幕間:Wishing you birthday blessings
キュイが生まれて、すぐの頃
「わたしね、ギイって『秋』みたいだと思うのよ。だってね、秋って、いっぱいおいしいものがあるでしょう? だから、秋になると、とっても幸せな気持ちになるの。それって、ギイと一緒にいるのと似てると思うの。ねえ、キュイ、そう思わない?」
さんさんと秋の爽やかな陽射しが降り注ぐ中、マリーシアは目の前にチョコンと座らせたキュイに得々として語りかけていた。当のキュイは、解かっているのか解かっていないのか、首をかしげてじっとマリーシアに聞き入っている。
「ギイはね、いっつもわたしのお話を聴いてくれて、そうだねって笑ってくれて、わたしをとっても幸せにしてくれるの。キュイはお誕生日って知ってる? あのね、この世界に、初めて『こんにちは』した日なんだって。ご本に書いてあったの。キュイのお誕生日は、ちゃんと覚えてるよ。ちっちゃなお鼻が見えたとき、とっても嬉しかったから」
そう言ってキュイの頭を撫でてやると、まだまだ小さなワイバーンは嬉しそうに目を細め、「キュイ」と可愛らしい声を上げる。その仕草に、マリーシアも思わず笑顔になった。
「それでね、わたしがね、お誕生日が欲しいなぁってギイに言ったら、じゃあ、春になって最初にお花が咲いた日を、わたしのお誕生日にしようって言ってくれたの。だから、わたし、今年の冬は春になるのがとっても楽しみだった!」
その時のワクワクした気持ちを思い出すと、マリーシアは今でもパアッと笑顔になってしまう。すると、まるで彼女の嬉しさが伝染したかのように、キュイがバタバタと羽を打ち振るった。巻き起こる風に、彼女はもっともっと笑顔になる。
「うふふ。……わたし、ギイに『ありがとう』って言いたいなぁ。ギイのお誕生日も、お祝いしたいなぁ……」
けれどもそれには一つ問題がある。マリーシアの誕生日に、彼女はギーベルグラントに彼の誕生日がいつなのかを訊いたのだけれど、彼は首をかしげて「知りません」と答えたのだ。
「うぅん、どうしよう……」
マリーシアは、両手を突いて、うなだれる。
誕生日が無いのなら、いつお祝いしてあげたらいいのだろう。
急に元気をなくしたマリーシアを心配したのか、キュイがフンフンと鼻を鳴らしながら覗き込んでくる。
マリーシアは一生懸命に小さな頭を悩ませて、不意に、ハッと気が付いた。
「あ、そっか。ギイのお誕生日も、作ってあげたらいいんだ!」
それは、とてもいい考えのように思われた。折りしも、今は秋。ギーベルグラントの誕生日にするにはピッタリの時期だ。
「いつがいいかなぁ……」
何か、節目が欲しい。
またまたしばし考えて。
「お月さま……お月さまがまん丸になった時にしよう!」
暗い夜も明るく照らしてくれる満月は、これもまた、ギーベルグラントにピッタリな気がした。真っ暗な夜でも、ギーベルグラントがいてくれれば、マリーシアは全然怖くなくなるから。
まさに、ピッタリ。
日が決まったら、次は何をするか、だ。
できたら、ギーベルグラントがマリーシアの誕生日に作ってくれたようなケーキを、食べさせてあげたい。けれども、キッチンは火や刃物が危ないから、と、マリーシアは入れさせてもらえないのだ。キッチンを使わないで作れるケーキが、あるだろうか。
「ケーキはできないかなぁ。でも、ケーキがいいなぁ……」
考えて、考えて。
あ、と思いつく。
それは、とっても名案だと思われた。火も、刃物も使わないで作れるケーキ。きっと、可愛くておいしいケーキになる。
マリーシアはあんまり嬉しくて、キュイにニッコリと笑いかける。
「決まったよ。キュイも手伝ってね!」
そう言ってマリーシアが立ち上がると、まだ何も解かっていないはずの小さなワイバーンは、「キュイ」と可愛い声で一鳴きした。
*
二階の書斎で本の整理をしていたギーベルグラントは、ふと視界の隅をよぎった光景に思わず振り向いた。そして、窓にへばりついて凝視する。
――彼女は、いったい何を!
そこにあったのは、果樹園に置かれたベンチの背もたれによじ登ろうとしているマリーシアの姿。その下では、ワイバーンの幼生がウロウロしている。
彼女は、懸命に、樹に生っている果実を採ろうと手を伸ばしているが……。
ギーベルグラントは目が離せないが故に、窓から離れることもできない。というより、身動き一つ、できなかった。
マリーシアは垂れ下がっている実に手を伸ばし、そして――
彼女の身体がぐらりと揺れたのが見えた瞬間、ギーベルグラントはその場に跳んでいた。「きゃ!」と小さな悲鳴を上げたマリーシアを、間一髪でハッシと支える。
「あれ、ギイ?」
何してるの? と言わんばかりの、キョトンとした表情で彼女は見上げてくる。よくよく見れば、今朝も彼が綺麗に結ってあげた金色の髪はくしゃくしゃだし、ふんだんにレースを使ったドレスは泥だらけ、あろうことか、一部はかぎ裂きまで作っている。
いったい、何をしていたのか。
たった今、彼が間に合わなければどんなことになっていたか、判っているのだろうか。
そう思った瞬間、ギーベルグラントの口からは、滔々とお説教が流れ出していた。
「マリーシア、あなたは時々おてんばが過ぎます! 庭で寝転がってドレスを泥だらけにしてしまったり、色々なところに潜り込んだり、出てはいけませんと言うのに庭の外に出て妙なものを拾ってきたり。そんなことでは、立派な淑女になんてなれませんよ? いったい、今日は何ですか。ベンチは座るものであって、よじ登るものではありません。そのワイバーンのせいですか? もしそうなら、外に放り出してしまいますよ?」
初めは殊勝にうなだれていた彼女だったが、最後の一言で、キッと見上げてくる。
「キュイのせいじゃないもん! それに、キュイは『キュイ』で『ワイバーン』じゃないもん!」
元々丸いマリーシアの頬が、より一層膨れてくる。
「そんなふうに言うギイなんて、知らない! 怒ってばっかりのギイなんて、きらいになっちゃうんだから!」
そう、言い切ったマリーシアの台詞に、ギーベルグラントの思考がピタリと停止した。
――嫌い……? マリーシアが、この私を……?
彼の頭の中を、彼女の声で放たれた「きらい」という三文字がグルグルと無限に巡る。
固まってしまったギーベルグラントに、マリーシアは微かに視線を揺るがせて何か言いかけたが、結局ムッと口を噤む。
「……キュイ、行こ!」
足元で二人を交互に見比べていたワイバーンにそう声を掛けると、彼女はタタッと走っていってしまった。ワイバーンがベンチに置かれていた布の袋くわえてその後を追う。去り際にギーベルグラントに流していった視線がどこか嬉しそうだったのは、気の所為か。
茫然自失の態で彼女を見送り、その小さな姿が完全に視界から消え去っていってしまっても、ギーベルグラントは動き出すことができなかった。
――彼女が……私のことを……『きらい』と……。いいや、そんな、まさか。
打ちのめされた彼の心は、耳に入ってきたその言葉を無かったことにしようとする。が、消滅させることはできなかった。
その時彼は、がっくりとその場に膝をつかないようにするだけで、精一杯だったのだ。
*
同日、夜。
夕食は散々だった。
マリーシアの好物だけを作ったのだが、彼女が発した言葉は『いただきます』『ごちそうさま』だけ。いつもであれば、「おいしい、おいしい」と満面の笑みを浮かべてくれるのに。
――これが、いわゆる反抗期というものなのだろうか。
その言葉は、たいていの育児についての書物に出てくるものだ。世の人の親がみな、苦労すると。
だが、マリーシアに限っては、そんなものは有り得ないと信じていたのだ。
それなのに、彼女の口から、『きらい』という言葉を聞かされるだなんて。
二度とマリーシアが口を利いてくれなくなったら……?
二度と、マリーシアが笑顔を見せてくれなくなったら……?
そんな状態に、耐えられるだろうか――いや、耐えられる筈がない。
煌々と書斎の中を照らす満月の光の中で、悶々と思い悩むギーベルグラントは深々と溜息をつく。
と。
コンコン、と。
小さなノックの音が、ギーベルグラントの物思いを破った。
「はい、どうぞ?」
返事をすると、少し間を置いて扉が開かれる。そして、金色の頭が覗いた。
「入って、いい?」
いつもなら、確認などしない。駆け込む勢いで入ってくる。
「どうぞ」
とりあえず、就寝前に彼女の声が聞けたことに安堵して、ギーベルグラントは促した。
躊躇いがちに部屋の中に入ってきたマリーシアは、両手に箱を携えている。彼女はそれをそっと書斎の机の上に置いた。
「?」
思わず目で問い掛けてしまうと、彼女は小さく首をかしげながら答えてくれる。
「あのね、ギイはわたしにお誕生日をくれたでしょう? だから、わたしもギイのお誕生日のお祝いをしたいなって思ったの。でも、ギイもお誕生日を知らないって言ってたから、秋の満月の日にしようって思って……」
「マリーシア……」
その名を口にする以外に、言葉が無い。
「――これからは、この日がギイのお誕生日ね。いつもいっぱいお話聴いてくれて、ありがとう。いつもいっぱい優しくしてくれてありがとう。来年も、そのまた次の年も、ずぅっとお祝いしていこうね」
甘く柔らかなその声を聞きながら、ギーベルグラントはマリーシアが持ってきた箱の蓋を開ける。そこには、たくさんの果物で作られた『ケーキ』が納められていた。思わずマリーシアを見つめたギーベルグラントに、彼女はニッコリと笑顔になる。
「やっぱり、ケーキが欲しいなって、思ったの。わたしがギイに作ってあげたいなって。お誕生日ケーキのろうそくの火をね、何かお願いしながらフウッてするの。そうしたら、お願い事が叶うんだって。あ、しゃべっちゃダメだよ! 心の中で、お願いするの」
言われるがままに、ギーベルグラントは『ケーキ』の真ん中に一本だけ立てられたろうそくに火を点けると、吐息で吹き消す。
彼女の言葉通り、彼の願い――ただ一つの願いを、心の中に強く念じながら。
ギーベルグラントの様子を見守りながら、マリーシアは火が消えるとコクリと頷いた。
「ね、叶うといいね。あとね、これも……」
そう言いながら、マリーシアは一枚の絵を広げてみせる。そこにあるのは、優しげな笑顔の……。
――彼女の目には、自分はこんなふうに映っているのか。
笑顔の自分など想像もできずにいる彼の腰に、マリーシアがキュッとしがみつく。そして、その空色の目で真っ直ぐに見上げながら言った。
「あのね、『きらい』なんて、ウソよ。ギイのことをきらいになんて、絶対ならないよ。ゴメンね、ホントは大好きなの。これからもずっとずっと、大好きだよ」
彼女の声を聞いているとこみ上げてくるこの想いは、一体何と呼んだらいいのだろうか。
ギーベルグラントの両腕は何も考えることなく自ずと上がり、彼女の身体を抱き締めた。
彼はふと、満ちては欠けていく夜空の銀盤を見上げる。
腕の中のその温かさを感じるほどに、ギーベルグラントは、このもろく頼りない存在が壊れることのないように、と祈らずにはいられなかった。