は、偉大な医師だった。)、だから、それなりの人物が関わってくれていたわけである。(であるから、男爵が怪しいと言う向きもあった。)

 モーツアルト急死の知らせを受けて、男爵は自宅に駈けつけて死後の様々な事をコンスタンツェに代わって行った。

 モーツアルトの遺骸は、7日の午後三時に聖シュテファン教会で最後の祝福を受け、その後聖マルクス墓地に運ばれた。(以前は葬儀は6日だったとされていた。)

 ヴァン・スヴィーテン、弟子のジュスマイヤーなど十人程度が葬列に加わっていたが、埋葬の場所にまで付き添った人はいなかった。これは本当に謎だ。ちょっと考えにくいからだ。  

 なるほど、ぼくが一か月前にどんな行動をしていたかを、時間単位まで示す資料は残していない。

 だから、本人が、もう分からなければ、シャーロックホームズでもそこまでの解明はできないだろう。(なにしろじっと家に閉じこもっていて、ときどき散歩か、買い物に出かける程度なのだから。)まあ、ぼくの場合は、殺人か自殺でもなかったら、調べようと言う人も出ないだろうけれど。

 ただし、今の総理や大臣は違うかもしれない。マスコミの方がしっかり記録しているだろうから。それでも何時何分にお手洗いに何分入った、は、無理かもしれないが、どうだろう?

 モーツアルトには、なおさらそういう貼り付きの記者がいたとは思えない。

 それも陰謀説にはもってこいなのだ。

 すべての人の行動が、秒単位で記録されていたら、大体陰謀などは起こらないだろうけれど。

 自由は陰謀の隠れ蓑でもある。悪く言えば、だが。


 モーツアルトのなぞに関して、昔からもう一つよくいわれていたのは、レクイエムの作曲にかかわる出来事についてである。

 1791年の7月に、見知らぬ黒服の男がモーツアルトを訪ね、レクイエムの作曲を依頼していった。モーツアルトは、悪魔が、自分のためのレイクイエムの作曲を依頼してきたのだと思ったかのように、作曲を続けたが、ついに未完成のまま亡くなってしまった。

 しかし、これについては、モーツアルトの元を訪れた黒服の男は、アントン・ライトゲープさん。彼を差し向けたのは、フランツ・ヴァルゼック=シュトゥパハ伯爵さんだったことがわかっている。

 ただ、この仕掛けには不思議な点もある。伯爵は、作曲家に作品を依頼しては、それを買い取って自作として発表するという趣味があったらしい。

 このときは、亡くなった奥様の命日のための作品をモーツアルトに依頼し、自作として発表したようだ。

 ただ、この伯爵のウィーンの屋敷には、モーツアルトのたびたびの借金申し込みに答えて、(モーツアルトさんにお金を貸すということは、けっして返ってこないことを意味していた・・・)彼の生活を支えたプフベルクさんという方が住んでいたのだそうだ。

 三人ともフリーメイソンだったということであり、もともと知り合いだったかもしれない。

 これは悪魔の訪問ではなくて、実は救世主の訪問だったのかもしれないわけだ。

 

 大分、後の時代になって、指揮者のクーセヴィツキーが、作曲家バルトークの窮地を助けようとの考えから、新作を依頼した事例がある。この時作曲されたのが「管弦楽のための協奏曲」であり、バルトークの最高傑作のひとつとなった。(1943年作曲・1944年初演:指揮:セルゲイ・クーセヴィツキー)クーセヴィツキー氏は新作と栄誉を手にし、バルトークには収入が入る。

 もしかしたら、レクイエムもこれと同じようなことだったのかもしれない。しかし、バルトークも残念なことに、翌年、1945年に亡くなってしまった。

 

 まったくの余談だが、学生時代にエルネ・レンドヴァイ氏(最近は、ハンガリー式(日本と同じ)に姓を先に書くようなので、レンドヴァイ・エルネ氏)の『バルトークの作曲技法』という本を読んで、難しいのでよくわからないなりにも、自分なりに考えたことがあった。それはバルトークも、大好きなシベリウスも、それぞれ独自の形式理論に基づいて、単なる『民族性』を普遍的なものに高めていったのだろうな、ということだった。バルトークはソナタ形式の中にも『黄金分割』の理論を持ち込み、シベリウスは、そのソナタ形式自体をもとにしながら、それを捨てていった、と。けれども今は、そのレンドヴァイ氏の理論自体が、分析に恣意的なところが多いとして批判されているようだ。となれば、ぼくの得た考えも、本人の意図とは関係のない、勝手な思い込みにすぎなかったのだろうか。だいたい自分で分析したわけではないのだから。ぼくたちがマスコミや本で得ている情報や知識には、結果的に受け売りが多くなるのは、まあ庶民にはいたしかたのなところとはいえ、注意が必要だとはいえるのだろう。まったくの余談で、申し訳ありません。

 

 大分話が混乱しているが、ぼくにとって、ヘレナはそのすべてを解決してしまう可能性を持っていた。

 彼女がやろうと思えばだが。(つまり、ぼくがやらせようと思えば・・・)

 だから、彼女は、ぼくにとって、あたりまえに本当に魅力的な存在だった。

 全ての、権力も、武力も、攻撃も、嫌がらせも、いじめも、彼女の前では、まったくの無力になる。

 こうした考えは、最近のインターネット内小説に満ち溢れているが、別に最近発明されたものなわけでもない。

 尋常ではない力のある主人公が、ぼくたちには出来ない、悪人征伐をバンバンしてくれれば、気持ちがすっきりするというものなのである。

 しかし、困った事に、ヘレナは正義の味方と言うわけでもない。

 彼女は、地球人類の征服をたくらむ集団のボスであり、地獄の首領でもあり、魔女でもあり、「悪魔!、魔女!怪物!化け物!」と言われることが、ことのほか大好きである。一方で王国の王女様であり、正義の代名詞であり、天才であり、しかし肌の色から、時には差別される対象にもなる。お饅頭が大好きで、高校生のくせに大酒飲みで(母国では合法)、陰では不良グループのリーダーもしている。人助けは意外にも大好きで、面と向かって相手を罵倒したりはしない。とても上品で、反面そうではない。

 おまけに彼女の正体は、生きてさえいないのに、この世の中では生きているように振舞う存在。

 殺す事も出来ないし、生きていないから死ぬ事もない。

 感情は、乗り移っている人間からの借り物で、もともとはそんなものは持ち合わせていない。

 アニメのブラックヒロインと、正義のヒロインとの両方を同時に体現する。

 それが、ぼくの悪質な劣等感と、孤独感と自己中心性と、死に対する恐怖と、甘えと、幻想癖、と、そうして実在の彼女と・・・、などがごたごたに「元になっている」ことは、容易に想像が付く。

 職場内でも、時にそうした『幻像』を披露してしまう。ぼくは、職場内部の緊張の緩和策のつもり(お客様には、当然いたしません。)でも、真面目な人たちには、非常に違和感があるだろうし、理解しにくいことだろう。おまけにぼくには、あまり権力者の区別がない。相手が誰でも、同じような丁寧さを自分と部下に求める。偉い人だから特別丁寧にしなさい、ではない。相手が誰でも、平等に『丁寧』に『やさしく』なのだ。

 一方で、ヘレナは周囲から『王女様』、『女王様』として尊重される存在だ。

 ぼくには、それに対する憧れもある。

 そうしたものを、嫌いながら、憧れがある。

 矛盾以外の何者でもない。

 それに芸術家だけをやたらに尊重する。

 政治的、経済的、組織的な偉い人を認めたがらない。

 反社会的ではないけれど、組織には適さない。

 結果的に、組織から落っこちてしまうことは、目に見えていた。


  おまけに頭の回転が悪いときている。

  これはもう、致命的である。愛想のよさだけでは世の中通らない。

  医者からは、自己否定は厳禁されている。

 しかし、仕事からも引退してしまった今、この事実を前にしても、いったい誰の為に、自己否定を否定する理由があるのだろうか?

 もっとも社会的な問題行動は、基本的には行わないと言うのが、ぼくの基本姿勢である。

 つまり自殺とか、犯罪とかは、この規律に真っ向から反する。

 

 けれど、そう言って行くと、結局は、自己否定以外の選択肢はなくなる。

 前向きに考えれば考えるほど、選択肢はどんどんなくなり、最後にはそれ以外には残らない。

 まるで宇宙の行く末のようなものだ。

 そのくせ、神さまに助けを請う事は、多少しなくはないが、特定の信仰も否定はしないが、自分では捧げない。

 神さまから見ても、馬鹿らしくて、まともに扱いたくはない相手だろう。ゲーテの描いたメフィストよりも、なおさらに扱いにくいだろう。

 

 でも、ここからは考えて見て欲しい、年老いた親の看護は、ひたすら同じ事で問題行動を繰り返しては、回りに迷惑ばかりかけてしまう、大切な親をしっかり見届けてあげることでもある。

 トイレで失敗ばかりする父親の後始末をしながら、(蓋を開けずに実行したり、だからふたの上に現物が載っている。反対向いてその場所ではないところで実行しちゃったり、おかげでトイレは湖、なんてこともあった。)まあ、後始末もそれなりに楽しいものだ、とも思った。だってぼく以外の誰にも出来ない、今だけの至高の業務なのだから。笑っている自分だって、大概そうなるけれど。)

 ただし、今、親の介護などで同じ境遇にある方には、息抜きもしながら、自分をあまり追い詰めないように、十分気を付けて、ぼちぼちやってください、と本当に言いたい。自分が病気になってしまっては、あまりに惜しい。それはやはり悲しい事だから。どうか、思いつめすぎないようにしてください。世の中が絶望的であるということは、逆に言えば、可能性はまだ眠っているということです。可能性に起きてもらおうではありませんか。あなたの眠っている可能性は、たたき起こしてあげましょう。

 

 なお、心に勇気がほしいときには、経験上、やはりベートーヴェン先生が、疲れきっていて、もうお休みしたい心には、シューベルト先生が、割とじわっと効きます。


 そんな事をずっと考えていたら、寝られなくなるのは当然である。

 ぼくは、三日三晩、少し寝ては、また同じことを考え続けた。お風呂でも、トイレでも。

それから、ようやく、ヘレナに教えられた電話番号に電話をかける決心をした。

 ツーという発信音がした。

 相手が相手である。どんな対応があるのか心配になるのは当然だろう。

「はい、弘子、もしかしてヘレナです。」

 青空が、さらに突き抜けるような明るい声がした。


























 






 































 






 









 














 







































 









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