愛ね、暗いね、納豆虫喰い・・・第ニ回・・・
その大きな石碑まで、一五分位は歩いただろうか。
本当に、見上げんばかりの巨大なものだ。
四階建てのビル位はありそうだ。
表面には、訳の分からない文字が沢山刻まれているのだが、ぼくが見た事のあるどんな文字でもなさそうだった。
これがどういう性格のものであれ、珍しい物には違いがないだろう。
写真には撮っておこう。
全景は、さっき遠くから撮影しておいた。
あまりに大きすぎて、ここまで来たら一部分しか映らない。
少し離れた岩の上にスマホを置いて、タイマーで撮影した。
この写真は、いまでも『白い家』の机の上に飾られたままになっているだろう。
それれから、言われたように石碑の表面を触ってみる事にした。
あったかい。
びっくりした。
どうして、この夜の世界の中にありながら、こんなに温かいのだろうか?
昼間だった時の熱が、こもったままなのだろうか?
まるで、母が亡くなった直後の、あのあったかい手のひらのようだ。
ぼくは、石碑の基台に寄りかかって座りこんだ。
そうして、母が亡くなった日の事を思い出していた。
当時ぼくは、往復一八〇キロの通勤経路を、高速道路通勤していた。
往復約三時間はかかるところ、休み休み行くので、四時間くらいはかけていた。
すでに精神安定剤や睡眠導入剤を飲んでいたけれど、通勤途上に音楽をたくさん聞けることは、楽しみにしていた。
この時期だけで、モーツアルト、シベリウス、ベートーヴェン、バルトークの全集を聞いてしまい、ハイドンのオペラ以外の作品を、かなり聞いたところまで行っていた。
母が危ないと言う連絡を、病院から貰った時、ぼくは知的障害をお持ちの方の相談の予約があって、そちらを優先した。
二度目の電話を受けた後、さすがに途中から仕事を係の他の方にお願いし、職場を飛び出して、交通違反は承知の上で、高速道路を文字通りぶっとばした。
病院まで、あともう十分というところまで来たところで、病院のドクターから電話があった。
「すみません、努力したのですが、いま急に心臓が止まってしまいまして・・・」
ぼくは、それが、母の死である事が、すぐにはピンとこなかった。
実のところ(少し怪談めいて恐縮ですが)、この日の朝、いつものように6時過ぎに出勤しようとして車を動かし始めた後、なぜかカーステレオが上手く動かない。あれ?壊れたかな?!それならラジオを聴こうとしたが、どうしてもチューニングが出来ない。後にも先にも、この時だけの現象だった。何故、気が付いて病院に行かなかったのだろうか。そこからなら一〇分程度で行けたのに……。
永遠に悔やむことになってしまった。
さらに、余談だけれど、このあとぼくは腎臓に異常をきたす事になる。
母が亡くなった次の年の夏の事だった。
それで、軽い放射性物質を体に入れて、腎臓の動きを確認する検査をした事がある。
そのとき、待合室の中で、ぼくの前に座っておられた、より年長の方に尋ねられた。
「あなたも、心臓ですか?」
ぼくは、こう答えた。
「いえ、ぼくは、腎臓です。」と
別に洒落を言ったわけじゃあないけれど、なんとなく、そんな雰囲気になってしまった。
「ああ、この検査は、心臓の人ばっかりかと思ったものでね・・・。」
その方はそう言って、検査室に入って行かれた。
しかし、考えて見てください。
腎臓は左右に二つある。
心臓は、何故か一つしかない。
腎臓は、片方が止まったとしても、もう一方が生きていれば、日常生活に大きな支障は出ない。
どうして、より危急な事態を引き起こす心臓が一つ、しかないのだろうか。
病室にたどり着いた時、母は、ぼくが買ってあげた、百円のくまさんのぬいぐるみを、しっかり両手で抱きしめたまま、亡くなっていた。
まだその体は、温かかった。
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巨大なモニュメントは、ずっと温かいままだった。
まるで母に抱かれているような、良い気持ちになれた。
このまま、永遠に、ここでこうして座っていたかった。
とは言え、そうもゆかない。
ぼくは立ち上がって、石碑の後ろに回って見た。
小さな文字が、びっしりと書き込まれている。
しかしながら、まだ半分以上は、ぴかぴかの綺麗な更地のままなのだった。
そうして、一番最後の方に、見覚えのある文字がいくつか並んでいるのに気が付いた。
ぼくは、外国語が分からない。
でも、どこの言葉なのか、くらいは、多少は分かる。
英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語、スペイン語、そうして漢字、ハングルがあり、日本語があった。そのあと、たぶんタルレジャ語が最後にあった。
『私の思い出、そう、想い出』
そうあった。一言だけだけれども。
火星の女王様の、思い出(想い出)なのか。
それにしても、物凄い分量ではないか。
この一言が、これだけの言語で刻み込まれているのであれば、いったいどれだけの量の想い出なのだろうか?
日本語では、二つの文字を重ねているのも、また思い出なのだろう。
まだ、あと、沢山の領域が残されている事を見れば、女王様はまだまだ沢山の思い出を、作り出す積りらしい。
青い月は、もう頭の真上くらいにまで昇って来てしまっている。
フロントさんの言葉を思い出した。
ぼくは、せっかくだから、もう少しこの周囲を散歩して見ようと思った。
地面は、平坦に均されている訳ではなかった。
舗装もしていなかった。
が、歩きにくいと言うような事もなかった。
その中に、なんだか解らない、石畳の道があるのに気が付いた。
「あらら、これ何だろう?」
気になったら、行ってみたくなるものだ。
観光バスの発車時刻は気になるが、見たいものは見たい。
せっかく観光地に来たのに、途中の渋滞のせいで、決定的な風景を見る時間が無くなって来てしまった時の、言いようのない残念さは、けっこう根深いものだ。
この石畳は何だろう?
どこに続くのだろう?
ぼくは、見ている間にも、少しずつ動いてゆく青い月を見上げながら、石畳を追いかけた。
ああ、それは本当に宮沢賢治のアニメのようでもあった。
突然周囲が、がらっと変わった。
青い空が輝きわたり、そよ風が傍らを気持ちよく吹き抜ける。
美しく、色とりどりの、かわいらしい草花が、石畳の道をずっと同じ方向にたどって行っている。
その道は、だんだん上の方に上がってゆくのだ。
丘になっているのだ。
ぼくは、その先を見た。
家がある。
真っ白な、けっして大きくはないけれど、その場所にぴしっと収まっている感じの、美しい家。
その輝く青空には、でもあの青い月がぼんやりと浮かんでいる。
こんなことが、ありうるわけがない。
でも、確かにぼくはここに居るのだ。
少しもう落ち始めた青い月をちらっと見て、ぼくはその石畳の道を上に向かって急いだ。




