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十八年前、大学の側の小さな喫茶店。話をしている二人の男女……いや、話しているのは殆んど女の方だ。見た目はとても麗しい美女だが、その気性は相当に荒いらしい。店に入ってきてから注文をした時以外、女はずっと男に怒涛の如く言葉を浴びせかけている。それを男はじっと見つめ、コクリコクリと頷くだけだ。
「いいわよね。いろいろあったけど、こうなったんだから創大にも責任はあるでしょ?」
女はその創大という男にまくしたてた。相手に逃げ道を作らせたくないからだ。だが、男には最初から逃げる気など無かった。
「うん。解かったよ。理恵、結婚しよう」
女からの一斉砲撃の合間を縫って男はそう一言呟くように言った。そして男は、優しくそっと微笑んだ。女は拍子抜けした様子だったが、解かればいいのよと言いながら、まだ温かいコーヒーに口をつけた。
創大と理恵、二人は半年前まで付き合っていた。別れの理由は理恵の度重なる浮気。といっても創大がふった訳ではなく、理恵が新しい男のもとへ行ったのだ。
つまり創大は、寝取られた筈の女に結婚を迫られていたのである。可笑しな話ではあるが、そこはよくある「子供が出来たから」という理由だ。
自分の体調の変化に気づきながらも気のせいだろうと無視をしていたら、もう中絶も出来ない時期になってしまっていたということらしい。
理恵の妊娠を知った新しい男は理恵を簡単に捨て、親とも上手くいっていなかった理恵は行き場を無くした挙句、人が良く自分に未練があるであろう創大の所にやってきた。
勿論、その子が創大の子供なのか、女を捨てた男の子供なのか、はたまた他の浮気相手の子供なのかは判らない。理恵曰く「その時期にはあなたとしかしていない」とのことだが、まぁ、嘘だろう。創大にもそれは分かっていた。
それでも理恵からの申し出を受け入れたのは、創大にはまだ理恵に未練があったからだ。そう、理恵の思っていた通り。好きな女が理由はどうあれ自分を頼ってきたら、たいていの男は想いが強ければ強い程、すべてを受け入れようとするだろう事も解かっていた。そして創大の場合、そのすべてとは、全てではなく総てである事も。全ては、理恵の計算の上の出来事。創大がそれを解かっていようがいまいが理恵の計画は成功へと動いていた。
創大は、その頃大学の四回生で卒業間近だった。創大は工学部で将来有望な生徒であり、卒業後はそのまま大学院に進むことになっていたのだが、理恵との結婚で就職を決めた。周りの反対もあったが、運良く印刷工の仕事に就くことができ、二人は創大の大学卒業とともに結婚した。その頃の二人は別れていたことなど無かったように仲睦まじく、幸せな家庭の象徴といっても過言ではなく見えた。
一番幸せに包まれる筈だったあの日までは――
数カ月後、陣痛が来たため、創大は理恵に付き添い病院に向かった。定期検診の結果は良好とはいえ、一つの命が生まれるという大仕事。決して油断はできない。
創大は理恵の手を握り、必死に励まし続けた。理恵はあまりの痛さに創大の握った手に深く爪を立てながら唸り、喘いでいる。
そしてその時がやってきた。理恵のこの日一番の悲鳴とともに、一人の女の子がこの世に産まれ落ちた。泣き声が聞こえ、創大と理恵が安堵する中、周りの様子がおかしいことに創大は気づいた。
立ち会った医師や看護師の顔が青ざめ、言葉を失っている。元気な鳴き声は響いている。少なくとも生きて産まれてくれたのは確かだろう。創大は理恵の手をそっと離し、子供のもとへ向かった。そして周りの反応の意味を知り、大きなショックを受けた。
産まれた子供は確かに生きている。
しかし、その背骨はぐにゃりと曲がり、およそ人の子供には見えない形状をしていたのだ。
しかし、検診では何の異常もなかった筈だ。何故こんな……。
「どうしたの?」
理恵が場の空気を感じ取り、不安気に伺った。皆、何と云えばいいのか分からないといった状況。そんな中、創大は意を決し、生まれたばかりの愛すべき我が子を優しく胸に抱き、理恵の目の前へと進んだ。
「何があっても、大丈夫だから……大丈夫だから……」
何が大丈夫なのか。待ちに待って産まれた我が子がこのような姿で生まれたというのに。
只、一つ確かなのは、創大はこの娘を見捨てたりはしない。この子の為、理恵の為に一生を捧げる覚悟はできている。創大の想いは確かなものがある。だが、理恵にあるかは判らない。現に彼女は生まれたばかりの娘を見るや否や、悲鳴さえ出さず、気絶してしまった。
翌日、病室から理恵の姿は無くなっていた。すべて創大に任せるという置き手紙と以前から用意していたと思われる離婚届を残して。
だが、創大はさして驚かなかった。彼女が逃げるであろう事も何となくではあるが解かっていたし、それすらも許していたからだ。赦せてしまうからだ。
それでも創大の決心は揺るがない。我が子を愛おしく思う。それだけで理由は十分だ。
その日から創大と娘の壮絶な日々が始まった。