幕間:だいすきなあなたへ
コドモでもなく、オトナでもない、そんな頃。
「くッ……マリーシア……!」
また、やられた。
マリーシアの気配が消え失せたのは、つい先ほどのこと。
今、ギーベルグラントの手の中で握り締められている紙には、こう書かれている。彼女らしい、読みやすく可愛らしい文字で。
『心配させて、ごめんなさい。でも、絶対、危ないことはしないから、大丈夫。夕方までには帰るよ。お願いだから、わたしを信じて待っててね。捜しに来たら、ダメだよ』
これと同じ状況は、数年前にもあった。あの時は、危うく木から落ちそうになったのだ。彼の背丈よりも、まだ高い、木の枝から。
育児書では『子育てで一番難儀する時期』と書かれている思春期を迎えつつあるマリーシアだが、素直で朗らかなところは変わらないままだ。最近はめっきりおとなしくなっていて、ようやく淑女の自覚が芽生えてきたのかと思っていたら……。
本当なら、気配が感じられ次第、すぐにでも迎えに行きたい。だが、手紙の中の一文が、彼を縛りつける。
『わたしを信じて』
こう残しているのに連れ戻しに行ったら、彼女はいったいどう反応するだろう。
「信じてくれなかったのね」と悲しい色をその空色の目に浮かべるのか。
それとも、「信じてっていったのに!」と憤懣やるかたないと臍を曲げて口を利いてくれなくなるのだろうか。
――どちらも、耐えられない。
「ああ、まったく!」
苛立ちの声をあげながらも動くことのできないギーベルグラントだった。
*
一方、ギーベルグラントのそんな苦悩などまったく知らないマリーシア。
町が見えてきたところでキュイから降り、彼女はそこへ向かう。人混みに入るのは――正確に言うなら、ギーベルグラント以外の者を目にするのは初めてで、ドキドキしながら目当ての店を探す。それは『質屋』というものだった。
彼女が肩からかけている鞄の中には、綺麗に刺繍をしたハンカチが五枚。それを『質屋』でお金に換えるのだ。
何回か通りで人に尋ね、ようやく目当ての『質屋』に辿り着く。
「こんにちは」
声を掛けながら入った店には、他愛もない玩具から、使い道も判らない不可思議な道具まで、所狭しと色々なものが置かれており、暗い奥には老人が居眠りをしながら座っていた。
「あの……」
声を掛けると、老人はハッと顔を上げる。
「ああ、こりゃすまん。おや、可愛らしいお嬢さんじゃの」
老人の笑顔に、マリーシアもニッコリと微笑んだ。
「で、ご用はなんだい?」
促されて、彼女は鞄からハンカチを取り出す。
「これを、お金に換えたいんです」
どうだろう、聞き入れてもらえるだろうか。
老人が品定めをするのをそわそわしながら待つ。
「ふむ。物はいいの。で、何で金が欲しいんだい? お嬢さんなら、何でも買ってもらえるんじゃないのかな」
老人の目が、マリーシアの頭の天辺からつま先までを往復する。
「あの……大事な人に、贈り物をしたいんです。今日は、『特別』な日だから」
その返事に、彼はなるほど、と頷いた。
「そうか……大事な人、のう」
「ええ、とっても大事な人なんです」
そう答えた輝かんばかりのマリーシアの笑顔に、老人の顔にも笑みが浮かんだ。
「だったら、奮発してやらにゃだな」
マリーシアの笑みは更に大きくなった。
*
夕焼けになる、少し前。
ギーベルグラントは、マリーシアを前に仁王立ちになっていた。
「さあ、説明していただきましょうか」
一日心配し続けたために強張ってしまった顔のまま、ギーベルグラントが問い詰める。
そんな彼に、マリーシアはおずおずと小さな包みを差し出した。それを受け取りながら、彼は眉をひそめる。可愛らしい紙で包まれて、仄かに香ばしいような甘いような、匂いが漂う。
「……何ですか?」
「あのね、『特別』な日のお菓子。本でね、今日は大事な人にお菓子を贈る日だって、読んだの」
「マリーシア……」
「今日は、いつもありがとうっていう気持ちと、あなたが大好きよっていう気持ちを込めて、大事な人にお菓子を贈る日なんだって」
そう言ってニコリと笑顔を向けられ、ギーベルグラントは叱責するための言葉を失う。
『あなたが大好き』。
『大事な人』。
そんな台詞を吐かれて、いったい彼に何が言えようか。
そして、更に追い討ちがかかる。
「……怒ってる? 心配させて、ゴメンね? でも、どうしても、ギイにあげたかったの」
小さく首をかしげて、優しく晴れた空の色の目で見上げられて。
きっちりビシッと叱る筈だった。筈だったが――そんな彼女を前にして、それは不可能なことだった。