幕間:大人になった、マリーシア
『コドモ』と『オトナ』の間。
「これは……」
今、ギーベルグラントは、一冊の本を手に愕然とたたずんでいた。
それは、居間のソファの上に置き去りにされていたものである。安っぽい、ペラペラの表紙の、一冊の本。
この家に置かれている書物は、どれも彼が吟味して購入してきたものだ。マリーシアに読ませるものでさえも。それらは重厚な皮の装丁で、本と言えども一種の芸術品としても通用するようなものばかりなのである。
だが、今、彼のその手の中にあるそれは、薄紅の表紙に煌びやかな飾り文字。
そう、巷では『ロマンス小説』と称されている代物だった。
確かに、少し前にマリーシアを伴って町の本屋に新しい読み物を物色しに行った時、主人が薦めてきたことがあったが、内容を一読したギーベルグラントは直ちに却下した筈だ。代わりに、『健全な』ものを大量に購入して。
それなのに、何故。
ジッとそれを見つめるしかないギーベルグラントの背後から、不意に軽やかな声がかかった。
「ギイ? どうしたの?」
ハッと我に返ったギーベルグラントは咄嗟にその本を隠そうとしたが、遅かった。
マリーシアが彼の手の中にあるものに気付いて、「あ」と小さく声を上げる。そして、ペルチの実のようなその頬が、薄っすらと紅色に染まっていく。
「これ、読んだのですか?」
彼のその問いに、熱を帯びた頬を隠すように両手で包んだマリーシアがコクリと頷いた。
「読みたいのですか?」
また、コクリ。
ギーベルグラントは、しばし無言でその本に視線を落とし、やがてマリーシアにそれを差し出した。彼女は、同じく無言でそれを受け取る。
マリーシアは本を胸に抱き締めたままジリジリと数歩後ずさると、クルリと踵を返して小走りで居間を出て行った。
言葉もなくその背中を見送ったギーベルグラントは、彼女の足音が完全に消え去ると、大きな溜息をついた。
仕方がない。
ヒトは成長するものなのだ。そして、ああいったものを望むようになることは、成長した証なのだ。
だが。
ギーベルグラントは力なく近くの椅子を引き寄せると、へたり込むようにそこに腰を下す。
『ねえ、ギイ、ご本読んで!』
そう言いながら、彼女の腕には余るほどの大きな絵本を抱えて彼の胸に飛び込んできていた、マリーシア。
絵本に目を輝かせていた頃のマリーシアを、ほんの少しだけ、恋しく思った。
*
居間から逃げ出したマリーシアは、自分の部屋まで戻ってくると、ホッと息をついた。
うっかり居間に忘れてきてしまったその本をギーベルグラントに見られた時、心臓が止まるかと思ってしまった。
彼は、まだ中を見ていなかったのだろうか。
もしも見られていたらと思うと、マリーシアの頬はまた熱くなってきてしまう。
これは、少女が一人の男性と『恋』をするお話。
マリーシアには『恋』がどんなものかが解からないけれど、その本を読んでいると、とても素敵なことのように思われた。
ギーベルグラントがいつも買ってくれるものとはちょっと違う、綺麗な本。それは、本屋のご主人が、たくさん買ってくれたおまけに、とこっそりマリーシアにくれたものだ。
金髪の少女と黒髪の青年が、二人によく似ているから、と。
確かに、黒い髪、黒い瞳の青年は、まるでギーベルグラントのようだった。優しくて、かっこ良くて、そして、少女をいつも助けてくれる。少し違うのは、時々青年が少女に向けて放つ台詞だった。
同じような言葉をギーベルグラントからも聞いたことがある筈なのに、何かが、少しだけ違う。
たとえば、『大好き』と『愛してる』。
どちらも、『すごく好き』という意味なのに、違うのだ。
「私は貴女を愛しています」
そんなふうにギーベルグラントに言われたら……と思うと、マリーシアの胸は何故か苦しいほどにドキドキしてくる。あまりに強く打つから、心臓が壊れてしまうのではないかと思うほどに。
マリーシアは、もう一度、その本を抱き締める。
――彼女がその気持ちを本当に自分のものにするのは、まだ、もう少し先のお話。