第五話 <上には上が>
『大型獣接近、ご注意を』
ヴェルムンガルドが、少しだけ急いで話しかけてきた。頭にレーダーのような感覚が浮かび、左方向にかなり強い光があった。
「何か、来てる!」
「えっ?!」
ぎょっとするイーラ、彼女は護衛を引き受けて戦闘状態を解いていない、それなのに察知できていない。
戦闘慣れしているイーラにすら接近を感じさせない、つまり『かなり厄介』な相手だ。
ケガの手当てをしていた騎士たちは、奇妙な顔をし、ラドルビンが意識を集中する。
「でかいよ!」
イーラが俺の視線の方向を振り向きながら、飛び下がった。それと同時に、ザワザワッと森が揺れた。
ザスッ
森の一部が、飛び出してきたように見えた。
視線の位置よりかなり上の方まで、丸ごと出てきたような錯覚を覚える。
『うわぅ、本気でかいっ!』
思考の中まで上ずってしまう。
もし突然鉢合わせしていたら、殺されるまで呆然としていただろう。
6メートルを超える巨体。
太く短めの四足に、巨岩のような胴体、全身に濃い黒い毛が密生している。
それが人のように二本の足で立ち、よだれを垂らしながら牙だらけの口を薄く開けていた。
みしりと巨大な足元がきしみ、石や木の根がかすかな悲鳴を上げる。重量は軽く2トンを超えるだろう。
姿形だけを言うなら、それは、全身が赤く陽炎を帯びた熊だった。
騎士たちの馬も、今度ばかりは恐怖に耐えきれず駆け出し、引きずられた騎士たちが転倒して動かなくなった。
「こっ、これはっ」
「ちいいっ!、陽炎熊かっ、なんでこんなやつまで!!」
ラドルビンが絶句し、さすがのイーラも顔色が無い。
陽炎熊は、1万頭に1頭程度の割合で生まれる特殊な変異種であり、生まれたときから大地の魔力を常時吸い上げ、その力を全身にまとう。
大地の魔力は、身体強化と防護の働きを持ち、それを吸い続けることで陽炎熊は普通の生物の領域を大きく逸脱する。
その能力は、四肢の一本でも大地についている間は、強力な再生能力と全能力の強化、強大な防御力を持つ陽炎が体を覆い続ける。
角度が浅ければ、戦斧の一撃でもはじき、低レベルの攻撃魔法程度なら無効化してしまう。
成長すると強力なオーガ(大鬼)ですら群れごと餌とし、その領域の王者として君臨する怪物となる。
彼女は一度だけ、陽炎熊の掃討作戦に参加した事があった。
普通は深淵の山奥にしかいない陽炎熊が街道に出てきたため、街道の警備兵は全滅、砦1つ潰され、王国の強制依頼で上位の冒険者や傭兵が急ぎ召集された。
その陽炎熊は、今見ているそれより一回り小さかった。
それを退治するのに、手だれの傭兵や冒険者のパーティが14組、100人余りが協力して立ち向かい、半数が死傷するという犠牲を払って、ようやく倒せた。
即死型の猛毒や、猛毒系の魔法を使い、再生能力を徹底的に相殺させ続けることで成功したのだった。
強烈な『畏怖』を含む視線が、見る者の意識や気力をすさまじく削り落とす。
その視線に怯え、逸らしたとたんに襲い掛かってくる。
獣の本能は、にらみ合いに負けた方が、襲われるのだ。
『せめて逃げろ』とイーラは叫びたかった。
だが、口を開いた瞬間に自分の気力が尽きる。
全身が冷えてこわばり、体が数十倍の重さになったかのように重圧がかかる。
白い歯が砕けんばかりに噛みしめられ、必死に耐えた。
視線を支え続ける事だけが、彼女の最後の抵抗だった。
『な、なあ、この場合どうしたら良い?』
正直、ひざが笑いそうになりながらも、左手に意識で尋ねる。
ものすごい気合いが、巨大な獣とイーラの間に張りつめていて、うっかり声を出すことができない。
ただ彼は気づいていないが、並みの人間ならへたり込むか、失神しているほどのプレッシャーが周囲にかかっている。
それを1000分の1に軽減しているのが左手なのだが、まだ彼はそれを知らない。
『ご主人様のお望みのままに』
『えーっと、それってこの怪物に対処できるってことか?』
『ただ、もう一つ来たようです』
脳裏のレーダーのような画像に、もう一つ何かが光った。
『って、なんだこりゃ??、でかすぎるだろ!』
この世界、『上には上がいる』というのは、常識以前の知識である。
たとえ野の獣であろうと、そのことを忘れたら死ぬしかない。
陽炎熊は確かにこの領域のボスだが、その領域を小さく含んでしまう大領域のボスというがまた存在する。
人間とのにらみ合いに意識を向けていた陽炎熊は、不幸にしてその事を失念していた。
ギィェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ
地が震えるほどの声が、イーラをよろめかせ、陽炎熊ですら身を震わせる。
その時の陽炎熊の顔は、間違いなく『しまった!』と後悔しているようであった。
1000メートルの高空から陽炎を見たそれは、一気に急降下すると、森の木々の梢ぎりぎりの高さで水平へ向きを変えた。
羽ばたきすらしない飛行と、航空力学を一切無視した動きは、強大極まりない魔力によって初めて成される技。
不運な陽炎熊は、背後の空中に突然現れたそれに、押しつぶされた。
ブファアアアアッ
陽炎熊と対峙していたイーラは、風速にして80メートルを超える風にあっさり飛ばされ、背後のセイジに受け止められた。
馬車は横倒しになり、そちらの馬たちも狂ったように暴れて逃げ出した。
ラドルビンはなんとか身を起こす。
セイジは、自分がイーラの体重と猛烈な暴風の圧力をあっさり受け止めた事も、気づく間もなかった。
馬車の扉が開いたが、そこで公王もそのそばの小柄な姿も凍り付いた。
飛ばされたイーラも、失神寸前でありながら、目を必死に目を見開く。
陽炎熊は、先ほどの声に比べれば、か細いほどの悲鳴を上げながら、
巨大すぎるカギ爪にベリベリと引きちぎられ、見た目は牙だらけとしか見えない巨大な赤い口に、よだれと共に食われていく。
ボリッ、ボリボリッ、ボトボトボトッ
骨も皮もまとめて砕かれる音と、滴る大量の血が、重い音を立てて落ちていく。
あまりの光景に、目が吸い寄せられて、外すことができない。
『ど、ド、ド、ド、ド、ドラゴンっっっ!』
その体30メートルを超え、さらに巨大な翼は広げれば左右100メートル近い。
羽毛は一切なく、トカゲのような四足の体に皮膜状の翼をつけ、青い濡れたような光るうろこが全身を覆い、その肌には轟々と風が渦巻き、常に取り巻いている。
地水火風、四代属性と呼ばれる世界の節理の一つ、風を象徴する最強クラスの野生のモンスターであり、空の王者である空竜は、自分の5分の1ほどしかない陽炎熊を、うまそうに引きちぎりながら、モリモリと食っていた。
強大な大地の防護力も、際限ない再生能力も、この王者の前には笑い話でしかない。
人間など、足元をうろつく虫レベル。
ただし、人間が足元をうろつく虫を見て、どう反応するか?。
『とりあえず殺しておこう』と思う人間は、ドラゴンを責められまい。
良いでも悪いでもない、『とりあえず』なのである。
ズウッ
軽くその胸元が膨らむ。
ハエやカを殺す殺虫剤をスプレーするように、
恐るべきブレスが、牙だらけの口から血なまぐさい息とともに噴き出す。
100メートルを超える風速と、無数のカマイタチを含んだ死のミキサーと化して、竜巻がイーラとセイジに襲い掛かった。
岩がはぜる、大木が寸断される、
その岩も木も、竜巻の渦に粉々に粉砕される。
全てが、呆然としているイーラとセイジに襲ってくる。
セイジの脳裏に、左手の無機質な声がした。
『緊急モード、自動戦闘、空間歪曲、加速照射』
淡い光の筒が生まれ、彼の前で漏斗のようにに広がり、二人に向かってきた竜巻のすべてがそこに吸い込まれる。
彼の前で先端がくにゃりと曲り、細い口から爆音がほとばしった。
『衝撃波発生、衝撃波防護壁展開、加速照射速度15312km/h(マッハ12,5)』
凝縮され、超加速された大気は、マッハ12を超える速度で空竜に襲い掛かった。
風の精霊力を持ち、あらゆる風を己の物として操れる空竜だが、これはもはや風ではなかった。
この世界のいかなる物質より鋭く、立ちはだかる一切を断ち切る灼熱の剛体と化した空気、そんなものを風とは呼ばない。
超高温超高圧のプラズマ化した分子の刃。
空竜の巨体を覆う風の精霊防御が、悲鳴と共に断ち切られた。
「グル?」
ドラゴンは不思議そうな顔をして、目に映る物を見ていた。
自分と同じ色と形をした巨体、それが天地さかさまに立っていて、首だけが消し飛ばしたように消えている。
そして、自分が次第に落ちていくのを感じて、ようやく気付いた。
自分の体は、目の前にあるそれだ。
衝撃波で、半径500メートルのすべてがなぎ倒された半円の真ん中。
その中心部で、30メートルの巨体がしばし立ちすくむ。
背後の空で、雲が引き裂かれていく。それを背景に目を見開いたドラゴンの首が落下する。
ドラゴンの首があったところは鋭利な切り口ですっぱりと切られ、倒れながら猛烈な勢いで血が噴出する。
鈍い音がして、ドラゴンの首が落ち、そして轟音とともに巨体が倒れた。
『噴出する血液が、ご主人様を汚しますので、収納空間を作成して収納しておきます』
左手の声と共に、黒い穴が地面に開き、ドラゴンも首もそこに落ちるように入った。
噴出する血液も全て吸い込まれていく。
『収納空間は、亜空間に固定された隣接フィールドです。時間との関連性がありませんので、生物は収納不可能ですが、無機物や死体は時間静止状態で保存されますので、いつでも取り出し可能です。これにより、私めウェルムンガルドの使用時間が24時間ほど減少いたします事を申し上げます。』
まあ、3500年ほどの使用時間で一日減ったからと言って、問題にする気にもなれない。
というか、セイジは年の割にはSFやらライトノベルやら読んでいたから良いが、普通よっぽど説明されんと、意味不明だろ左手。
『えっとつまりは、とりあえず空き部屋を作って収納しておきます、保存は心配ないのでご自由にお使いください、ってことでいいのか?』
『極めて簡潔に申せば、その通りでございます』
『それにしても、一日分のエネルギーで亜空間を作るって、前の使用者たちはどんだけなんだよ・・・・・・』
前の世界の科学常識どころか、アインシュタインが憤死しかねないような無茶苦茶な能力に、あきれ果てるセイジである。
目の前にのこのこ出てきてしまったドラゴンに、少々申し訳ないような気分すら感じてしまう。
だが、そんな気分のセイジとは別に、周りの人間たちはしばし声も出なかった。
「ド・・・・・・」
ようやくラドルビンが、パクパクさせていた口から声を絞り出す。
「ド、ドラゴン、スレイヤー・・・・・・」
あとで聞いたのだが、この世界の歴史は結構長く、ダレルブレアン公国で1500年ほど続いている。現公王ロマノフサンダーで89代目。
その歴史の中でも、四代属性のドラゴンを倒し歴史に名を残した人物は、極めてまれで10人を超えない。
まして、人間でありながら単独で撃破した者は、歴史上おそらく初めてだろうと言う事だった。