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第八話 <ディリエルの戦い>

 電撃的なディリエル公女とセイジの婚約発表後、セイジへの表彰が行われ、大きな功を成した者へ渡される薫一等、空竜大勲章が莫大な報償と共に与えらえた。

 まあこれは、公王の命をドラゴンから救ったのだから、最高栄誉が与えられて当然だった。


 その後、今度はドラゴンの遺体に対する代償を決めることになり、ライザー財務卿が厳めしい顔つきでセイジと話し合った。

 ライザー財務卿とすれば、どこの馬の骨とも分からない小僧っ子に、多大な国の財宝を渡すことへの忌避感が強かったのだが、これが失敗だった。




「ではそれで結構です」

「・・・・・・・・は?」


 いわば駆け引きで、絶対に高値へ吊り上げられるだろうことを警戒していたライザー財務卿は、公王やラドルビンの忠告を無視して、

『いくらなんでもこれは無いだろう』

という安値をつけて出したが、セイジはあっさりとそれを了承してしまった。


 セイジからすれば、空竜大勲章についていた莫大な報償もあるし、そんな程度のものかと思って了承したのだが、ライザー財務卿はあまりのあっさりした態度に困惑し、混乱し、そしてためらいもなく席を立とうとするセイジに真っ青になった。


 安く買えたから喜びそうなものだが、実はそうはいかない。

 貴重な素材や材料は、どこででもは手に入らないから貴重なのである。

 それを探索や冒険で探し出す危険な仕事をする連中や商人がいて、高く買い取ってくれるところへ持ち込む。


 国家は、国の実情があるとはいえ、自分たちのできる限りの価格はつけなければならない。多少の交渉はあっても、国家で軍レベルで使うとなれば、量を確保することは避けられない大命題。ましてや命の危険を晒してまで、誰が安く買いたたかれるところに持ち込みなどするものか。


 特に兵器の鍛造に関して、希少な素材を微量に混ぜることで簡略化した鍛造方法でも飛躍的に強度を高める技術が開発され、大量の兵器を常時用意しなければならない国家にとっては無くてはならない技術となった。中でもドラゴンの素材が特にその方面に特化しており、上位のドラゴンほど性能が高いのである。価格はこの10年高止まりで、落ちる事はありえなかった。

 まして空竜という超貴重素材に関しては、言うも及ばず。本来なら目の玉が飛び出るような高値であっても、買わなければ大問題に発展するが、うっかりセイジの見かけに不信感をつのらせたライザー財務卿は、凡ミスから大悪手を指してしまった。


 貴重品の中でも今後数百年は絶対に手に入らないような、空竜の新鮮で超貴重な素材を、『いくらなんでもこれは無いだろう』という値段で買い取ったと知れたら、二度と再びこの国へそういう素材を持ち込んでくれる人間はいなくなってしまう。実際にそういう買いたたきをやらかした西の図体のでかい国が、高価な素材を誰も持ち込まなくなって、他国とどんどん差が開き衰退している実例があるからなおさらだ。


「お、おまちを、おまちくだされえええええっ!」


 混乱したライザーが呆然としている間に、せいせいしたと部屋を出ようとしたセイジの後ろ姿にようやく正気を取り戻し、飛びつくように足にしがみついて、泣きながら引き留めた醜態は、さすがに哀れなものであったらしい。


「いや、ライザー卿のためにも良かった。もしそのまま取引を終えていたならば、わしがきゃつめの首を引きちぎっておるわ」


 後日、グシャーネン将軍が苦笑いをしながら言ったそうだが、実際、将軍の目は怒りに染まっていて、ライザーの首が皮一枚でつながったと、側近の者たちは胸をなでおろしたそうである。



 このような些末な(?)問題はとにかくとして、

 大きく問題となったのが、公女ディリエルの嫁入りだった。


 ディリエルの変貌ぶりは、『本当に本人なのか?』と言われるほどの根本的な問題まで含めて、様々な論議を醸し出す。

 宮廷は元より、社交界が大騒ぎであった。


 細く頼りない白髪のようだった髪は、強い黄金の輝きを帯び、星の光にすら輝くと噂されるほどの艶を放っている。

 青ざめ色の無かった肌が、ふっくらとハリを持ち鮮やかな薄桃色となり、14歳と言う若さもあって、その手を見た騎士がその場にしゃがみ込んだほど美しかった。

 薄い水色の目ばかり大きいと言われていた顔が、今ではダレルブレアンのニンフ(水の妖精)と吟遊詩人にまで歌われている。

 王宮に戻って、一度大規模なパーティに出席しただけでこの騒動、一応『無事である』という王とディリエル公女の顔見世のためだったのだが、思わぬ騒ぎになっていた。


 病弱で成人は無理とまで言われていた彼女、その権力は無きに等しく、王位の継承権も最低だが、その美貌は評価を一変させてしまった。ただそれが、良い方に向くとは限らないのが困ったもの。


 まず乗り出してきたのは、実の兄弟姉妹たち。

 公王には第四王妃までいて、ディリエルは末の八女になる。上に男が三人女が四人。

 長男は次期公王が決まっていて、それなりに優秀。この問題にも口は全く開かない。

 二人の姉は嫁いでいないが、残りの四人は少々問題がある。


 宮廷が大騒ぎになるほどの美貌になれば、どこぞのドラゴンスレイヤーなる馬の骨に渡すより、有力な連中に縁を作ったら感謝され、権力の強化に絶対に有利。


 これまで見向きもしなかったディリエルに『良い縁を!』と、猛然と言い始めた。


 せめてそれが、本気で良い縁を探して言うならまだしも、相手が全員年かさの有力貴族、特に若い娘が大好きな、さらに地位の高い娘に目の無いヒヒ爺ばかり。

 筆頭魔導師ラドルビンやグシャーネン将軍の怒るまいことか。

 ただ、公王を除く全員がディリエル公女を見誤っていた。




 まず真っ先に来たのは次男で、未だ次期公王の座をあきらめきれないエルセン第二公子。彼女の部屋にまで来て58歳のガーストン侯爵の話を持ち込んできた。


 この次男、父親や長兄には卑屈だが、弟妹には傲岸でかなりいい性格をしている。

 『お前にいい話を持ってきてやったんだ、感謝しろ』と開口一番、妾が何人もいるヒヒ爺を押し付けてきた。


「お兄様、そういうお話は持ち込む相手を間違えると、大変なことになりますわよ。7年前の南風月(8月)16日夜中に私の診察をしていた主治医のマイルヤー先生の処に泣きながら前を抑えて駆け込んでこられたのは、お忘れかしら?」


 冷ややかなまなざしと、猛毒のとげをもつ言葉に、黒く塗りつぶしていた黒歴史がじりじり出てくる。


「え・・・・・・」


 だらだらだら、冷汗がその軽薄な額からほほから流れ落ちる。


「ズボンの中に麦わらを突っ込んでいて、『抜けないっ、ち○ち○から抜けないよおっ』と・・・・」

「わーっ、わーっ、わああああああっ!、やめろ、やめてくれええええっ!!!」


 知られたら、生きていけないような黒歴史の衝撃は、彼の形相までも一変させる。


「マイルヤー先生にも、厳重に秘匿しておくようには言っています・・・が、分かっておいででしょうね?」


 絶対零度の視線に、エルセンは転げるようにして、ディリエルの部屋から逃げ出した。




 六男のタスタルは、四女のネスフォルテとタックを組んでやってきた。

 これも六十歳のヒヒ爺ゲスト男爵(金持ちで有名)への話だった。


「タスタル兄様、成人の祝いに父上から送られた見事な装飾の入った東方の螺鈿細工の鞍、あれはどこへ行ったんでしょうねえ」


 太ったタスタルの息が止まった。


「カリガネ商会の質草に、すばらしい螺鈿細工の鞍が入ったとか聞いてますわよ」


 ガタガタッ、椅子からタスタルが転げ落ちた。

 『なんでそれを?!』と、顔にしっかり書いてある。

 公王から送られた成人の祝いを、よりにもよって質草に入れたなどと知られたら、よくて長期の謹慎、悪ければ地方の修道院に押し込められて廃嫡の可能性すらある。

 かなり考え無しの金遣いの荒さで、評判も悪いのだから身から出た錆かもしれないが。


「ネスフォルテ姉様も、間に立ってマージンを儲けるのをとやかくは言いませんが、二割は取り過ぎではございませんの?。カリガネ商会は泣いてましたわよ」


 ネスフォルテのふっくらしすぎた顔が青くなり、タスタルの顔は怒りで赤黒く染まった。


「姉さんっ、どういうことだよ?!。姉さんが特別に便宜をはかるっていうから・・・・・・」

「知らないわよ、知らない、知らない、知らなあああいいいいいいっ」


 ディリエルはやかましい姉弟ケンカをさっさと追い出した。



 ディリエルの兄姉たちが、次々と追い出され、ぐうの音も出ない様子に、他の貴族たちは恐れをなして全員口を閉じた。だが5つ上のずるがしこいと評判の姉、カリンデンがしぶとく食いついてきた。


「ゼノーバ男爵様は、それはそれは慈悲深い方で、先年奥様を亡くされておかわいそうなのよ」

「確か、奥様は68、ゼノーバ様は70でしたわね」

「でもそういう方を支えてあげるのも、女の務めではなくて?。ゼノーバ様は若いころはそれは勇敢で・・・・・・」


 厚顔無恥というか、自分でない相手にならどんな無茶な組み合わせでも平気で押し付けてうんと言わせようとする。


「と言う事を、レーカン枢機卿と昨夜、夜も遅くにお部屋でお話になったのでしたわね」


 ビジッ、カリンデンの顔が凍り付いた。


「お姉さま、レーカン枢機卿の奥様は今年43、婿養子に入られた38歳のレーカン枢機卿の不貞をどうこうは申しませんが、そろそろお付き合いも3年近く、毎週金曜の夜に、暖炉奥の抜け道の小部屋を使うのはたいがいになさらないと、目立ちますわよ」


 細部まで細々と語られ、真っ青になって逃げだすカリンデンに、ディリエルは妖しい笑みを浮かべる。

 この程度でずるがしこいというのだから、王宮の評判というのも当てにならないものだ。



 傍から見ると、恐ろしいまでの地獄耳であり、あり得ないほどの情報通だが、無論これにはわけがあった。





 彼女が幼いころ読んだ本の中に、「騎士の忠誠は報償で買うもの」という言葉があった。


 『忠誠は主君の語る言葉によって高まる事が出来、

  忠誠を持ち続けられるかどうかは主君の行動 如何イカンにある。

  しかし、騎士は己を生かし、家族を生かし、家臣を養わなければならない。

  それには報償という土台無しには成り立たない。』


 ディリエルは、一読してその意味を理解した。その時わずか5歳、後生畏るべしと言わねばなるまい。


 しかし、同時に激しいショックを受けた。


 『いつ死ぬか判らない自分は、使える者たちに何もしてやれない』


 自分が死ねば、使えてくれている者たちは路頭に迷う。

 余った人間を雇い続けてくれるほど、王族も貴族も甘くは無い。


 そう気付いた時、周りにある物が全て憎らしくなった。


 おもちゃも、飾りも、きれいな櫛も、自分が死んでしまえば何の役にも立たない。

 甘い菓子も、珍しい果物も、彼女は食べる気持ちすら湧かない。


 その瞬間から、彼女は一切の執着を捨てた。


 たとえどんな将来性の無い公女と言えど、姫は姫。

 少なくない数の捧げものや、贈り物が届く。

 ディリエルは、次々と使えてくれる者たちにあげた。


『こんな高いものをいただけません』


 必死に首を振る者たちに、


「私は、長くないの。何も要らないの。あなたたちに先に何もしてあげられない、だから今あげておきたいの」


 公女の悲しいまでのお願いに、それ以上首など振れるものではない。

 しかも、ディリエルは使える者たちの家族の話も聞きたがり、何一つ聞き逃さなかった。


「これを、娘のティラにあげてちょうだい、もうすぐ成人なのでしょう」

「3日後が、お母さんの一周忌だったわね、このお花をあげていらっしゃい」

「私は食べられないの、病気の娘さんの栄養になるわよ」


 これにはどんな疑い深い者も泣いた。

 すべてのディリエル公女に使える者たちは、何度姫に感謝の涙を捧げたか分からない。


 しかし、当時のディリエルは読んだ本の逆の意味は考えもしなかった。5歳なのだから、無理もないが。


 それは、『値する主君であれば、騎士は報償の対価に忠誠を払う。』ということだ。


 主君の君主たるべき言葉と行動は、実は誰にでも出来るものでは無い。己に無いものであるからこそ、騎士は君主を尊敬し、報償の対価として命がけの忠誠を払うのである。騎士で無い者たちの忠誠とて、根底は同じだ。

 そして、感謝を繰り返すほどに忠誠は高く上がっていく。

 こすっからい者もいた、口先だけの怠け者もいた、だが、何一つ身の回りに残さず、残らず自分たちにくれてしまう主に、誰もがたまらないほどの悲しみを感じ、ささやかだが己の心からの忠誠を誓っても、何の不思議も無かった。


 頂いた物を無駄遣いする者など、一人もいなかった。

 誰よりもディリエル様に忠実であろうとし、他の公子や公女に仕える者たちから侮られるような事があってはならないと、必死になった。

 何よりも人々の話や、噂、虚実を知りたがり、聞きたがる彼女に、使える者たちは一致団結して話を集め、調べ上げた。

 高額な頂き物は、皆で分け、あるいはそれをプールして、『ディリエル様のために』という情報料として使うことを取り決め、その恩を受けた者は、王宮や各地の貴族領にまで広がり、いつの間にか公国全土に広がる膨大な情報網が出来上がっていた。

 そのほとんどが、身の回りや下働きをするだけの、貧しく無価値と思われる者たちであり、それだけに道端の石ころのように無視され、何もかも見聞きする。

 一杯の酒、わずかな食べ物、そんな程度の額でも、彼らにとっては心安らぐ恩となる。

 見聞きした意味が理解できなくても、『ディリエル様のためなら』と何の隠し事も無く教えてくれる。みな恩を感じ、それを忘れない小さな者たちだ。


 それは、ただただディリエルを喜ばせ、楽しませ、その笑顔を少しでも長く続けさせる事を心から願って行われ続けていた。

 それがいつの間にか彼女に、様々な知識や利用力を育てていた。





「入浴します」


 年老いたメイドが静かにうなずいた。



 チャプ、彼女用の小さめの湯船に、白い体を沈める。

 大量の湯を沸かし、人一人がやっと入れるぐらいの容器の中で、体をこすり、汚れを落とすのがこの世界では最高の入浴である。

 山奥の保養地には、自然にわく湯という不思議なものもあるらしいが、そんな長旅をしたことがないディリエルは、体全体を沈められる湯など想像もできない。


 細い腕や脚は、まだ頼りない感じがする。

 胸はまだ小さく、これから膨らんでくれるのだろうか。乳首も小さく愛らしくはあったが、もっと自己主張してほしいなと悩む。

 セイジ様は、私もあのように愛してくれるのだろうか。

 夜中に、小用のふりをして出た先で、激しく絡み合うセイジとイーラを見て、とてもとても悔しいと思った。

 自分もあのように愛してもらえる事は、ありえ無いのだろうかと、それが悔しくて、悲しくて、返ってからこっそりと泣いた。

 体中が痛み出したのは、その直後だった。


 あの時、朦朧とした意識の中で、セイジ様の声だけが陰々と頭の中を駆け巡った。

 あのような幸せな瞬間は、これまでで初めてだった。

 あの方の妻になれるという。

 それがどれほど面倒で困難なことか、宮廷の裏側を知るディリエルは、かなり深く知っている。

 それでも、どんなに困難で面倒で、危険なことでも、あのまま死を迎えていたら、絶対に浮かばれなかっただろう。

 だから、どんな手を使っても、誰を敵に回そうと、行く手を阻むことは絶対にさせない。


「お、お待ちください」

「ディリエル様はご入浴中です」


『予想より早かったわね』


 淑女の入浴中にまで押しかけてこれるような、ずうずうしく、そしてそんなことをできるような人間は、彼女の知る限り一人しかいない。


 シャッ


 入浴場のカーテンが開かれ、一人の中年女性が、眉を震わせながら立っていた。

神経質そうな眉と、眉間のしわを除けば、顔だちはディリエルに似ていた。

 それが自分の母親ということを、彼女は良く知っている。


「人の入浴中に、無理やり入ってくるのが、ゼーゼマン家の家風なのですか?。ニーナ・クレイヤー・ゼーゼマン様」

「娘の入浴に付き添うのは、母親として当然のことです」


 際限なく病に苦しむ娘、そんな娘しか産めなかったという現実に耐え切れず、娘を捨てて実家に逃げ帰った人が、母親と名乗る理不尽に、ディリエルは頭が痛かった。


「ふむ、立派に育ったようですね。貴方が早くそういう風な様子を見せていれば、私も苦しまずに済んだのですよ」


 理不尽なだけの人間は、自分の都合の悪いことは、知らんぷりらしい。


「貴方は我がゼーゼマン家と公王家の血を引く娘なのです、どこの馬の骨とも分からない輩と結婚など許されません」


 あきれ果てた視線をディリエルは向けたが、ニーナという女性は、それを素直に聞いているとしか思っていないらしい。


「いいですね、あなたも健康になったなら、ちゃんと我が一族としての使命を果たすのが責務です。幸いマバリア家のご長男が、」

「ゼーゼマン、何をいつまでも我の入浴の邪魔をするのです?。ここは貴方が入る許可は出されていません。早々に出ていきなさい」


 王家の娘であっても、母親の権限はそこそこ強い。

 まして14になっても正式な婚約者がいなかったディリエルである。母親の権限に一族の後押しもあれば娘の相手ぐらいごり押しで変更可能だと思っているのだ。

変態趣味で妻から逃げられた55歳の男を押し付けようとする行為に、ディリエルは腹が立った。


「な・・・・、母親に向かって、その口の利き方は何です!」


 激高するニーナに、浴槽から火照った体を出すディリエル。その艶やかな体は、もはや母親を名乗る女には得られないもの。


「王宮に入る許可は、カングレイ伯爵様?、それとも侍従次長のゴボロン?、あるいは前公王様の末弟のマージャク公からいただきましたの?」


 ひっ、とニーナは息を止めた。


「貴方が、何が何でも子を産まねばならなかったのは、分からないでもありませんが、事情を知る私としましては、さっさと出ていきなさいとしか言いようがありませんわ」

「あ、あなた親に向かってその口は!」

「そのくらいになさいませ、ニーナ様」


 入浴の支度を命ぜられた、年老いたメイドが、ぼそりと口を開いた。


「メイド風情が我に何という口をきくか!」

「ニーナ様、あれから10年もたちますれば、お忘れになったのも仕方ありますまい。私らなど、そういうものでございますゆえ」


 灰色がかったニーナの目が限界まで見開かれた。そこに映っているのは、亡霊だった。


「ま、まさか、まさか、ハンナ?」

「さようでございますよ。貴方が引き込んだ男たちを、手引する役を仰せつかり、その後始末をしていた下働きのハンナでございますよ。あなたがお見捨てになったお嬢様と一緒に、ごみのように捨てられたハンナでございますよ」


 地獄の底から響くような呪わしい声、それは彼女の背骨をへし折り、足の腱をえぐり、心臓を打ちのめされたような衝撃を与えた。


 狂乱して逃げ出す母親に、うんざりしながらも、体を拭うディリエル。

 彼女のほっそりした右膝に、小さな星型のあざがある。これは現公王の子供全員にある特徴で、男は肩に、女は膝に出る。これが無かったら、彼女は自分の出自にものすごい疑惑を抱かねばならなかっただろう。


「すまないわね、ハンナ」

「いいえいいえ、私のような年寄りを、いまだに可愛がって使っていただけるなどディリエル様以外はありえませぬ」


 母親が実家に逃げ帰るとき、ハンナは放り出された口の一人だった。

 暇を出されそうになったが、ディリエルが顔見知りのメイドたちを願ったため、そのまま彼女の世話を続けているのだ。


 当時中年で、もはや色香も無い女のメイドなど誰も使ってくれはしない。

 それどころか、事もあろうに公王の第3婦人であった女性の裏事情を知っていたりすれば、王宮から追い出されたとたんに口封じをされて消されてしまう。

正妃以外は実質的な権力は無い(だから実家に逃げ帰る事も出来た)のだが、実家は名家である。

 実際ディリエルが強く願ってくれなければ、ゼーゼマン家の圧力で追い出されるところだった。


 今では時もたち、そのような事はもう無いだろうが、恩と感謝の心が消えるわけではない。

 何より、幼いころから見続けてきたディリエル公女に対して、孫にも似た愛情すら感じている。


「私は公王家を出るわ。あなたはどうするの?。ここにいさせることもできるわよ」

「よろしければ、お連れ下さいまし。ディリエル様がいなくなれば、もはやここにおる意味も、仕事もございませぬゆえ」


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