第二章:おみやげを探しに
「マリーシア、お土産ですよ」
そう言って、ギーベルグラントはポケットから小さな包みを取り出した。
キレイに包装されたそれは、マリーシアの手のひらよりも少し大きいぐらいだ。
ギーベルグラントの「お土産」率はかなり高く、ほぼ一ヶ月に一回のペースになる。外出する度に何がしかを持ち帰るのだ。
もっとも、彼は、「どこかに出かけたからお土産を買う」のではなく、「お土産を買うために出かける」ので、果たして、それで持ち帰ったものを「お土産」と呼ぶのかどうかは疑問であったが。
とにかく彼は、「出かけた先で買った物」即ち「お土産」をマリーシアに手渡した。
「わあ、ありがとう。何かなぁ?」
嬉しそうにお土産を受け取り、早速包みを開け始めるマリーシアだったが、その表情はどことなく沈んでいる。
どんなに何でもないふりを装おうとしても、彼女の変化に気づかないギーベルグラントではない。
――まだ、尾を引いているのか。
笑顔で彼女を見つめながら、ギーベルグラントはこっそり溜息をつく。
ここのところ、いつもの輝くようなマリーシアの笑顔を見られずにいた。ふと気付くと彼女は何か考え込んでおり、声を掛けると笑顔を向けてくれるのだが、どことなく曇りがあるのだ。
原因は一つしかない。
ギーベルグラントは微かに眉間に皺を寄せる。
それは、一週間前のことだった。
*
いつものようにマリーシアは散歩に行き、いつものように何かを拾ってきた。
「ギイ、お願い、助けて」
そう言いながら書斎に駆け込んできた彼女の手の中で震えていたのは、孵化してから数日程度の、すずめの雛だった。
自分の体温を分け与えようとしているかのように両手のひらで雛を包み込んでいたマリーシアの目は、すでに潤みきっている。
――これはダメだな。
雛が放つ命の光はろうそくの燃えさしのようなものでしかなく、見た瞬間、ギーベルグラントの頭にはそんな考えがよぎる。しかし、今にもこぼれんばかりのマリーシアの涙を見ると、到底口には出せなかった。
「とりあえず、暖かくしてあげましょう。エサを食べられればいいのですが……」
手頃な箱を見つけ出し、温石を置いて、その上に綿を敷き詰める。
マリーシアがそっと雛を下ろすと、「ピィ」と微かな声を漏らした。くたりと力なくうずくまる雛を前に、マリーシアの睫毛の先の雫は、今にも滴り落ちそうになる。
「頑張ってね……お願いね」
雛に言い聞かせるように呟くマリーシアの肩に、ギーベルグラントは溜息を隠しながら毛布をかけてやる。きっと、最期の呼吸をするまで、彼女は雛の前から動こうとはしないだろう。
ギーベルグラントは静かにその場を離れると、厨房へ行き、マリーシアのために蜂蜜をたっぷり入れたホットミルクを作る。いつも「もっと入れて」とねだられる量の二倍は入れた。
――口にしてくれるとは思えなかったが。
マリーシアはいろいろなものを拾ってくるが、まだ、命がなくなる瞬間に立ち会ったことはない。
おそらく、これが初めてのことになる。
たいていの場合、長く傍に居たものに逝かれるよりは、拾って数日のものの方が、衝撃は少ないだろう。だが、一般論はそうだとしても、マリーシアにとっては、十年だろうが十分だろうが重さに差はなく、いずれにしても同様に悲しむに違いない。
ホットミルクを手にギーベルグラントが戻ると、予想通り、マリーシアはほんの少しも動いた形跡なく、食い入るように雛を見つめていた。
「マリーシア、少しでいいから、これを飲んでください」
「どうしよう、ギイ。この子、全然動いてくれないの……温かくならないの」
差し出されたマグカップを通り越して見上げてくる空色の瞳に、視線を箱の中に移す。そこからは、もう、生命を感じることはできない。
ギーベルグラントはカップを置いて、後ろから包み込むように、そっとマリーシアを抱き締めた。細い身体は小刻みに震えている。
彼は小さな蜂蜜色の頭を撫でながら、でき得る限り穏やかに、彼女に告げた。
「マリーシア、土に戻してあげましょう」
その言葉で堪えきれなくなったようにマリーシアの小さな唇が震え、そして、しゃくりあげ始める。彼女の喉が立てるひきつるような音に、痛みを知らない筈のギーベルグラントの胸が、刃を突き立てられるような感覚に襲われる。
しっかりと彼女を抱き締めたまま、彼は小さな肩の震えがおさまるまで、じっと待った。
マリーシアが泣くことは滅多に無い。彼女を泣かせるような要因は、ギーベルグラントが細心の注意を払って排除しているからだ。時々怖い夢を見て泣き、彼の寝台に潜り込んでくることはあるが、その時の様子とは全く違う。
ギーベルグラントの胸は、マリーシアが一つしゃくりあげる毎に、ザクリと切り裂かれる。ともすれば力が入り過ぎてしまう両腕を、彼は時々緩めなければならなかった。
随分長い時間が過ぎた頃、ようやくマリーシアが顔を上げる。その頬はぐっしょりと濡れており、ギーベルグラントは、彼女の目の前で命を落とした雛を心底恨めしく思う。
「この子を眠らせてあげなくちゃだよね」
そう言って浮かべた微笑みが痛々しい。
ギーベルグラントは雛が眠る箱を取り、空いている手をマリーシア背中に回す。
「中庭の隅にでも埋めましょう」
「そうだね。お花もずっと咲いてるし、さびしくないよね」
そう言って、マリーシアが再び微笑む。先ほどよりも、少しは明るい笑みだった。
*
「わぁ、可愛い」
華やいだ声に、ギーベルグラントは物思いから醒める。
「ありがとう、すっごくうれしい」
見上げてくるのは満面の笑みだ。
今回の土産は彼女の瞳の色と同じ空色の、可憐で繊細な水中花を模った髪飾りである。実は緑柱石なのだが、高価な宝石かどうかなど、マリーシアにはわからない。
マリーシアを拾ってから早々に、ギーベルグラントは「お土産」を持ち帰るようになったが、モノは彼女の成長とともに変えてきていた。
マリーシアの背が、まだギーベルグラントの膝ほどまでだった時はぬいぐるみ、腿ほどまでに伸びたら各地のお菓子、腹を越した頃から精巧な人形となり、胸の辺りに届くようになった最近では、髪飾りなどの装飾品になってきた。一口に装飾品と言っても、以前は可愛らしいものばかりだったが、ここのところは宝石をあしらったものなどにしている。どんなものがいいのかは、ありとあらゆる書物を読み漁り、学習した。
透き通った水色を光に透かして目を輝かせているマリーシアに、ギーベルグラントは満足感を覚える。ほんの少しでも彼女の気分が明るくなってくれるのなら、彼は何でもするつもりだった。
「着けてあげましょうか?」
「うん」
髪飾りを渡すと、マリーシアは澄まして背を伸ばした。こういうところは、以前のように屈託がない。
「はい、いいですよ。お似合いです」
「ふふ、ありがとう」
マリーシアは微笑み、くるりと回った。蜂蜜色の髪と水色の緑柱石がキラキラと光をはらむ。
「大事にするよ」
ギュッとギーベルグラントに抱きつき、マリーシアは囁いた。
*
今までにギーベルグラントからもらった数々のお土産を前に、マリーシアは思案していた。
改めて思い返してみると、これまで、マリーシアから彼にお土産をあげた事が無かったことに気づいてしまったのだ――ギーベルグラントが、彼女を外に出させてくれないからではあるけれど。
「わたしもギイに何かあげたいなぁ」
呟いてみると、なおさらその気持ちが強くなる。
けれど、この邸の敷地から出ると必ずギーベルグラントがやってきて、あっという間に連れ戻されてしまうのだ。彼が見ていないうちにこっそりと抜け出したはずでも、何故か、さほど行かないうちに見つかった。以前にキュイの卵を拾った花畑あたりまでが限界で、その先には行けたことがない。
――ギイがすぐには迎えに来られないぐらい遠くに行けたらな……。
考えて、マリーシアはハタと思いつく。
一日で遠くまで行ける方法があった。
この方法なら、きっとお土産を手に入れる時間を稼げるに違いない。
マリーシアはニッコリ笑って頷いた。
手段が決まれば、後は何を目的にどこへ行くか、だ。
「う~ん……」
マリーシアはぎゅっと目を閉じ、眉根を寄せて考える。
物を手に入れるために「買い物」という行為があって、それには「お金」が必要であることは知っているけれど、あくまでも知識だけだ。彼女に必要なものは全てギーベルグラントが整えてくれるので、彼女は「お金」というものを渡されていない。どうすれば「お金」を手に入れることができるのかも知らない。
よって、「買い物」以外の手段で手に入るものであることが必須条件だ。
花は庭にたくさん咲いているけれど、そもそも、あの庭もマリーシアのために整えられたものであって、ギーベルグラント自身が花を楽しんでいる場面は見たことがない。
――お部屋に飾っても、最初に「きれい」って言ってくれるだけなんだよね……。
何か、形に残る物はどうだろう?
しかし、これも、彼が特にこだわりを持って蒐集しているような物はなく、お金を持っていないマリーシアが何かを入手するのは難しい。
――きれいな石とか、ダメだよね……。
そうなると、食べ物はどうだろうか。マリーシアは、以前、彼女がお菓子を作ったときのことを思い出す。ギーベルグラントは「美味しい」と言って、たくさん食べてくれた。
――うん、これなら喜んでくれそう。
屋敷の中で作っていたら、すぐに彼に知られてしまう。
「何か、果物、とか」
それならどこかに採りに行くわけだし、立派に「お土産」になる。
「うん、それがいい」
目的を決めたマリーシアはギーベルグラントの書斎に向かうと、幾つかの図鑑を取り出した。
「色々な果物があるのね」
色鮮やかな絵に目を奪われ、どれにしようかと迷う。そのうちの一つに、マリーシアは心を引かれる。
「あ、これがいいかな」
それはきれいな薄桃色で、ぽってりと可愛らしい形をしている。繁殖地を見ると、近くはないが、それほど遠くでもなさそうだ。何しろマリーシアは邸から出たことがないので感覚がつかめないけれど、多分、朝に出れば夕方には帰れるだろう。
「よし、決めた」
善は急げ、だ。
マリーシアは、早速準備に取り掛かった。
*
「マリーシア……?」
ギーベルグラントは、不意に彼を襲ったその衝撃に愕然とする。
慌てて邸の中、庭、そしてその外を伸ばした意識の触手で探るが、何処にもマリーシアの気配が感じられない。
つい先ほどまで、いつものように、ふわりと温かいマリーシアを感じていた筈だった。
煙のように消え失せる直前まで、いつもよりも楽しげに弾んでいるマリーシアの気配を、ギーベルグラントも楽しんでいたのだ。今も、彼女の気配がないという最悪な状態である以外には敷地内に変わった様子はなく、普段どおりに物静かだ。
最後に彼女を感じていた中庭に行ってみても、何も残っていない。
地面に直接手を触れ、地上のありとあらゆる場所を探ってみたが、やはり、何処にもマリーシアはいない。
「いったいどういうことなんだ!?」
かつてないほどに狼狽しながら、ギーベルグラントは手がかりを求めてマリーシアの部屋へ行く。
白と桃色で整えられた可愛らしい部屋に当然主はおらず、ギーベルグラントは次に何をするべきか考える事もできずに、ウロウロと歩き回った。
それほど広くはない部屋の中を何往復かした後、ようやく、ギーベルグラントは、マリーシアの書き物机の上に置かれた書置きに気付く。駆け寄り、藁にも縋る気持ちで手に取った。
一読する。
そして、そこに書かれていた内容に言葉を失った。
『お土産探しに行ってくるから、心配しないで待っててね。夕ご飯までには帰ります』
丁寧で可愛らしい文字。だが、内容には、目が眩む。
「マリーシア……」
唸るようにその名を呟いた。
そう言われれば、彼女の気配がなくなる直前、いつもの羽音が聞こえた気がする。
考えられるとしたら、あのワイバーンと共にいる可能性だ。つまり、彼女は今、空中にいるということになる。
地面との接点がないと彼女を見失ってしまうなど、自分でも、初めて知った。
「くそ! 捕まえたら鎖で縛り付けてやる」
ギーベルグラントはマリーシアには決して聞かせられない悪態をつき、絶対に実現不可能なことを呟いた。
*
一方、今にも心の臓が止まってしまいそうなギーベルグラントの気持ちなど全く知らないマリーシア。
空を飛ぶという初めての体験に、彼女はキュイの背中の上で歓声をあげていた。
「すごぉい。高い、速い!」
大きな背中にできるだけペッタリとへばりついていても、その風圧は凄い。キュイの頸と自分の胴とを紐で縛っていたけれど、油断すると飛ばされてしまいそうだった。
キュイの羽ばたき一つで邸はグングン遠ざかり、あっという間に見えなくなった。今は、絨毯のような森が遥か下方に見えるのみである。すこぶる気持ちはいいものの、これではどの木が目的のものかよく判らない。
腰に下げた袋から方位磁石を取り出して、太陽とも見比べながら方向を確かめる。
地図から考えると、このまま真っ直ぐ飛べば、目当ての木が群生していると記された場所まで行ける筈だ。
「キュイ、もっと低いところを飛べる?」
マリーシアがそう頼むと、ワイバーンはギャアと一声鳴いて、翼を大きく広げたままほんの少し頭を下げた。
ほんの少しの動きだけで、スイッと高度が下がる。
鳥のように羽ばたくと言うよりは、風に乗って滑空する形で飛ぶ。自分で走る時とは違う、爽快感だった。
頬で風を受けながら、マリーシアは、不意に、この風を知らずに逝ってしまった雛のことを思い出す――逝ってしまった雛を見送った時のことを。
置いていかれる悲しみを、初めて知った。
マリーシアは、ワイバーンにしがみつく腕に力を込める。
「ねえ、キュイ。わたしとギイって、どっちが先に死んじゃうのかな……?」
ワイバーンは名前を呼ばれて振り返ったが、当然のことながら、答えは返してくれない。
クウ、と気がかりそうに啼くワイバーンに、マリーシアは微笑んで首を振った。手を伸ばして、逞しくなった首筋を撫でてやる。
ギーベルグラントに拾われてから、マリーシアはずいぶん大きくなった。髪はどんどん伸びるし、体つきも変わってきている。
――でも、ギイは?
マリーシアは心の中で呟く。
覚えている限り、ギーベルグラントは全く変わらない。
そのことに気付き始めたのは、キュイを拾った時だった。
卵から孵って、あっという間に大きくなっていくキュイを見て、マリーシアは「生き物は変わっていくのだ」ということに気付かされた――気付いてしまった。
それでも、しばらくの間は、彼が大人だからだと思っていた。
しかし、色々な本を読んで、大人でも姿は変わっていくのだと知った時、マリーシアは自分とギーベルグラントとの違いを悟った。
――多分、自分は、いつか彼を置いていく。
そのことが身震いするほど、怖い。
雛の一件で、目を逸らしてきた現実を突きつけられた。
冷たくなった雛を両手の中に包んだ時、身を裂かれるようにつらかった。もしも……もしもマリーシアを喪ったら、ギーベルグラントにはどれほどの痛みを与えてしまうのだろう。
「ギイも、泣くかな?」
呟いてみると、マリーシアの目の奥が熱くなる。滲む視界を瞬きで散らした。
「まだ、考えたって仕方ないじゃない」
グイ、と顔を上げて、風を受ける。わずかな涙は、すぐに乾いて消えた。
「そう、まだ」
自分に言い聞かせるように、もう一度、呟く。
そうしておいて、眼下に目を遣った。
地図に描かれていた、目印となる川が見えてきており、目的地までもうすぐであることが見て取れた。それは間違えておらず、独特の葉色を持つ木々が群生している様が見えてきた。
「キュイ、あそこ、あそこよ!」
まるで花のように見える薄桃色の葉を持つ木が、川沿いに群生している。甘い芳香が、マリーシアたちのいるところまで漂ってきた。実がある証拠だ。
「あの木の上に降りたいの。できる?」
ワイバーンはギャ、と啼くと慎重に翼を動かし、ゆっくりと木々に近づく。
木登りなどしたことのないマリーシアには、下から実のある高い枝まで登ることなど不可能だ。
そうなると、空から降りるしかない。
客観的には非常に無謀な行動だったけれども、マリーシアには最善の方法に思えている。
ワイバーンと自分を結び付けておいた紐を外すと、マリーシアは精一杯手を伸ばし、太くてしっかりしていそうな枝を掴んだ。ぶら下がっておいてよじ登ろうという作戦である。
だが、しかし。
ぶら下がったはいいが、どうにもそこから動けない。腕の力で身体を持ち上げようとしても、サッパリだ。
――え、ウソ、何で?
それは、うまくいくと思っていたマリーシアのほうが間違いで、ろくに力仕事をしたこともない少女が懸垂などできるわけがない。
気付いた時には一杯一杯で、キュイに声を掛けようにも、わずかでも気を逸らせたらそのまま落ちてしまいそうで、「キ」と出すこともできなかった。
――あ、あ、もうダメ……。
じりじりと指が滑り、もう先の方が辛うじて引っかかっている程度だ。
そして、ついにその時がやってくる。
「きゃあ!」
指先が滑り、離れる。地面に叩きつけられる衝撃を堪えようと、マリーシアは小さく身体を丸めた。
――ギイ!
それは一瞬のこと。
トスッと音がして。
マリーシアは何処にも痛みはなく、身体によく馴染んだ感触が自分を包んでいることに気付く。
――え?
固く閉じた目を、恐る恐る開いた。が、飛び込んできた怖い顔に、もう一度閉じてしまう。
「マリーシア」
声も怖かった。その声が、もう一度彼女の名を呼ぶ。
「マリーシア、目を開けて私を見なさい」
有無を言わせぬ命令に、マリーシアはおずおずと眼瞼を上げていく。そして、今は誰よりも恐ろしいその名を口にした。
「ギイ……」
*
――見つけた!
待ち続けてようやく得た感触に、ギーベルグラントは歓喜する。この数時間、まさに全身を火で炙られているかのような苦痛に苛まれていたのだ。
ギーベルグラントはその気配の元に、即座に跳ぶ。
着いた先は甘い芳香が漂う、ペルチという果物の生る木が群生する場所だった。目の前にワイバーンがおり、面食らった表情で突然現れたギーベルグラントを見ている。だが、その背には誰も乗っていなかった。
マリーシアの気配は確かにここにあるし、そもそも、このワイバーンが彼女をどこかに落としてそのままにするわけがない。きっと近くにいる筈だ。
いったい、彼女は何処に……と周囲を見回したが、いない。場所は寸分違わず合っている筈なのに、と焦るギーベルグラントの目の前に、薄紅色の木の葉が幾つか舞い降りる。
何の気なしに見上げると、「そこ」に彼女がいた。そして彼が気付いた瞬間に、降ってくる。
ギーベルグラントはとっさに受け止め、自分の腕の中に大事な温もりがあることを実感する。安堵のあまり、その場にへたり込みそうな脱力感に襲われた。が、数瞬遅れて、それは凄まじい怒りにとって代わる。
その感情はあまりに激しく、言葉を発することができない。
マリーシアの空色の瞳がゆっくりと開かれ、ギーベルグラントと眼が合った途端に、再び閉じられる。
「マリーシア」
固く目を閉じて身を縮めている少女に、声を掛けた。しかし、彼女はより一層目蓋に力を込める。
「マリーシア、目を開けて私を見なさい」
彼が低い声で繰り返すと、観念したようにそろそろと、目蓋が上がり始めた。マリーシアはその目で「怒ってる?」と問い掛けている。自分が彼女を怯えさせていることがわかったが、全く制御できなかった。
いったい、どうすべきだというのか。
大声で怒鳴るべきか。
それとも、頬を張るべきか。
普段であれば、絶対に有り得ない選択肢である。だが、この、自分の存在を千々にかき乱す事態に、ギーベルグラントの思考は停止していた。
どちらか一方、あるいは両方の行動を取りそうになった時、彼の耳に「ギイ」と小さな声が届く。
その瞬間、ギーベルグラントの両腕は、頭が命令を下すよりも先に、マリーシアの小さな身体を渾身の力で抱き締めていた。固く目を閉じ、額を彼女の身体に押し付ける。
――このままでは彼女が壊れてしまう。
そんな思考が頭の隅をよぎったが、腕の力を緩めることができない。
――何故、あの時、このちっぽけな存在に手を伸ばしてしまったのか。
ギーベルグラントは自問する。
初めて彼女に会った時、そのまま捨て置いてさえいたら、こんな激情は知らずに済んだ。
だが、そうしなかった自分は、想像できなかった。きっと、何度やり直しても、同じことを繰り返すに違いない。
不意に、ギーベルグラントの額に、温かく、柔らかいものが触れる。目を開けると、小さな手のひらがあった。
「ごめんね、ギイ……ごめんね?」
おずおずとした、けれども心の底からの言葉。
刹那嵐は消え去り、代わって、ギーベルグラントの胸の中に狂おしい想いが満ち溢れる。
ギーベルグラントが顔を上げてしまうと、マリーシアの手は届かない。宙に浮かんだその手を取り、彼は頬に押し付ける。
「お願いです、マリーシア。あなたに何かあったら、私は……」
「うん、……ごめんね」
彼の耳をくすぐる、いつもの甘くまろやかなものよりも、わずかに大人びた声。繰り返した謝罪と共に、マリーシアは両腕を伸ばしてギーベルグラントの頭を抱き締めた。
*
「いいですか、マリーシア。しばらくは外出禁止です。黙って遠くに行くなんて、言語道断なんですからね!?」
邸に着いた頃には、ギーベルグラントはすっかり普段どおりの彼に戻っていた。
マリーシアは小さくなって、ギーベルグラントの雷を受け止める。
「まったく、外は危ないんです。その上、あのワイバーンに乗るなんて、無謀すぎます!」
「でも、ちゃんと紐で縛ったのよ?」
小さな声での反論に、ギーベルグラントの眼が光った。その『紐』を彼女の目の前に突き出し、ぶらぶらと振る。
「こんな紐、簡単に切れてしまいますよ。今回、何事もなく帰ってこられたのは、とても運が良かったんです。そこのところを、充分に承知しておいてください」
まるで亀のように首を竦めているマリーシアに、ギーベルグラントの視線がビシビシと突き刺さった。
しばしの沈黙。
やがてお説教が十二分に染み渡ったと判断し、ギーベルグラントは一息つく。
「まあ、今回は、これでおしまいにします。でも、もしも今度同じことをしたら、もう許しません。一生外出禁止にしますからね」
マリーシアがコクコクと頷くのを確認してから、ようやく表情を緩めた。
「じゃあ、せっかく採ってきたことですし、ペルチを食べましょうか」
「わたしが剥いてあげる!」
マリーシアの顔がパッと輝く。その笑顔に、ギーベルグラントは、自分の中の最後の怒りの一片が霧消したことを自覚した。甘いことは承知しているが、彼女に対して負の感情を持続させておくことは難しい。
いそいそと冷やしておいたペルチの実を持ってきたマリーシアは、その小さな手で皮を剥き始めた。
ペルチの実の皮を剥くのは簡単だ。ナイフを使わずとも、素手でペロリと剥がせる。
「はい!」
ツルンとしたペルチの実を、マリーシアが得意げに差し出す。
「ありがとうございます。いただきます」
期待に満ち満ちた眼差しで見守られながら、ギーベルグラントは実を口に運ぶ。瑞々しい果実は充分に熟れていて、舌の上で蕩けるようだ。
「とても美味しいです」
「よかった!」
マリーシアの満面の笑みに、ギーベルグラントは「まあ、いいか」と内心で呟いてしまう。この「お出かけ」がなければ、まだこの笑顔を見られずにいただろう。
所詮、ギーベルグラントはマリーシアに敵わない。
「ごちそうさまでした」
ギーベルグラントがそう言うと、皿の上に残った種に、マリーシアが手を伸ばした。それを布巾に包んで、彼女は大事そうに握りこむ。
「わたしね、この種をお庭に植えたいの」
「これを? もう、庭には、随分色々と植えていますが……」
「いいの」
そう言って、マリーシアは「ふふ」と笑う。そのいたずらっぽい笑顔にギーベルグラントは怪訝な顔をするが、マリーシアは構わず彼に抱きついた。
そして、耳元で囁く。
「ずっと、大好きだよ、ギイ。……ずっと」